聴いて・わかる。日本の歴史~江戸幕府の始まり

こんにちは。左大臣光永です。

本日は新商品のご案内です。

「聴いて・わかる。日本の歴史~江戸幕府の始まり」

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二代徳川秀忠から七代徳川家継の時代まで。

江戸の町づくり・春日局・徳川家光と鎖国の完成・島原の乱・由比正雪の乱・明暦の大火・徳川綱吉と生類憐れみの令・新井白石と宣教師シドッチ。そして元禄文化の担い手たち、松尾芭蕉や井原西鶴、近松門左衛門や初代市川團十郎など。

江戸時代初期のさまざまな事件や人物について、解説した音声つきdvd-romです。

二代 徳川秀忠のこと

徳川秀忠といえば、初代家康と三代家光の間にあって、「凡庸な二代目」というのが一般的なイメージではないでしょうか?

天下分け目の関ヶ原合戦に遅刻して、父家康の怒りを買ったというエピソードが、「凡庸な二代目」のイメージを強めているのだと思います。

たしかに家康存命中、秀忠の活躍は冴えないものでした。駿府で家康が大御所として政治の舵を取り続け、秀忠が独自に判断できることはほとんどありませんでした。

しかし、家康が没して本格的に秀忠時代が到来すると、秀忠はがぜん活発になります。実に41家もの大名を取り潰し、徳川の力を示しました。潰された中には徳川の身内である松平忠輝や、関ヶ原で徳川に尽くした福島正則もあります。

将来の危険分子を、容赦なく排除して、徳川260年の基盤を築いたのが秀忠と言えます。

秀忠は自分が父家康のような卓抜した能力もカリスマ性も無いことをじゅうぶん承知していました。その上で、将来暗君や自分のような凡庸な君主が出た時のために、将軍だけがなんでも決めていくのではない。集団の、合議制によって決めていことが必要だとして、老中制というシステムを作り上げました。

このような人物がはたして凡庸でしょうか?

そうでは無いでしょう。

徳川秀忠の生涯を見ていくことは、徳川260年の歴史のみならず「組織」や「国家」というものについて考える、よい機会になると思います。

江戸の町づくりのこと

また、江戸の町づくりについて語りました。

江戸は自然発生的にできた町ではなく、天正18年(1590)徳川家康が入府してから、急ピッチで都市として整えられていきました。家康が、家光が作った江戸の町の工夫は、現在の東京でもいたる所で目にすることができます。

たとえば神田上水です。

江戸に町を開くにあたって何より必要なのは飲料水の確保でした。

そこで、家康が切り開いたのが神田上水です。

井の頭池を水源とする神田川を、関口村(文京区関口)の関口大洗堰でいったんせきあげます。

神田上水
神田上水

関口(現江戸川橋公園)
関口(現江戸川橋公園)

関口(現江戸川橋公園)
関口(現江戸川橋公園)

せき上げられた水は上水路を通って、いったん水戸徳川家の上屋敷(現後楽園一帯)へ入り、

神田上水
神田上水

水戸徳川家 上屋敷跡(小石川後楽園)
水戸徳川家 上屋敷跡(小石川後楽園)

現在の水道橋あたりで神田川の上にかかる掛樋(かけひ)を通って神田川を渡ります。神田川の上に細い水路を渡して、水を通したんですね。JRの駅名にもなっている「水道橋」はこの掛樋から来ています。

こういう話もふまえて現在の東京を歩くと、さまざまな発見があって楽しいと思います。

たとえば上野公園。

上野恩賜公園
上野恩賜公園

上野恩賜公園は、かつての寛永寺の跡地を明治6年(1873)に公園としたものです。

現在の寛永寺は上野恩賜公園の北にごく小さく残っています(小さいといってもそれなりに大きいですが)。しかし創建当時の寛永寺は、上野公園のほぼ全域におよぶ広大なものでした。

現・寛永寺 根本中堂
現・寛永寺 根本中堂

徳川家康の帰依を受けた天台宗の僧天海が江戸城の鬼門封じのために創建されたと言われています。

「気は長く 勤めは固く 色薄く 食細うして 心広かれ」

という天海僧正の歌は有名です。天海僧正は108歳とか134歳まで長生きしたということですけども、本当でしょうか。

二代秀忠の時代に寛永寺の本堂が作られ、三代家光の時代にかけて大仏殿、清水観音堂、根本中堂などが築かれていきました。

しかし、慶応4年(1868)5月の彰義隊の上野戦争で、寛永寺は清水観音堂・五重塔などを残してほとんど焼けてしまいました。

その後いろいろあって、明治6年(1873)上野恩賜公園してスタートを切りました。

こういう話もふまえて、現在の東京を歩いてみるとさまざまな発見があって面白いと思います。

三代  徳川家光のこと

三代将軍家光。

歴代の徳川将軍の中でも名君として真っ先に名が上がる人物です。人気が高いです。

では家光の何が名君だったのか?

参勤交代を制度化したこと。

後々まで続く江戸幕府の組織や制度を整えたこと。

祖父家康を深く信仰し、日光東照宮の大造替を行ったこと。

そしてここは賛否両論ありますが、

いわゆる「鎖国」を完成させたことの功績も大きかったと私は思います。

といっても家光の代でいきなり鎖国、と言い出したのではなく、秀吉以来、長い時間をヘて最終的に鎖国に至りました。

秀吉も、家康も、秀忠も、海外貿易の利益は感じながらも、宣教師が入り込んでくるのをひどく嫌いました。

宣教師たちは商人に化けて潜伏し、禁じても禁じてもキリスト教の布教をやめませんでした。

秀吉以来、代々の為政者が恐れたのは宣教師が侵略のためにやってくるのではないか?ということです。

宣教師は侵略の尖兵としてやってくるのだ、宣教師をのさばらせておくといずれ中南米・フィリピンのように日本も植民地にされると。

もっとも宣教師が日本に来だした頃はスペインもポルトガルもすっかり昔日の勢いを失っています。

たとえポルトガルやスペインが宣教を侵略の道具に使おうとしても、ムリだったと思います。

当時のポルトガルにもスペインにも、わざわざ海の向こうの小さな島に征服に向かうメリットも無ければ、余裕もありませんでした。

ただし為政者としては、性悪説に基づき、最悪の事態を考えて対処するのは当たり前だと思います。

以前、カトリックの信者の方から私のメルマガに反論をいただきました。

>(イエズス会の宣教は)あくまでもカトリックローマ教皇庁の意向にそった純粋な基督教の布教であって、国を乗っ取るための戦略ではありません。

「純粋な」布教…さてこの「純粋」が一番怖い言葉なんですが。

反論してみましょう。

もろちんイエズス会の宣教師が日本を乗っ取ろうとして政府と結託していたわけではないと思います。

宣教師はあくまで純粋にキリストを述べ伝えようとしただけでしょう。彼らに邪心がなかったという点は私もおそらくそうだろうと思います。

しかし、かつて南米やフィリピンでキリスト教の宣教と侵略がセットで行われてきたことは事実です。宣教師たちは侵略の尖兵として占領地に赴き、被征服民に対してキリスト教の信仰を強制しました。

このようなキリスト教会の過去の蛮行については2000年にローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が公式に謝罪しています。

そもそも「宣教」という行為そのものが、他国に対する思想的・文化的侵略という側面を含んでいます。

宣教師たちは一夫一婦制というキリスト教の(しょうもない)ローカルルールを押し付け、男色は地獄に堕ちるぞといって日本の僧侶を脅しました。

先祖を大切にする日本の風習を無視し、伝統的な先祖信仰を攻撃しました。こういうのを「いらんお世話」というのであって、思想的・文化的侵略と言うのです。

…とこんな感じで反論したのですが、カトリックの方から内容のある反論は得られませんでした。

徳川家光の伝説

徳川家光といえば、歴史に記録されたマジメな話のほかに、いろいろと伝説が多い人物です。けっこう、微笑ましいエピソードが多いんですね。

ある時家光はお供と離れて、品川の鷹場に入っていきました。すると鷹場の番人が、

「貴様!ここは禁制の鷹場であるぞ!
なに鷹狩しようとしてんだ」

「苦しうない、苦しうない」

「何だその偉そうな態度は。でやっ」

棒を振り上げて追いかける番人

「苦しうない。苦しうないと言っておろうに」

逃げ出す家光。

「まったく上様はどこへ行かれたのだ…やや、
何やら騒がしいな。何事だ?」

お供の者が遅れてきてみると、家光が番人に追いかけられている。

「何たること!こら!そこな番人!」

番人は追いかけることに夢中でしたが、呼び止められて、よくよく話をきくと、将軍さまだというので、真っ青になってもう人生の終わりだと、逃げ出そうとしますが、家光は、

「熱心な番人である。褒美を取らす」

と、こんな話が伝わっています。

落語の「目黒のさんま」も家光をモデルにしていると言われます。

将軍さまがお忍びで目黒を歩いている時、下々の者が食べるさんまを召し上がった。それが大変気に入られた。江戸城に帰ってからも、さんまが食べたくて仕方ない。ついには「さんまは目黒に限る」と言ったと。

こういう言い伝えも含めて、三代将軍徳川家光については全11回にわたって語りました。

島原の乱(島原・天草一揆)のこと

島原の乱について。

私は島原の乱(島原・天草一揆)を語るにあたって、島原・天草のキリシタン関係の資料館にいくつか取材してきました。

島原の乱最後の激戦地 原城跡
島原の乱最後の激戦地 原城跡

どの資料館でも共通していってるのは、とにかく島原や天草のキリシタンはひどい目にあった。幕府からさんざん弾圧された。そこで信仰を守るために天草四郎以下、立ち上がったのだと。

…こういう説明をきいていると、一方的に幕府が悪で、一揆側が可哀想な善人たち、というふうに思えてきます。

しかし、言うまでもなく歴史に善も悪もなく、それぞれの置かれた立場と事情があるだけです。

だから双方の立場と事情を、できるだけ公平に語るのが歴史を語る上で大切だと私は思っています。ところが島原の乱に関しては、「一揆側は可哀想な善人ばかりだった」というイメージがまかり通っています。

はたして一揆側は「可哀想な」「善人ばかり」だったんでしょうか?

たしかに島原・天草のキリシタンは酷い弾圧を受けていました。改宗しない者は生きたまま雲仙岳の火口に投げ込まれました。熱湯をかけられ火あぶりにされ、あるいは海に投げ込まれました。

しかしこれは歴史の一面です。

島原で一揆が始まるや、キリシタンたちは寺や神社を燃やし、家々に火をつけ、僧侶を殺しました。一揆に協力しない村人や、通りがかりの旅人まで殺しました。

武器を突きつけ、いやがる浄土真宗信者などを無理やりキリスト教徒にして原城の中に強制連行し、しかも逃げ出さないように見張りまでつけていました。

だからといって私は島原・天草のキリシタンが極悪人のとんでもない連中だ、と言うつもりはありません。

彼らは彼らの生きた時代において、己の信じるところに従って行動したのでしょう。

しかし、このようなキリシタン側の残虐行為を一切言わず、教えず、島原の乱のキリシタンたちは純粋に信仰のために立ち上がった。まことに心の美しい、立派な人たちだったなんて言うのは、バカも休み休み言えって話なんですよ。

私が語る「島原の乱」では、幕府側の残虐行為も、一揆側の残虐行為も、双方、容赦なく語っています。

カトリックの方々からはまた猛反発が来ると思いますが。

私は別段、カトリックにもプロテスタントにも、世界のどんな宗教にも味方しないし、恨みもありません。

どの党派にも組織にも、宗教にも属さない、私左大臣光永だからこそ語れる、「島原の乱」です。ぜひ聴いてみてください。

五代 徳川綱吉と生類憐れみの令

五代徳川綱吉は、近年評価が揺れている人物です。かつての評価は酷いものでした。マザコンで、偏執狂で、どうしようもない暗君だと。しかしこういう綱吉についての悪いイメージが、最近変わりつつあります。

中野 犬屋敷跡
中野 犬屋敷跡

綱吉は実は名君だった。生類憐れみの令は、儒教の考えに基づくすばらしい法律だった…こんな話が、特にテレビで聞かるようになりました。

綱吉は儒教に基づく立派な考えで、戦国の殺伐とした空気を終わらせた。まことに綱吉こそ名君であったと。

またテレビに出てくる学者たちがこぞって綱吉を持ち上げています。綱吉こそ名君だ。綱吉のおかげ動物愛護のみならず人の優しさが大切にされたのだ。

少し歴史を勉強した人の間では「綱吉は実は名君だった」と言ってみるのが、一種、トレンドのようになっています。

私はこうした、綱吉は名君だったという風潮に、同意しません。

綱吉は暗君であり、生類憐れみの令は史上稀に見る悪法だった。

それが私の考えです。

テレビと御用学者が綱吉を持ち上げる理屈はだいたい決まってます。

戦国の世の殺伐とした気風が、五代綱吉の時代になっても続いていた。捨て子や捨て牛馬が多く、生き物が大切にされない空気があった。そこで綱吉は、儒教の考えに基づき、生き物を大切にしようと言い出したんだ。

けして民衆をいじめることが目的だったのではないと。

しかしどうでしょうか?

結果として民衆をいじめることになったのだから、理念がどんなに立派でも、それはクソです。

「戦国の殺伐とした空気を終わらせた云々」のフレーズは綱吉擁護論をふりかざす御用学者が必ず言うことですが、元ネタは『徳川実紀』にある文章です(『徳川実紀』「常憲院殿御実紀附録」)。

しかし『徳川実紀』の文章は前半で綱吉の政治理念を評価しながら、後半ではちゃんと批判もしています。

ところが綱吉を持ち上げる御用学者は「徳川実紀」前半の擁護論だけを取って、綱吉はすばらしいとします。意図的なミスリードです。

「生類憐れみの令で処罰された人なんか、ごくわずかだ。問題にもならない」

という反論もあります。しかし年間数人が犬のために処刑され、年間数十人が犬のために捕らえられたと記録にあります。

生類憐れみの令を悪法と言うにはじゅうぶんすぎる数字です。

蚊をつぶしたので、島流しになったという話もあります。たとえ一人でも、そんなバカなことで処罰されたなら、生類憐れみの令を悪法というには十分です。

「元禄時代は平和で豊かな時代だった。それは綱吉が儒教に基づく、いい政治をしたおかげだ」

こういうことを言う人もいます。はたしてそうでしょうか?

たしかに元禄時代は平和で豊かな時代でした。

しかしそれは家康以来の為政者たちが命がけの戦いを経て勝ち取ったものです。家康があんなに汚いマネまでして豊臣家を潰していなかったら?戦国の世がずっと続いていたかもしれません。

家康以降の積み重ねがあったからこそ、綱吉のようなバカ殿でも平和が保たれたんです。

平和というのは、力と、冷静な判断の上にはじめて築かれるものです。けして綱吉のような、空想的理想主義の上になるものではありません。

綱吉が元禄の平和を築いたというのは、家康以来の徳川幕府の命がけの戦いをすべて忘れた、ナメた考えです。歴史についての認識も、人間についての認識も、浅すぎます。

徳川綱吉から話が飛びましたが、こういうふうに現代の政治や社会情勢と重ね合わせても、歴史というものは学ぶところ考えさせられるところが多いと思います。

というわけで発売です。

「聴いて・わかる。日本の歴史~江戸幕府の始まり」

二代徳川秀忠から七代徳川家継の時代まで。

江戸の町づくり・春日局・徳川家光と鎖国の完成・島原の乱・由比正雪の乱・明暦の大火・徳川綱吉と生類憐れみの令・新井白石と宣教師シドッチ。そして元禄文化の担い手たち、松尾芭蕉や井原西鶴、近松門左衛門や初代市川團十郎など。

江戸時代初期のさまざまな事件や人物について、48話にわたって解説した、音声つきdvd-romです。

内容一覧

01二代秀忠(一)二人の兄
02二代秀忠(ニ)お江与との結婚
03二代秀忠(三)関ヶ原の失態
04二代秀忠(四)家康・秀忠二元政治時代
05二代秀忠(五)改易の嵐
06二代秀忠(六)秀忠の政策
07江戸の町づくり(一)家康時代
08江戸の町づくり(ニ)秀忠・家光時代
09三代家光(一)家光とお福
10三代家光(ニ)竹千代と国松
11三代家光(三)生まれながらの将軍
12三代家光(四)紫衣事件
13三代家光(五)春日局
14三代家光(六)御代始めの御法度
15三代家光(七)家光についての俗説
16三代家光(八)参勤交代の制度化
17三代家光(九)寛永の大造替
18三代家光(十)鎖国の完成
19三代家光(十一)家光から家綱へ
20島原天草一揆(島原の乱)(一)一揆の始まり
21島原天草一揆(島原の乱)(ニ)原城の戦い
22由比正雪の乱(慶安事件)
23明暦の大火(一)
24明暦の大火(ニ)
25五代綱吉(一)綱吉時代の始まり
26五代綱吉(ニ)天和の治と側用人柳沢吉保
27五代綱吉(三)生類憐れみの令
28五代綱吉(四)貨幣の改悪と儒教への傾倒
29五代綱吉(五)綱吉から家宣へ
30元禄赤穂事件 吉良邸討ち入り
31松尾芭蕉の生涯(一)伊賀上野時代・日本橋時代
32松尾芭蕉の生涯(ニ)深川時代
33松尾芭蕉の生涯(三)『おくのほそ道』の旅
34松尾芭蕉の生涯(四)晩年
35井原西鶴と矢数俳諧
36三井高利と越後屋呉服店
37紀伊国屋文左衛門の伝説
38近松門左衛門と竹本義太夫
39出雲阿国と歌舞伎のはじまり
40初代市川団十郎と坂田藤十郎
41新井白石(一)二度の浪人時代
42新井白石(ニ)甲府宰相・徳川綱豊に仕える
43新井白石(三)閑院宮家の創設
44新井白石(四)正徳の治
45新井白石(五)宣教師シドッチ
46新井白石(六)家宣から家継へ
47新井白石(七)家継の死去と隠居後の白石
48絵島生島事件

総時間:約8.0時間

在庫がなくなり次第販売終了となります。お申込みはお早めにどうぞ。

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価格:3000円(税込)






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セット購入がお得です。

また、本製品の発売にあわせて、前作「天下統一への道 信長・秀吉・家康」とのセット購入が割引価格でお得になっております。

前作「天下統一への道 信長・秀吉・家康」は、織田信長・豊臣秀吉の時代から関ヶ原の合戦、江戸幕府のはじまり、大阪夏の陣で豊臣家が滅亡し、徳川家康が亡くなるまで、激動の戦国時代後半70年間を語ています。

内容一覧

織田信長篇 内容一覧

織田信長(一) 吉法師
織田信長(二) 平手政秀の死
織田信長(三) 斎藤道三との会見
織田信長(四) 長良川の合戦
織田信長(五) 織田信行の反乱
織田信長(六) 山口教継の離反
織田信長(七) 桶狭間の合戦
織田信長(八) 美濃平定
織田信長(九) 天下布武
織田信長(十) 流浪の足利義昭
織田信長(十一)足利義昭、十五代将軍となる
織田信長(十二)ルイス・フロイス
織田信長(十三) 五箇条の諚書
織田信長(十四) 越前侵攻
織田信長(十五) 姉川の合戦
織田信長(十六) 本願寺顕如
織田信長(十七) 志賀の陣
織田信長(十八) 比叡山焼き討ち
織田信長(十九) 近江・小谷城攻略
織田信長(二十) 十七ヶ条の異見書
織田信長(二十一) 信玄、西上
織田信長(二十二) 三方ヶ原の合戦
織田信長(二十三) 足利義昭、挙兵
織田信長(二十四) 槇島城の戦い
織田信長(二十五) 朝倉・浅井を亡ぼす
織田信長(二十六) 長篠の合戦
織田信長(二十七) 安土城造営
織田信長(二十八) 石山合戦~天王寺の戦い
織田信長(二十九) 第一次・第二次 木津川口の戦い
織田信長(三十) 安土城完成
織田信長(三十一) 武田家滅亡
織田信長(三十二) 本能寺前夜
織田信長(三十三) 本能寺の変

豊臣秀吉篇 内容一覧

豊臣秀吉(一) 日吉丸
豊臣秀吉(二) 信長に仕える
豊臣秀吉(三) 美濃攻略
豊臣秀吉(四) 越前侵攻
豊臣秀吉(五) 姉川の合戦
豊臣秀吉(六) 朝倉・浅井を滅ぼす
豊臣秀吉(七) 羽柴秀吉となる
豊臣秀吉(八) 毛利攻め
豊臣秀吉(九) 鳥取城の戦い
豊臣秀吉(十) 備中高松城
豊臣秀吉(十一) 中国大返し・山崎の合戦
豊臣秀吉(十二) 清州会議
豊臣秀吉(十三) 賤ヶ岳の合戦
豊臣秀吉(十四) 大阪城築城
豊臣秀吉(十五) 小牧・長久手の合戦
豊臣秀吉(十六) 天下人への道
豊臣秀吉(十七) 伴天連追放令
豊臣秀吉(十八) 聚楽第
豊臣秀吉(十九) 刀狩り・太閤検地
豊臣秀吉(二十) 小田原攻め
豊臣秀吉(二十一) 奥羽仕置と奥羽一揆
豊臣秀吉(二十二) 文禄の役
豊臣秀吉(二十三) 秀次事件
豊臣秀吉(二十四) 慶長の役
豊臣秀吉(二十五) 天下人秀吉の最期

徳川家康篇 内容一覧

徳川家康(一) 松平氏の系譜
徳川家康(ニ) 人質時代
徳川家康(三) 桶狭間の合戦
徳川家康(四) 清洲同盟
徳川家康(五) 三河の一向一揆
徳川家康(六) 三方ヶ原の合戦
徳川家康(七) 長篠の合戦
徳川家康(八) 岡崎信康切腹事件
徳川家康(九) 本能寺の変・伊賀越の難
徳川家康(十) 天正壬午の乱
徳川家康(十一) 小牧・長久手の合戦
徳川家康(十ニ) 駿府入り
徳川家康(十三) 小田原攻め
徳川家康(十四) 文禄の役
徳川家康(十五) 慶長の役
徳川家康(十六) 天下人秀吉 逝く
徳川家康(十七) 石田三成襲撃事件
徳川家康(十八) 石田三成の挙兵
徳川家康(十九) 関ヶ原の合戦
徳川家康(二十) 石田三成の最期
徳川家康(二十一) 毛利氏への処分
徳川家康(二十ニ) 江戸幕府の始まり
徳川家康(二十三) 大阪の陣前夜
徳川家康(二十四) 大阪冬の陣
徳川家康(二十五) 大阪夏の陣
徳川家康(二十六) 武家諸法度・禁中並公家諸法度
徳川家康(二十七) 家康薨去

総時間:約8.4時間

「天下統一への道」「江戸幕府の始まり」を通して聴くと戦後時代から江戸時代に至るダイナミックな歴史の流れが、楽しみながら頭に入るようになっています。

特別セット価格での販売は4/15日までです。お早めにどうぞ。

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決済方法は、クレジット決済、代金引換、銀行振込、コンビニ決済、PAYPALをご用意しております。クレジット決済・代金引換、PAYPALの場合はお申込み後すぐに発送作業に移ります。銀行振込・コンビニ決済の場合は入金確認後、発送作業に移ります。到着には3-4日かかります。

※音楽用CDではないのでご注意ください。本製品はパソコン用データDVD-ROMです。再生にはパソコンが必要です。音楽用CDプレイヤーでは再生できませんのでご注意ください。

明日は「元禄赤穂事件」と「新井白石」についてお話する予定です。お楽しみに。

左大臣光永


左大臣プロジェクト運営委員会代表。日本でただ一人、古典・歴史の「語り」とインターネットによる通信販売を組み合わせ、専業事業として行っている。メールマガジン「左大臣の古典・歴史の名場面」は読者数18000人。楽しく躍動感あふれる語りで好評をはくす。平成23年パナソニック映像(株)の社内セミナーで「おくのほそ道」の講演。東京都教育委員会の学習コンテンツシステムにて『平家物語』、『論語』、漢詩の朗読を担当。平成24年4月から9月までTAMA市民大学TCCで「はじめての『平家物語』」講演。以後、「百人一首の歌人たち」「松尾芭蕉とその時代」「語り継ぐ日本神話」「飛鳥・奈良の歴史を歩く」「鎌倉と源氏三代の栄光」講演。マリエッタ(株)スマートフォン用アプリ「華麗なる百人一首」で朗詠音声担当。三省堂(株)学校教科書の副読本付属CDで古典や漢詩の朗読担当。平成25年、広島県海の見える杜美術館にて菅原道真のナレーション担当。平成26年4月、舞台劇『東方麗人抄』脚本・朗詠担当。9月、滋賀県大津市「第10回木曽義仲・巴ら全国連携大津大会」で木曽義仲の講演。平成27年3月長野県玉泉寺で川中島合戦の講演



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