こんにちは。左大臣光永です。日曜日のひととき、いかがお過ごしでしょうか?

本日は新商品のご案内です。

「親鸞の生涯」(cd-rom版・オンライン版)

親鸞の生涯を、8回にわたって語った解説音声とテキストです。

9歳で出家した親鸞が、20年間の比叡山での修行を経て下山し、法然上人の弟子となり、やがて専修念仏の弾圧にあい、越後に流され、その後関東での20年間にわたる伝導を経て、晩年はふたたび京都へ…。

90年間の生涯の中、親鸞の思想がいかに深まり、実り、「他力信心」「絶対他力」という思想につながっていったのか?

親鸞の足取りとともに、その精神的な旅路をもたどります。

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大谷本廟 親鸞聖人像

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苦悩する親鸞

親鸞はまず第一に「苦悩する人」だと思います。

己の内面をとことんまで掘り下げて、己の醜さ・汚さとまっこうから向かい合い、苦悩に苦悩を重ねました。

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞(ぐとく らん)、愛欲の広海(こうかい)に沈没(ちんもつ)し、名利(みょうり)の太山(たいせん)に迷惑して、定聚(じょうじゅ)の数に入ることを喜ばず、真証(しんしょう)の証(さとり)に近づくことを快(たの)しまざることを、恥づべし傷(いた)むべしと。

『教行信証』

まったく思い知った。悲しいことだ。私愚禿・親鸞は愛欲の広い海に沈み、名利をもとめること大きな山に迷うようであり、浄土に生まれる人の仲間になることを喜べない。まことの悟りに近づくことを楽しめないことを、恥じるべきだ。傷むべきだ。

悪性(あくしょう)さらにやめがたし、こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり、修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆえに、虚仮(こけ)の行(ぎょう)とぞなづけたる

『正像末和讃』悲嘆述懐和讃

人間の本性は悪であって、まったく止めることができない。心は蛇やサソリのように人を裏切る。たとえ善をなしても、そこに毒がまじるので、それを偽りの修行というのだ。

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず。

『一念多年文意』

われら「凡夫」というものは、まったく光のささない闇のなかにいるように煩悩にみちており、欲も多く、怒り、腹立ち、そねみ、妬む心があまりに多く、臨終の瞬間まで止まらず、消えず、絶えることがない。

……

こうした親鸞の言葉は、現代人の感覚からすると、あまりにも重く、息苦しく、ついていけない感じがします。うっとうしい。関わりたくないという気もします。

ここまで思いつめると、行き着く先は自殺か、自暴自棄になって他人に危害をくわえるくらいしか無いように思います。

だからこそ、多くの人はほどほどに悩み、ほどほどにユルく生きているのでしょう。

しかし親鸞は己の苦悩をほどほどで済ませませんでした。とことんまで突き詰め、醜い自分とまっこうから向き合い続けました。

「他力信心」「絶対他力」

無明の闇の中に親鸞が見出した一筋の光、苦悩のすえにたどりついた境地。

それは何だったのか?

一言で言うと

「他力信心」「絶対他力」という言葉に行き着くと思います。

善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。

善人ですら往生できるのだ。まして悪人が往生できないことがあろうか。

「悪人正機説」として学校で必ず習う、『歎異抄』の言葉です。

善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。ここだけ読むとメチャクチャです。善人でも往生できるんだから、悪人はもちろん往生できる。

何だそりゃ?

だったら悪いことをやりまくれと、悪事を推奨しているようにも聞こえます。

そのため、オウム真理教が事件を起こした時には、親鸞の思想とからめて、オウムのことが論じられることが多かったです。

しかしちゃんと全文を読めば、「悪事をやりまくれ」という話では全然ないことがわかります。

善人なをもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや。

しかるを世の人つねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。

この条、一旦そのいはれあるににたれども、 本願他力の意趣に背けり。そのゆへは、自力作善(じりきさぜん)の人は、ひとへに他力をたのむ心欠けたる間、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこゝろをひるがへして、 他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。

煩悩具足の我らはいずれの行にても生死(しょうじ)をはなるゝことあるべからざるを あはれみたまひて願をおこしたまふ本意(ほい)、悪人成仏のためなれば、 他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因(しょういん)なり。

よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、とおほせさふらひき。

『歎異抄』

善人すら往生を遂げる。まして悪人が往生を遂げないことがあろうか。しかし世の人は常に言う。「悪人すら往生する、まして善人が往生しないことがあろうか」と。

これは、一見もっともらしいようだが、阿弥陀仏が人を救う本願を立てた意趣に背いている。

なぜなら、自力で善を行う人はひたすら阿弥陀仏の他力をたのむ心が欠けているので、弥陀の本願にあっていない。

しかし自力の心をやめて、阿弥陀仏の他力を頼みにすれば、真実の浄土に行くことができるのだ。

生来、煩悩まみれの我らはどんな修行をしても迷いを離れることはできない。そのことを憐れまれて阿弥陀仏が願をおこされたねらいは、悪人をこそ成仏させることだ。なので、阿弥陀仏の他力をたのむ悪人こそが、もっとも阿弥陀仏の救いにあずかり往生できるのだ。

それで、善人さえ往生するのだから、まして悪人は(当然、往生する)と仰せられたのだ。

……

つまりここでいう「悪人」とは「犯罪者」とか「素行の悪い人」という意味ではないです。自分ではもうどうにもならない。何をやっても救われないと諦めて、すべてを阿弥陀仏の「他力」にゆだねる「凡夫」のことです。

対して「善人」とは、自ら頑張って、善行を行ったり修行したりして、「自力」によって救われようとする人のことです。

がんばって、修行して、学問して、救いにあずかろうとする。そういう人(善人)さえ救われるのだから、もう自分にはムリです。何やってもダメです。お手上げです。助けてください。そういう人(悪人)が救われることはいっそう確実だ、というわけです。

親鸞における念仏

法然は救われるためには念仏を唱えよと説きました。

ただ念仏することが救いへの道だと。

親鸞も法然と同じく、念仏を重んじました。しかしそれは救いの条件として念仏しろと言ったのではありません。

厳しい修行をしなくても、学問に励まなくても、善行を積まなくても、人は生まれながらに阿弥陀仏の救いに預かっている。無能で、怠惰で、どうしようもない人間でも、いやそういう者こそ、阿弥陀仏は救ってくださる。

だから感謝のあまり、嬉しさのあまり、念仏が自然にあふれ出してくる…親鸞は念仏をそのようにとらえました。

晩年の親鸞はふたたび京都に住みました。そこへ、はるばる関東から門弟たちが訪ねてきました。

当時、関東では「念仏を唱えると地獄に落ちる」と言いふらす者がありました。それで心配になった門弟たちは、ききにきたのです。

「念仏を唱えたら極楽往生できるんですよね?間違いはありませんよね?」と。

親鸞は答えます。

念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり」

念仏は、ほんとうに浄土にうまれるための種なのだろうか。また地獄に落ちる業なのだろうか。まったく私には、わからない。

わからない。

はるばるやってきた門弟たちは、この答えをきいてアゼンとしたでしょう。

親鸞は続けます。

たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。

たとえ法然聖人に騙されて、念仏によって地獄に落ちたとしても、私はまったく後悔しない。

そのゆゑは、自余の行もはげみて仏(ぶつ)に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

『歎異抄』

その理由は、念仏以外の行を行って成仏できる人が、念仏をやったために地獄に堕ちたとしたなら、騙されたと後悔もするだろう。しかし私は、どんな行を行っても(学問・修行・善行などあらゆる行を行っても)、悟りや成仏には程遠い者=凡夫だ。

だからどうあっても地獄は私には定められたすみかに違いないのである。

とても地獄は一定すみかぞかし。

念仏を唱えれば極楽往生できるのか?地獄行きなのか?さんざん迷っていた門弟たちに、この言葉はズガンとつきささったことでしょう。

とても内容が深い所なので、もう一度通して読みます。

念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。

たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。

そのゆゑは、自余の行もはげみて仏(ぶつ)に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

『歎異抄』

親鸞と『スーダラ節』

よく浄土真宗はユルいと言われます。

まず戒律がない。修行しない。学問にはげまなくてもよろしい。酒もタバコもパチンコもあり。在家も出家も関係ない。

こうしたユルさこそ浄土真宗が日本でもっとも受け入れられている理由の一つと思います。しかしユルさの底には親鸞が七転八倒の苦悩の末にたどりついた、絶対他力・他力信心の思想が横たわっています。

どうしようもない無能で怠惰な凡夫、悪人こそ、阿弥陀仏の前に頭を下げるので、救われるという考えが。

故植木等さんの父植木徹誠(てつじょう)さんは、真宗大谷派(東本願寺系)の住職でした。

植木等さんといえば『スーダラ節』や無責任男のイメージが強いですが、実は酒もタバコもやらない生真面目な方だったのは有名な話です。

それで『スーダラ節』の歌詞をもらった時、植木等さんはためらったそうです。こんなふざけた歌詞、歌えないと。

そこで父に相談すると、

「すばらしい。これこそ親鸞だ。『わかっちゃいるけど、やめられねぇ』人間は生きている限り、そうなんだ。これは大ヒットするぞ」と。そんなことをいって励ましたそうです。

チョイト一杯の つもりで飲んで
いつの間にやら ハシゴ酒
気がつきゃ ホームのベンチでゴロ寝
これじゃ身体(からだ)に いいわきゃないよ
分かっちゃいるけど やめられねぇ

『スーダラ節』より
青島幸男作詞・萩原哲晶作曲

『親鸞の生涯』cd-rom版・オンライン版

親鸞の生涯を、8回にわたって語った解説音声とテキストです。

9歳で出家した親鸞が、20年間の比叡山での修行を経て下山し、法然上人の弟子となり、やがて専修念仏の弾圧にあい、越後に流され、その後関東での20年間にわたる伝導を経て、晩年はふたたび京都へ…。

90年間の生涯の中、親鸞の思想がいかに深まり、実り、「他力信心」「絶対他力」の思想につながっていったのか?

親鸞の足取りとともに、その精神的な旅路をもたどります。

内容一覧
親鸞の生涯(一)六角堂夢告
親鸞の生涯(ニ)吉水時代
親鸞の生涯(三)興福寺奏状
親鸞の生涯(四)承元の法難
親鸞の生涯(五)越後から関東へ
親鸞の生涯(六)関東から京都へ
親鸞の生涯(七)善鸞義絶事件
親鸞の生涯(最終回)入寂

全90分

パソコン向きのcd-rom版、
スマートフォン向きのオンライン版の両方をご用意しています。

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善人なをもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや。

しかるを世の人つねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。

この条、一旦そのいはれあるににたれども、 本願他力の意趣に背けり。そのゆへは、自力作善(じりきさぜん)の人は、ひとへに他力をたのむ心欠けたる間、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこゝろをひるがへして、 他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。

『歎異抄』

本日も左大臣光永がお話しました。

ありがとうございます。ありがとうございました。



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