『忠臣蔵』の舞台 赤穂を歩く
本日は赤穂を歩きます。『忠臣蔵』で有名な元禄赤穂事件の舞台です。
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元禄14年(1701)3月14日、江戸城松の廊下にて、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみ ながのり)が、儀礼指南役・吉良上野介義央(きらこうずけのすけ よしひさ)に背後から斬りかかり、刃傷におよびました。浅野内匠頭は即日切腹。赤穂藩は改易となり、300人あまりの赤穂藩士は浪人することとなりました。
大石内蔵助(おおいし くらのすけ)以下の赤穂浪士は各地に潜伏し、連絡をとりあい、1年9ヶ月後の元禄15年12月14日、四十七士が吉良邸に討ち入り、2時間にわたる乱闘の末、吉良を討ち取り、旧主浅野内匠頭の墓前にその首を捧げました。
息継ぎの井戸
JR播州赤穂駅下車。
駅前に大石内蔵助像。采配をふりかざす、討ち入り時の姿です。
駅前のお城通りを進んでいきます。静かな町です。飲み屋が2、3軒あるのを、今夜の楽しみのためにチェックします。
時計台が見えてきました。「義士あんどん」です。午前9時から午後8時まで、正午に、忠臣蔵のからくりが動きます。
「義士あんどん」横に、「息継ぎの井戸」
江戸城松の廊下で刃傷事件が起こったのが元禄14年(1701)3月14日。その日、赤穂藩士早見藤左衛門(はやみ とうざえもん)と萱野三平(かやの さんぺい)は内匠頭の弟である浅野大学(あさのだいがく)の書状を持って江戸伝奏(てんそう)屋敷から早駕籠に乗り込みます。
東海道を一路、西へ。昼となく夜となく、飲まず食わずで籠を乗り継ぎ、3月19日午前6時、赤穂に到着し、筆頭家老大石内蔵助に、急を知らせました。
二人が赤穂についた時、井戸の水を飲み、一息ついてから赤穂城に登城したといいます。それがこの息継ぎの井戸ということです。
※ただし早見藤左衛門と萱野三平が出発したのは浅野内匠頭が切腹になる前でした。なので浅野内匠頭が切腹したことを二人はまだ知りませんでした。それが伝えられたのは3月19日の夜でした。
住宅街の中にちょっと入ると、浅野家の菩提寺、花岳寺があります。
正保2年(1645)初代赤穂浅野家当主、浅野長直(ながなお)が父長重(ながしげ)の菩提のために建立した、曹洞宗の寺院です。
境内には二代目大石名残の松、
赤穂義士が切腹した後、その知らせが届くと赤穂の人々が鐘を撞き続け、その後50年にわたって音が失われたという、「鳴らずの鐘」、
赤穂義士関係の遺品を集めた義士宝物館、
赤穂義士四十七人の木造を安置した義士木造堂、
浅野内匠頭の墓を中心に、右に大石内蔵助、左に大石主税(ちから)の墓を配し、周囲に残る四十五士の墓を配した、義士墓所。
浅野家三代…長重・長直・長友(ながとも)の墓。
赤穂城の縄張りを行った、甲州流軍学者、近藤直純(なおずみ)夫婦の墓、
浅野氏の後に赤穂に入った森氏一族の墓、
などがあります。
大石主税の墓に、セミの幼虫の抜け殻がへばりついて、あはれを感じました。
大手隅櫓
花岳寺の前の参道を南に歩いていきます。5分も歩くと、赤穂城三の丸の石垣と堀に突き当たります。
隅櫓は、昭和30年に絵図にもとづいて復元されたものです。夜はライトアップされて、きれいです。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに徳川家康が勝利すると、家康についていた池田輝政は、その功績として姫路52万石に加増・転封されます。
元和元年(1615)池田輝政は、五男の政綱(まさつな)に赤穂3万5000石を分与。ここに赤穂藩が生まれました。千種(ちくさ)川の河口に碁盤の目状の都市が築かれ、海に突き出したところに池田氏の館が建てられました。
しかし正保2年(1645)、池田政綱の養子、輝興(てるおき。池田輝政の実子)が、錯乱して妻子はじめ侍女数人を殺害する事件が起こります。ここに赤穂池田家は改易となります。その後に、常陸国笠間から移ってきたのが、5万3000石の大名、浅野長直でした。
以後、長直、長友、長矩と三代にわたり浅野家が赤穂をおさめます。
赤穂城は浅野長直が、甲州流軍学者で家老の近藤直純(こんどう なおずみ)に命じて、慶安元年(1648)から寛文元年(1661)まで13年かけて築きました。熊見川(現 加里屋川)に沿った砂州の先端に位置する平城で、当時は瀬戸内海に面していました。
本丸が二の丸を取り囲み、二の丸の北に三の丸を構えた形です。三の丸には侍屋敷があり、三の丸の北に城下町が広がっていました。本丸は多角形の特徴的な形をしており、天守台は築かれましたが、天守は建てられませんでした。
元禄14年(1701)3月14日、浅野家三代当主、浅野内匠頭長矩が江戸城松の廊下にて儀礼指南役吉良上野介義央に斬りつけた刃傷事件により、赤穂浅野家は断絶となりました。同年4月19日、赤穂城は幕府に引き渡されました。
浅野家断絶後は、3万3000石の大名として永井伊賀守直敬が入りましたが、永井氏の支配は短く、宝永3年(1706)森蘭丸の流れをくむ森氏が入ります。以後、明治4年(1871)の廃藩置県まで森氏の支配が続きました。
明治11年に本丸御殿が解体され、城は堀と石垣を残すのみとなりました。昭和30年に赤穂城全体が国の特別史跡に指定されたことに伴い、三の丸の隅櫓が復元されたのをはじめとして、じょじょに整備復元が進められています。
大石邸長屋門
大手門をくぐります。
道なりに進んでいくと、右に大石邸長屋門。
筆頭家老大石内蔵助の一家が三代57年間にわたって住んだ屋敷の長屋門です。屋根瓦には大石家の家紋である「二つ巴」が見えます。大石内蔵助と息子・松之丞(大石主税)が朝夕住んだ場所です。
元禄14年(1701)3月19日、江戸城の刃傷事件を伝える早駕籠の使者(早見藤左衛門・萱野三平)がくぐったのもこの門です。
大石邸長屋門のそばに赤穂大石神社の鳥居があります。
参道には四十七士の石像がならんでいます。夜見たら怖そうです。
境内は、かつての大石邸の屋敷跡です。
大石内蔵助の銅像。
元禄14年(1701)3月19日早朝、主君浅野内匠頭長矩が江戸城松の廊下にて刃傷におよんだという知らせがもたらされた時、藩士たちに総登城を命じ、みずからも本丸に赴かんとしている姿です。不安と、覚悟がよみとれる、ドラマチックなたたずまいです。
ここ赤穂大石神社の境内から、大石邸の庭に入れます。
建物内には有志の方の奉納による人形があり、早見藤左衛門・萱野三平が早籠で赤穂について、大石内蔵助が報告を受けてる場面が再現されています。
早駕籠のレプリカも、よく雰囲気を伝えています。
また境内には、赤穂義士ゆかりの品をおさめた義士宝物殿などがあります。
山鹿素行銅像・二ノ丸庭園
赤穂大石神社を後に、二之丸門跡をすぎると、
左に山鹿素行の銅像。
山鹿素行は江戸時代前期の儒学者・兵学者。会津若松の人。承応元年(1652)赤穂藩浅野長直に1000石で召し抱えられ、赤穂城二の丸虎口の縄張り(設計)を一部を変更したりしました。寛文5年(1660)赤穂藩を辞し、江戸で学問と修行に専念。
朱子学に疑問をいだき、周公孔子の教えに立ち返れと説き、『聖教要録(せいきょうようろく)』という書物をあらわします。これが幕府の怒りを買い、かつて仕えた赤穂藩に流されます。二の丸内の家老、大石頼母助(おおいしたのものすけ)宅内に仮住まいしました。
大石頼母助は大石内蔵助の大叔父…つまり祖父の弟です。若き日の大石内蔵助に家老としての心得を教育したのが頼母助です。
山鹿素行像と反対側に大石頼母助屋敷門。
門をくぐると、二の丸庭園。
赤穂城二の丸北西部にかつて存在していた広大な庭園「二の丸庭園」を復元整備したものです。家老大石頼母宅に仮住まいしていた山鹿素行も、しばしばこの二の丸庭園に遊んだといいます。
つきあたりに本丸門。
平成8年に明治時代の古写真をもとに復元されました。くぐると中は庭園になっています。
かつてここに本丸御殿があったのです。天守台が残り、池が復元されています。
赤穂城本丸には天守台が築かれましたが、天守は作られませんでした。なぜ作られなかったのかは、よくわかりません。創建当時の赤穂城は瀬戸内海に接していたので、天守台にのぼるとよく海が見渡せたでしょう。
伝大石内蔵助仮禺地跡(おせど)
赤穂城を後に、千種川(ちくさがわ)の向こうまで足をのばすと、
伝大石内蔵助仮禺地跡、通称「おせど」があります。
大石内蔵助は元禄14年(1701)4月19日の赤穂城明け渡し後もしばらく赤穂領内に留まりました。家来の妹尾孫左衛門の手づるで尾崎村の仮住まい「おせど」に家族とすまい、ここから遠林寺に通い、残務処理を行いました。
(遠林寺には赤穂城引き渡し後の残務処理を行うための事務所が置かれましたが、現存していません)
この頃、内蔵助は左腕に腫れ物ができて、高熱を出していました。しかし病の床につきながらも、江戸や京都に使者を送り、浅野家再興の嘆願を続けました。
一方で、塩田業者に貸していた貸付金の回収を進めます。回収できた貸付金はすべて、後日、討ち入りのための費用に当てました。
「お家再興」と「討ち入り」。どちらのプランにも対応できるよう、あらかじめ手を打っていたのです。その用意周到さには、おどろくばかりです。
元禄14年(1701)6月25日、大石内蔵助は旧主浅野内匠頭長矩の御霊に別れを告げると、海路大坂へ上り、その後6月28日に山科に移ります。以後、討ち入り直前の元禄15年(1702)閏8月1日まで、内蔵助は山科にすまうこととなります。
本日は赤穂を歩きました。高輪泉岳寺、本所吉良邸、山科の大石内蔵助隠棲地とならび忠臣蔵ファンならぜひ一度は行ってみたい場所です。言い忘れましたが赤穂は塩の産地としても有名です。ヤキトリ屋に入ったら赤穂の塩がたっぷりきいていて、たまらない美味しさでした。
次の旅「岡山城を歩く」