鎌倉 朝夷奈切通を歩く

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本日は「鎌倉 朝夷奈切通を歩く」です。

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朝夷奈切通(あさいなきりどおし)は、「鎌倉七口」の一つに数えられ、鎌倉と横浜市六浦を結ぶ切通です。鎌倉七口の中でももっとも長く険しい古道です。三代執権北条泰時の時に整備され、泰時みずからが馬に乗って土石を運んだと伝えられます。

また伝説には、1213年、和田合戦によって北条氏に滅ぼされた和田義盛の三男・朝比奈三郎義秀がたいへんな力持ちで、一晩でこの切通しを開いたと言われます。

バス停「十二所(じゅうにそ)神社」で下ります。滑川を渡り、


住宅街をしばらく坂道を登ると、見えてきました。朝夷奈切通の入り口です。


一歩足を踏み入れると、空気がヒヤッとしてます。それまでの住宅街とは、まるで世界が変わってきます。


朝夷奈切通

仁治二年(1241年)三代執権北条泰時の時、鎌倉と金沢・六浦を結ぶ朝夷奈切通の開削工事が始まりました。工事は泰時みずから馬に乗って土石を運んだと伝えられます。

鎌倉の東・六浦は波穏やかな港で、多くの物資が陸揚げされました。それらの物資を切り通しを通して鎌倉に運んだわけです。また六浦付近で生産された塩を鎌倉に運びました。そのため、朝夷奈切通しから鎌倉二階堂に至る金沢街道を、「塩の道」と呼んでいます。

ただし、泰時の時代より前から鎌倉と六浦を結ぶ道は使われており、泰時が行った朝夷奈切通の工事は拡張工事だったようです。

太刀洗水

しばらく進むと左手にチロチロチロ…涼しげなせせらぎが聞こえてきます。太刀洗水です。


寿永2年(1183年)12月、梶原景時は源頼朝の密命により、上総広常を双六の勝負にことよせて斬り殺します。その時、梶原が上総広常を斬った太刀を洗ったとされるのが、この太刀洗い水です。近くに上総広常の屋敷もあったといわれますが、不明です。アメンボがいっぱいいて、水に手を入れると、逃げていく数匹のアメンボが、さらさらっと手に当たりました。

十二所果樹園

太刀洗い水から少し進むと道が分岐します。右に進むと十二所果樹園。左は熊野神社です。
太刀洗い水から少し進むと道が分岐します。右に進むと十二所果樹園。左は熊野神社です。

まず右の十二所果樹園を目指します。うねうねとした道を登っていきます。



時々ホケキョの声が響き、木々の切れ間に鎌倉の街並みが見渡せます。六月の末のことで、果樹園といっても緑が鬱蒼としていただけですが、春は梅・桜、秋は栗が実り、目を楽しませてくれます。



三郎滝

分岐点に戻り、今度は左へ進みます。すぐ見えてくるのが三郎の滝です。


三郎は朝比奈三郎義秀。たいへんな力持ちとして知られます。


父は鎌倉幕府侍所別当・和田義盛。母は巴御前と伝説されます。武勇の誉高い和田義盛と、同じく武勇の誉高い巴御前から生れた子ですから、そりゃあ力持ちなんです。

「ちょっとこのへんに道あったら便利なんだけどなぁ…」

「俺に任せろ!!」

ドカン、ドカン、ドカン、ドッカーーーン!

こんな感じで、一晩にして切り通しを開いたと伝説されます。他にも朝比奈三郎義秀は材木座の海で素手でサメ三匹を捕まえたとか、メチャクチャな伝説が残る人物です。

切通

道を進みます。だいぶ切通らしくなってきました。



左右にザアッと断崖が迫り、断崖の表面は鬱蒼とシダ植物がしげり、ものすごい感じです。



ここを鎌倉時代の武士が、カカッ、カカッと馬に乗って駆けたのかと、感動がこみ上げます。時々すれ違う人と、「こんにちは」と自然に挨拶が発生します。いい感じです。


熊野神社

しばらく歩くと右手に熊野神社の参道があらわれます。


源頼朝が鎌倉開府に際し、熊野三社大明神を勧請したものといわれます。うっそうたる杉並木。規模は小さいですが熊野古道の雰囲気が出てきました。杉林の間はヤブミョウガが群生しています。



がさがさっと音がしたほうを見ると、蛇が藪の中にあわてて逃げていきました。


長い石段を登って拝殿に至ります。





わりと新しい建物でした。さらに石段を登った先が、本殿です。





日曜日だというのに人の姿はほとんどなく、深山幽谷の雰囲気を楽しめました。

この後、道は下りになり、横浜横須賀道路の下をくぐるとすぐ、国道に出ました。




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