浅草を歩く(一)

こんにちは。左大臣光永です。

昨日、銀閣寺のそばから、人力車に乗ってみました。すべるように走るので、気持ちよかったです。車というより船に乗っている感じでした。ちょっと東山の高台に上がると風が冷たくて、気候がぜんぜん違うなと実感しました。

さて先日発売しました。

現代語訳つき朗読 おくのほそ道
http://hosomichi.roudokus.com/CD/

ご好評をいただいております。2月15日まで、特典の解説音声「おくのほそ道への遠い道のり(全29回)」がついてきます。お申し込みはお早めにどうぞ。

花の雲 鐘は上野か 浅草か(芭蕉)

というわけで本日は、浅草を歩きます。

雷門→仲見世→浅草寺→浅草神社という定番コースですが、合間合間に意外な歴史スポットがあります。芭蕉の句に詠まれた「時の鐘」も、江戸時代のままに残っています。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

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※写真は2017年夏に撮影したものです。

浅草

東京メトロ銀座線浅草駅下車。浅草駅の顔である「EKIMISE」はいつもさまざまな巨大ポスターが貼ってあり、楽しいです。


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浅草は江戸時代から昭和のはじめにかけて、江戸一・東京一の歓楽街として賑わいました。


浅草寺詣での人々、浅草寺裏の奥山の見世物小屋、大道芸、猿若町の歌舞伎興行、隅田川の川遊び、


新吉原が北に接していることもあって、浅草は大いに栄えました。現在も江戸風情を残す町並みが続きます。浅草寺には内外から毎年3000万人の参拝客が訪れます。

人力車の呼び込みが、気合入ってます。京都の人力車は「えびす屋」一社だけですが、浅草には10社もの人力車屋がひしめいています。人力車の激戦区です。

雷門

徒歩2分。見えきました。雷門。浅草寺の総門です。



右の風神像、左の雷神像から、正式には風雷神門(ふうらいじんもん)といいます。


天慶5年(942)の創建と伝えられますが、何度も火事で焼けては再建されました。

現在の雷門は昭和35年(1960)松下幸之助の寄贈により再建されたものです。


仲見世通

雷門くぐって、次の宝蔵門までの約250メートルの通りが、仲見世通りです。



小間物屋、菓子屋、佃煮屋など、約90軒の店がひしめきます。いつ来てもすごい賑わいです。

元禄・享保の頃(1688-1735)、花川戸(はなかわど。東京都台東区)に、浅草寺境内の掃除をするかわりに営業権が認められたのが始まりと言われます。そういう歴史もあってか、家賃は極限まで安く設定してありました。

平均2万3000円らしいです…( ゚д゚)ポカーン


先日、浅草寺は東京都から仲見世の固定資産税を要求されたことを受けて、仲見世各店に実勢価格までの家賃値上げを要求しました。

家賃が16倍になる!生活できない!と大騒ぎしてますが…これだけの一等地で、これだけの人通りがあって家賃40万円は、安いです。当然の経費だと私は思います。

当然の経費を払ったら利益が出ないというであれば、そもそも商売としてマズいです。どうやったら他の店と差別化ができるのか?どうやったら商品に付加価値をつけられるのか?脳みそに汗をかいて、とことん考えて抜いてほしいです。

これからの仲見世がどうなっていくのか?今後を見守りたいところです。

河竹黙阿弥住居跡

仲見世の途中、ちょっと右に道をそれます。仲見世会館の前に河竹黙阿弥住居跡の碑があります。



河竹黙阿弥は幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎作家です。日本橋に生まれ、浅草に住みました。生涯360篇もの作品を書き、「最後の狂言作者」「江戸歌舞伎の大問屋」と呼ばれました。

河竹黙阿弥の作品の多くは現在でも上演されています。ことに「白波物」とよばれる盗賊を主人公とした作品で有名です。

「青砥縞花紅彩画(あおとぞうし はなの にしきえ)」は通称「白波五人男」の愛称で親しまれ、鎌倉極楽寺の屋根の上で五人の盗賊が次々と名乗りを挙げる場面はさまざまにパロディー化されています。

浅草寺

宝蔵門まで来ました。




正面が浅草寺の本堂たる観音堂です。ご本尊の聖観世音菩薩像が安置されています。

壁にさげてある山形県村山市の奉賛会奉納の大わらじにも注目です。


わらじは仁王さまの履物です。悪霊が攻めてきても、こんな大きなわらじを履くものが守っているのかと、恐れて退散していくというわけです。

本堂左手には五重塔がそびえます(2017.06.13工事終了)。

門の右を見ると…スカイツリーがそびえます。


スカイツリーも2018年で開業6年目。下町の景色にだいぶ馴染んできた気がします。最初はあんな無粋なもん建ててどうするつもりだと思いましたが…。今見ると、なかなかいいもんじゃないですか。

金龍山浅草寺。縁起によれば、飛鳥時代の628年、この地にすむ漁師の兄弟が隅田川で黄金の聖観世音菩薩像をひっかけた。それを土地の有力者土師真中知(はじのまつち)とともに安置したのが始まりと伝えられます。

大化元年(645)勝海上人が浅草に来て観音堂を建立。ご本尊の聖観世音菩薩像を秘仏と定めます。

天慶5年(942)安房国主・平公雅(たいらの きんまさ)によって再建され、治承4年(1180)源頼朝が石橋山の合戦に敗れて逃げてくる際、下総から鎌倉へ向かう際に、、寺領を寄進。

後に頼朝は鶴岡八幡宮を建造する際に、浅草寺の宮大工を招集したと『吾妻鏡』に書かれているのが、浅草寺が資料に登場するはじめです。

寛永19年(1642)の火事、大正11年(1923)の関東大震災、さらに昭和20年(1945)の東京大空襲で寺の主要な建物が焼失しましたが、そのたびに再建され、今に至っています。



九代目市川團十郎「暫」の像

浅草寺裏手の駐車場のところに九代目市川團十郎「暫」の像があります。


九代目市川團十郎(1838-1903)。明治を代表する名優で「劇聖」と讃えられました。それまでの荒唐無稽な歌舞伎を改め、「活歴」とよばれる時代考証に基づいた現実的な芝居をしました。


また古典歌舞伎の型の改良にもつとめました。現在の歌舞伎の型の多くは九代目團十郎によって確立されたものです。

この像は『暫』で鎌倉権五郎景政役をつとめ見栄を切っているところです。善人が処刑されようとしてるところへ、「暫ゥ~」と言って止めに入る場面です。

大正8年(1919)創建。昭和19年(1944)大東亜戦争末期の金属供出により失われましたが、昭和61年(1986)12代目市川團十郎が襲名したのを機に、もとの場所に再建したものです。

浅草神社

浅草寺北東に浅草神社。「三社さま」の呼び名で親しまれています。


浅草寺の本尊たる聖観音菩薩像を引き上げた檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成兄弟と、像を安置した土師真中知(はじのまつち)を祀ったことから「三社」といい、後に東照大権現(家康)を合祀したことから三社権現ともいいます。


毎年5月中旬に行われる三社祭(さんじゃさい)は、ここ浅草神社の例大祭です。日枝神社の山王祭(さんのうまつり)、神田明神の神田祭(かんだまつり)と並び、江戸三大祭の一つに数えられます。

社殿は慶安2年(1649)三代将軍家光による造営です。関東大震災、東京大空襲を生き延び、創建当時のままの姿を、今に伝えています。


時の鐘

最後に、時の鐘を訪ねます。


浅草寺境内東南部の弁天山の藪の中です。元禄5年(1692)に改鋳されたことが銘に記されています。鐘楼は昭和20年3月の東京大空襲で燃えてしまい、再建されたものですが、鐘はオリジナルのままです。現在も毎朝6時に、時を告げています。

花の雲 鐘は上野か 浅草か

貞享4年(1687)松尾芭蕉が深川の芭蕉庵に住んでいた頃の句です。深川から対岸の上野・浅草を見やると、「花の雲」。桜の花がわーーっとどこまでも雲のように続いている。

その時、ごーんと鐘の音が響いてくる。あれは上野の寛永寺だろうか。浅草の浅草寺の時の鐘だろうかという句です。春のぼんやりした、ものうい、朧な感じがよく出てますね。

というわけで、本日は浅草を歩きました。雷門から仲見世通り、浅草寺と浅草神社、そして時の鐘と歩きました。

江戸風情が残る浅草の通りは、ほんとうに楽しいです。はるかに見えるスカイツリーも景気のいいです。

新奥山・浅草花やしき・浅草六区はまた回をあらためて歩きます。お楽しみに。

発売中です

現代語訳つき朗読 おくのほそ道
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月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。元禄ニ年、四十六歳の松尾芭蕉は門人河合曾良と共に『奥の細道』の旅へ出発しました。深川の庵を出発し奥羽、北陸を経て美濃の大垣まで全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間にわたる壮大な旅です。

それは西行、能因といった「古人」の魂に触れる旅であり、ロマン溢れる歌枕の地を訪ねる旅でした。

2月15日まで、特典の解説音声「おくのほそ道への遠い道のり(全29回)」がついてきます。詳しくはリンク先まで。
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