安土城を歩く

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本日は、「安土城を歩く」です。

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安土城は織田信長が天下統一の拠点として天正4年(1576)から同9年にかけて築いた城です。安土は京都と関東を結ぶ交通の要衝であり、また琵琶湖の水運による京都~北陸間の交易の拠点でもありました。だから信長は直前の岐阜城から、安土城に移ってきたのです。

地上六階地下一階の天主閣は信長の権威を世にしめすにじゅうぶんでした。本能寺の変(1582)の後、安土城は焼失してしまいましたが、石垣が復元され、天主閣の礎石、城内に建てられた摠見寺(そうけんじ)の三重塔・ニ王門などはほぼ完全な形で残っています。

※安土城のみ「天主」。ほかの城は「天守」と書きます。

JR琵琶湖線 安土駅下車。


のんびりした住宅街の中を歩いていきます。


歩くこと20分。

セミナリヨ跡

見えてきました。

セミナリヨ跡です。


セミナリヨは天正8年(1580)織田信長の命により宣教師オルガンチノが創建した日本最初の神学校です。三階建てで一階には茶室つきの座敷、二階には神父の部屋、三階には教室と生徒の寮がありました。キリシタン師弟だけでなく一般の師弟も多く受け入れました。

科目は日本文学・ラテン文学・キリスト教理の他、音楽教育を重視。信長自身もしばしばセミナリヨを訪れオルガンの音色に耳を傾けたと伝えられます。

日本におけるキリスト教布教の一大中心地となるかに見えましたが、天正10年(1582)本能寺の変で信長が討たれると高山右近の誘致で摂津国高槻に移転。天正15年豊臣秀吉の伴天連追放令により、肥前有馬(長崎県南島原市北有馬町)の有馬セミナリヨと合併。慶長19(1614)年徳川家康の禁教令により閉鎖されました。

すぐそばに川?かあり、そこに秋風が吹き付けて寒々していました。


セミナリヨ跡を後に、しばらく国道に沿って歩いて行くと…


見えてきました。



安土城の入り口です。

大手道

目の前にまっすぐ伸びているのが、大手道と呼ばれる石段です。


最初は幅6メートルもあります。一段一段が高いです。水がしたたり流れています。


側溝にもじゃばじゃば水が流れています。


石走る垂水の上のさわらびの萌えいづる春になりにけるかもの風情があふれます。今は秋ですが。


あれっ、何で金が落ちてるんだと思ったら、


足元に石仏があって、お賽銭が備えてあります。

この大手道を作った際に材料として組み込まれたものです。城普請にあたってはこのように石仏や墓石も使われたということです。

やがてうねうね蛇行し道幅は狭くなり、最終的には山頂の本丸と天主に至ります。

安土城の歴史

天正3年(1575)5月、織田信長は長篠の合戦で武田勝頼を破り、ついで長島で、越前で一向一揆を鎮圧し、残る敵は石山本願寺だけとなりました。しかも同年11月、権大納言兼、右大将に任じられ、信長は権力の絶頂にありました。

しかし、そんな権力の絶頂期にあって、信長は突如、家督を嫡男の信忠に譲ってしまいます。岐阜城も信忠に譲りました。

翌天正4年(1576)正月、信長は、丹羽長秀を奉行に命じ、琵琶湖のほとりの安土山に新しい城を築き始めます。

安土城です。


仮の屋敷ができると、2月にはもう信長自身が安土に移ってきました。

それまでの岐阜城は京都に遠く、京都までの往来が大変でした。今や権大納言・右大臣となった信長はいっそう頻繁に京都に行き来する必要が出てきます。岐阜城ではいかにも不便でした。

そこで、岐阜城と京都のほぼ中間に位置する、安土山に信長は目をつけました。

切り立った安土山の山頂に、天主・本丸・二の丸・三の丸・黒金門などが狭い空間の中にムダなく配置されていきました。

(安土城のみ「天主」。ほかは「天守」と書く)

安土山は北と西を琵琶湖に面し、麓には琵琶湖水運のための港が築かれました。また、東海道・東山道・北陸道のいずれにも近く、交通の要衝です。

安土城下には楽市・楽座を開き、商業を振興します。安土城下は、城下町としてがぜん賑わってきました。

伝前田利家邸

大手道を登っていくと、すぐ右手に伝前田利家邸。


前田利家は尾張の武将。はじめ織田信長に仕え、越前に赴任した柴田勝家の目付役として越前府中に赴任。後に能登一国の大名となります。

本能寺の変後は秀吉に仕え、加賀・越中を与えられ、秀吉政権を支える重臣となりました。かの醍醐の花見に家臣として唯一招かれたことは、秀吉の前田利家への信頼がいかに大きかったかという証といえるでしょう。

慶長3年(1597)の秀吉没後、豊臣秀頼の後見人となるも、日に日に勢いをのばしていく徳川家康を危惧しながら、慶長5年(1599)病により亡くなりました。

湧き水が豊かに流れ、涼しい気分にひたれました。

伝羽柴秀吉邸

伝前田利家邸の斜向いが、伝羽柴秀吉邸。


上下二段の郭(くるわ。造成された平地)に分かれています。下段郭から上段郭に登ります。



上段郭が主人が居住する屋敷がありました。

しかし何か…イベント会場のようになってました。ここでコンサートでもやるんでしょうか?竹のベンチが座り心地よかったです。



摠見寺仮本堂(伝徳川家康邸跡)

さらに石段を上ると右手に摠見寺仮本堂。


摠見寺(そうけんじ)は信長が安土城内に菩提寺として築いた寺です。もともとは天主の西南にありました。この後向かいます。しかし元の摠見寺は江戸時代に火事で焼けてしまいました。

そこで大手道の東、徳川家康の屋敷があったという場所に移され、今に至ります。

ちゃんと今も住職さまがいらして、許可が出れば中を見せてくださるということです。…しかしこの日は閉まっていて、入れませんでした。

伝武井夕庵邸跡

次に左に見えてきたのが、伝武井夕庵邸跡。


武井夕庵(たけいせきあん)。


もと美濃の斎藤家に右筆(書記)として仕え、信長が斎藤家を滅ぼした後は信長の右筆となりました。外交にもたくみで、また茶の湯もよくした人物です。信長からの信任は厚く、そのため安土城ではこのように、信長の嫡男信忠に準じる位置に屋敷を賜っています。本能寺の変の後の消息は不明です。

伝織田信忠邸跡

道すがら次に見えてくるのが、伝織田信忠邸跡です。


織田信忠は織田信長の長男です。長篠の合戦(1575)の後、武田方の美濃岩村城を攻略。その功績により信長から美濃・尾張両国を譲られます。天正4年(1576)、父信長が岐阜城から安土城に移ると信忠は信長にかわって岐阜城主となりました。

天正10年(1582)本能寺の変の際、二条御所にて明智勢を相手に奮戦の後、自害しました。

黒鉄門跡

だいぶ高い位置まで来ました。

黒鉄門(くろがねもん)跡です。



天守・本丸・二の丸・三の丸を含む、安土城の中枢部分への入口の一つです。残念ながら本能寺の変直後の火事で燃えてしまったようで、門らしいものは何も残っていませんが。

石垣の石がデカいです!

だんだん城らしくなってきました。

仏足石

黒鉄門跡を過ぎて、つきあたりまで進んた所に、


仏足石。


お釈迦様の足を刻んだ石です。本来ありがたいもののはずですが、安土城では石材として集められ石垣に使われたようです。信長の仏教嫌いを反映してるんでしょうか。

本丸跡

本丸跡です。


広々としてます。『信長公記』によれば信長はここに天皇の行幸を仰ぐつもりで「御幸の間」を作ったということです。建物の跡は何も残っていませんが。

見事に苔むした石垣です。



木漏れ日が石の表面の苔を照らして、目に優しい感じです。

天主跡

本丸跡からさらに石段を登ると、


天主跡です。


礎石が数メートルおきに残っています。レプリカではなく、昭和初期に発掘され、わずかに補修されただけの本物です。こんなにちゃんとした形で礎石が残ってることに感激を覚えます。


近代的なキレイなお城として立て直されているより、私はむしろこの眺めこそ味わい深く思います。

安土城の天守は地上六階、地下一階。今立っている場所は、その地下部分に当たります。

前高33メートル、当時としては最大級で、宣教師ルイス・フロイスはヨーロッパにも例を見ない立派なものだったと書き残しています。


内部は各階の襖や障子に狩野永徳により絵が描かれました。絵の内容は山水画や中国の儒者・皇帝・伝説上の人物などが多く、日本の神話・伝説を扱ったものは一つもありませんでした。

それは、信長は中国風を強く意識していたためです。自分は天皇にも、将軍にもこびへつらわない。中国皇帝にも匹敵するものだぞという、信長の意思のあらわれでした。

荘厳な天主だったことが記録されていますが…天正10年(1582)本能寺の変の直後に火事が起こって、すっかり焼け落ちてしまいました。明智方の焼き討ちだとも単なる失火だとも言われています。

石垣の上に上ると…おお…琵琶湖がはるかに!



現在は埋め立てが進んだため、はるかに見えるのですが、信長の時代は眼下に琵琶湖が見えていました。周囲の山々も、いい形をしています。

信長公本廟

天守跡を後に、来た道を下っていきます。行きしは通り過ぎた天守西のエリアに入ります。


ここが二の丸跡と伝えられ、信長公本廟があります。


信長の死後、秀吉が供養して、信長の太刀、烏帽子、直垂などの遺品を埋葬して本廟としました。


寂しい場所です。見晴らしもよくありません。どうして本丸や天守の場所に本廟を建てなかったのか、疑問が残りました。


奉納の絵馬も、「天下布武」の文字に、織田信長のイラストが描いてあって、いい感じです。


摠見寺 本堂跡

さて元来た道を分岐点まで引き返し、


分岐点から摠見寺のほうに向かいます。



摠見寺は信長が天主の西南に菩提寺として建てた寺院です。


城下町と天主を結ぶ百々橋口(どどばしぐち)道の途中にあるため、多くの人が信長に参上する途中、摠見寺の境内を通ったと記録されています。


本能寺の変直後の火事は免れましたが、江戸時代の火事で伽藍のほとんどが焼失。その後、寺は大手道東の伝徳川家康邸跡に移され、臨済宗の寺院として現在に至ります。最初に登ってくる時に、チラッと見たやつです。

眼下には西の湖が青々と広がっています。いい気分です。


三重塔

摠見寺三重塔です。


屋根は本瓦葺き。復元ではなく、本能寺の変直後の火事も免れて生き残った、オリジナルです。天正3年4年頃、信長が甲賀の長寿寺(滋賀県甲賀市石部町)から移築したと伝えられます。

ニ王門

少し石段を下ると、ニ王門があります。



元亀4年(1573)建立。屋根は入母屋造り、本瓦葺き。

門の両側に立つ木造の金剛力士像は応仁元年(1467)の作です。



応仁元年!そんな昔のものが、信長よりずっと昔のものが、こんな完全な形で残っていることに驚きです。これも天正年間に信長が甲賀から移築したものと伝えられます。しみじみと柱に触れて、応仁や元亀の昔を感じてきました。



百々橋口

さて安土城を後に山沿いにぐるっと廻って、安土城西側の登山口・百々橋口を目指します。のんびりした風景です。ありました。小さな橋です。


濁った水が流れてます。


ご家来衆はこっちから山を登っていきました。で、さっきの摠見寺の境内を通って、天主の信長のもとに参上するという形です。

一方、最初に登った大手道は、信長や招かれた天皇・公卿など、身分ある方が輿に乗って登った道ということです。

本日は安土城を歩きました。信長についてのイメージがいっそう鮮明になったのではないでしょうか。

次の旅「彦根城を歩く

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