仁徳天皇陵(大仙古墳)周辺を歩く

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本日は、大阪・堺に、仁徳天皇陵(大仙古墳)と、覆中天皇陵を訪ねます。

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JR阪和線(はんわ)線・百舌鳥(もず)駅から徒歩約2分。


見えてきました。大仙陵古墳は、エジプトのクフ王のピラミッド・秦の始皇帝陵とならび世界三大陵墓の一つに数えられる、日本最大の前方後円墳です。


昔は「仁徳天皇陵」といっていましたが、現在、必ずしも埋葬されているのは仁徳天皇とはいえない、ということが調査によってわかってきました。そのため教科書などでは「大仙古墳」と教えています。

しかし宮内庁は依然として仁徳天皇陵としており、現地にも「仁徳天皇陵」の表記があちこちに見えます。


個人的にも、これほど大きな陵が作られる人物といって、仁徳天皇のほかに思いあたらないです。案外、「実はやっぱり仁徳天皇陵だった」といわれる日が、来るかもしれません。

周囲は松並木の遊歩道になっています。


三重の堀と二重の堤に囲まれているので、この位置から陵そのものを確認することは、できません。早朝のことで、犬の散歩をしている方やマラソンしてる方が多かったです。

しばらく進むと古墳正面に出ます。


ここから陵本体を確認できます。マラソン途中に参拝する方、手を空にのばして何かパワーを受信している方、いろいろです。

仁徳天皇

大雀命《おおさざきのみこと》(仁徳天皇)は、難波の高津宮《たかつのみや》(大阪市中央区法円寺付近)にあって天下を治められました。

ある時天皇は高い山に登って、四方を見ておっしゃいました。

「国の中に、米を炊く煙が立っていない。民は皆貧しいのだ。よし。これから三年の間、租税と労役を免除せよ」

税収がまったく無くなったわけで、宮殿は破れ崩れて、いたる所で雨漏りがしましたが、まったく修理もなさいませんでした。木の箱で雨漏りを受けて、漏らない所に移って雨を避けられました。

後にふたたび山に登って四方を見ると、民の家々から炊事の煙が立ち上っていました。

「よし、民は豊かになった」

ようやく課税と労役を再開しました。こうして人民は富み栄え、労役に苦しむことがありませんでした。よってその御世を讃えて聖帝《ひじりのみかど せいてい》の世と言いました。

磐姫皇后の歌碑

時計回りに陵の周りを歩いていくと、犬養孝博士の筆による『万葉集』のイワノヒメ皇后の万葉歌碑があります。


ありつつも 君をば待たむ うち靡く
吾が黒髪に 霜の置くまでに

在管裳 君乎者将待 打靡
吾黒髪尓 霜乃置萬代日

【大意】
このままずっと、貴方をお待ちしておりましょう。うち靡く私の黒髪が白髪になるまで

『万葉集』巻二(八七)

イワノヒメ皇后は仁徳天皇のお后さまです。嫉妬深い女性として『古事記』に描かれ、恋多き仁徳天皇のおかげでそうとうヤキモチさせられた様が『古事記』に描かれています。

他に、磐姫皇后が仁徳天皇を慕って詠んだ四首の歌が掲げられています。

君が行き 日(け)長くなりぬ 山尋ね
迎へか行かむ 待ちにか待たむ

君之行 気長成奴 山多都祢
迎加将行 待尓可将待

【大意】
あなたが出発されてから何日も経ってしまいました。山を尋ねていきましょうか。このまま待っていましょうか。

『万葉集』巻二(八五)

かくばかり 恋ひつつあらずは 高山(たかやま)の
岩根しまきて 死なましものを

如此許 戀乍不有者 高山之
磐根四巻手 死奈麻死物呼

【大意】
こんなふうに恋しい気持ちが続くのなら、いっそ高山の岩を枕にして死んでしまいたい。

『万葉集』巻二(八六)

秋の田の 穂の上(へ)に霧(き)らふ 朝霞(あさかすみ)
いつへの方(かた)に 我が恋やまむ

秋田之 穂上尓霧相 朝霞
何時邊乃方二 我戀将息

【大意】
秋の田の稲穂の上に霧がかかった朝霞のように、いつ、どの方向に、私の恋心は消えるのだろうか。

『万葉集』巻二(八八)

居明かして 君をば待たむ ぬばたまの
我が黒髪に 霜は降るとも

居明而 君乎者将待 奴婆珠能
吾黒髪尓 霜者零騰文

【大意】
一晩中寝ないでいて、あなたをお待ちいたしましょう。
私の黒髪が霜のように白くなったとしても

巻二(八九)

なんというか…すごい情念を感じる歌です。磐姫皇后の陵と見られるヒシアシゲ古墳は、奈良の佐紀にあります。有名なウワナベ古墳・コナベ古墳のすぐそばです。もしどちらも本人たちの陵だとしたら、夫婦でずいぶん引き離されていることになりますね…。

陪塚(ばいちょう・ばいづか)

大仙古墳の周りには、「陪塚(ばいちょう・ばいづか)」と呼ばれる小さな古墳が15基あり、現在は13基が残ります。


近親者や家臣の墓とも思われますが、何も埋葬されていないものもあり、何なのか、よくわかっていません。

大仙公園

大仙古墳の南に広がるのが、広大な大仙公園です。堺市民の憩いの場になっています。


百舌耳原由来の像

入り口すぐの所に、百舌耳原由来(もずみみはらゆらい)の像があります。


『日本書紀』によると、仁徳天皇がこの地に陵を造営しようとして視察されていた時、突然、鹿が飛び出してきて、倒れた。そして鹿の耳から、百舌が飛び立ったので、この地を「百舌鳥耳原」と名付けたということです。

百舌鳥は大阪府の鳥に指定され、堺市の鳥にも指定されています。

仁徳天皇御歌

公園内には、仁徳天皇の歌碑があります。


高き屋に のぼりて見れば 煙(けぶり)たつ
民のかまどは にきはひにけり

新古今707

有名な「竈の煙」のエピソードをふまえた歌です。

大仙公園の南には、仁徳天皇の皇子・17代覆中天皇の陵があります。



仁徳天皇がお隠れになった後、そのまま難波の宮に留まり天下を治めましたが、弟の墨江中王(スミノエノナカツミコ)の反乱を招き、宮殿を焼かれました。覆中天皇は遠く石上神宮に難を逃れます。

そこへ、もう一人の弟であるミズハワケノミコト(水歯別命)が訪ねてきます。



「なにい。ミズハワケが来た。ぶるふる。
おおかたスミノエナカツミコと同じ魂胆であろう。
もう弟など、信用できぬ。話すことなど、無い」

「私は、誓って天皇に反逆心などございません。
スミノエナカツミコとは違います」

「ふん!そんな言葉、信用できるものか。
もし本当なら、難波にもどってスミノエナカツミコを殺して
もどってこい。そしたら話しあおう」

(やれやれ…兄上の猜疑心にも困ったものだ)

そこでミズハワケノミコトは機転によってスミノエノナカツミコを攻め滅ぼし、兄履中天皇と石上神宮にて合流した様子が、『古事記』に記されています。


本日は仁徳天皇陵と見られている大仙古墳、大仙公園、履中天皇陵を歩きました。

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