藤森・墨染を歩く(藤森神社・墨染寺・近藤勇遭難の地)

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本日は京都市伏見区の藤森・墨染を歩きます。藤森神社・墨染寺・近藤勇遭難の地などがあります。

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藤森神社 舞殿

藤森神社

JR奈良線・藤森駅下車。徒歩4分。

藤森神社です。

藤森神社 大鳥居

藤森神社は神功皇后が新羅遠征の帰路、藤森の地に軍旗を建て、神祭りをしたことに始まると言われます。『日本書紀』の編者として知られる舎人親王を祀り、学問の神として信仰されています。

加えて、馬の神・勝負事の神としても信仰を集めています。

5月5日の藤森祭では「駈馬(かけうま)神事」といって馬の曲芸乗りをして参道を駆け抜ける行事があり、多くの見物客で賑わいます。

藤森神社 参道

また藤森神社は菖蒲の節句の発祥の地とされるので、菖蒲が勝負に通じることから、勝負事の神社としても信仰されています。

馬に勝負事ですから、ジョッキーや競馬関係者の参拝が絶えません。馬の像の前にはニンジンがお供えしてありました。

また藤森神社は「アジサイの宮」と呼ばれます。参道左手のアジサイ苑では6月から7月にかけて3500株のアジサイが咲き誇ります。京都でアジサイ所といえば、宇治の三室戸寺と、ここ藤森神社の名が挙がります。

焼塩屋権兵衛の碑

参道左に焼塩屋権兵衛の碑。

藤森神社 焼塩屋権兵衛の碑

焼塩屋権兵衛は深草の地に生まれ、人情に篤く人に慕われ、村の年寄(役員)に選ばれました。

天明5年(1785)時の伏見奉行・小堀政方(こぼり まさみち)が圧政を行い民を苦しめました。そこで焼塩屋権兵衛は文殊九助らと共に幕府に命がけの直訴を行い、ついに小堀政方を罷免に追い込みました。

直訴した文殊九助以下7人らは捕らえられ、獄中で病死しました。しかし民衆を救ってくれた義民であるということで、ここに祀ってあるわけです。

宝物館・絵馬堂

右手に宝物館

藤森神社 宝物館

左手に絵馬堂。

藤森神社 絵馬堂

絵馬堂にはジョッキーの絵がかかってます。さすが馬の神社です。

藤森神社 絵馬堂

藤森の歌

さらに進むと左手に藤棚があります。小侍従の歌とともに藤森神社がかつて藤の群生地であったことの説明が書かれています。

藤森神社 藤棚

むらさきの 雲とぞよそに みへつるは 小高き藤の 森にぞありける 小侍院

紫の雲のように向こうに見えているのは、小高い藤の森であることよ。

小侍院は二条天皇中宮・藤原多子(たし)に仕えた女房です。ついで高倉天皇にも仕えました。『平家物語』「月見」の段では、彼女が詠んだ歌「待つ宵のふけゆく鐘の声きけば帰る朝の鳥はものかは」から「待宵の小侍従」と呼ばれています。

神馬像

藤棚の横には神馬像(しんめぞう)があります。

藤森神社 神馬像

藤森神社が馬の神社であることを改めて思い出させてくれます。ニンジンのお供えがありました。

舞殿・茅の輪くぐり

境内正面に舞殿、

藤森神社 舞殿

舞殿の奥に茅の輪くぐりがありました。

つい先日が6月末日の夏越の祓でしたから、まだ茅の輪が出してあったんですね。くぐり方は左一回、右一回、左一回中くぐるとおぼえてください。

本殿

切妻造、檜皮葺、正徳2年(1712)中御門天皇から賜った宮中の内侍所(ないしどころ)の建物だといいます。

藤森神社 本殿

内侍所は賢所(かしこどころ)ともいい、三種の神器の一つ、神鏡(八咫の鏡)を安置する建物です。

舎人親王について

舎人親王は天武天皇の皇子。

藤森神社 舎人親王の碑

「日本最初の学者」と言われます。持統・文武・元明・元正・聖武、五代の天皇に仕えました。『日本書紀』の編纂を中心となって行い、養老4年(720)完成。元明天皇に献上しました。死後、皇子である淳仁天皇が即位するに際し、崇道尽敬(すどうじんけい)天皇の号が贈られました。

藤森神社 舎人親王の碑

ひ孫の清原夏野は、桓武天皇の御世に臣籍に降下し清原姓を名乗ります。後に清原氏からは清原深養父、清原元輔、清少納言が出ました。清原氏は菅原氏・大江氏と並び代々の学者の家系として知られています。

大将軍社・八幡宮社

本殿裏手に、大将軍社と八幡宮社。

藤森神社 大将軍社

藤森神社 八幡宮社

社殿は六代将軍足利義教による造営といわれます。大将軍とは、平安京の守りとして東西南北に祀られた守護神です。そのうち藤森神社裏手の大将軍社は南の守りを担当しています。

御旗塚

本殿右手に御旗塚。

藤森神社 御旗塚

神功皇后が新羅遠征の帰路、藤森の地に立ち寄った時、軍旗を地面にさして、勝利を感謝して神祭りをしたのを記念した塚です。

不二の水

御旗塚の隣に不二の水。

藤森神社 不二の水

二つとない素晴らしい水ということで不二の水です。こんこんと水が湧いてます。ペットボトルで汲みに来る地元の人も多いです。私が写真を撮ろうとして待っていると、水を汲んでいた方が、どうぞどうぞと順番を譲ってくれました。ほがらかな気分になりました。

藤森神社を後に、西に向います。京阪墨染駅を過ぎ、商店街を歩いていくと、商店街の中に墨染寺(ぼくせんじ)があります。日蓮宗の寺院です。

墨染寺

墨染寺

墨染寺

別名さくら寺。貞観16年(874)清和天皇が貞観寺として建立。後に豊臣秀吉が墨染桜寺(ぼくせんおうじ)として再興してこの地に遷しました。

墨染寺

境内の「墨染桜」の由来は、関白太政大臣・藤原基経が亡くなった時、歌人上野峯雄(かんつけのみねお・かみつけのみねお)が詠みました。

深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染に咲け

この歌の心が通じてか、墨染色の桜が咲いたと伝えられます。この歌と墨染桜が「墨染」という地名の由来です。地名と歌が結びついている…風情がありますね。

近藤勇遭難の地

墨染寺からさらに商店街を西に歩いていくと、近藤勇遭難の地の碑が立っています。

近藤勇遭難の地碑

慶応3年(1867年)12月16日、新選組局長近藤勇は、二条城で新政府軍といかに戦うべきか?打ち合わせをした後、20名ほどに警護されて、馬に乗って伏見奉行所に戻っていました。

近藤勇遭難の地碑

途中、墨染にさしかかった時、物陰に潜んでいた男が、鉄砲を放ち、近藤は左肩を負傷。馬から転がり落ちます。そこへ数人の男が躍り出てきてトドメを刺そうとしますが、

新選組隊士・島田魁らが必死に応戦し、撃退しました。

下手人は、近藤勇に滅ぼされた伊東甲子太郎一派=御陵衛士の残党でした。特に伊東甲子太郎の盟友・篠原泰之進は近藤に対する殺意をたぎらせていたのです。

この時に受けた傷のため、近藤は翌慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の戦いに参加することができませんでした。

近藤勇もたびたび藤森神社に参詣していたといいます。それを想像すると、親しみがわきますね。

本日は京都市伏見区の藤森・墨染を歩きました。藤森神社・墨染寺、いずれも歴史が古く、豊かな風情があります。

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