藤原宮跡を歩く

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本日は藤原京の中心部、藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)を歩きます。

藤原京は694年に持統天皇が飛鳥清御原宮(あすかきよみはらのみや)から遷都し、710年に元明天皇が平城京に遷都するまでの16年間、都が置かれていました。大和三山に囲まれた長方形の都…というのがかつての説でしたが、近年の発掘調査によって藤原京の形も変わってきています。

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藤原宮跡

JR奈良駅からJR桜井線に乗り換え、約1時間。桜井線畝傍駅下車。のんびりした田園風景の中を歩くこと約20分。


見えてきました。藤原宮跡です。

藤原宮跡
藤原宮跡

藤原宮跡
藤原宮跡

西に畝傍山。

畝傍山

北に耳成山。

耳成山

東に天香久山。

天香久山

大和三山が見渡せます。

藤原京の造営計画は、すでに天武天皇の676年に『日本書紀』に記事が見えます。天武天皇は686年に亡くなったので、藤原京の計画は次の持統天皇(天武の后)へと引き継がれることとなります。

690年、持統は正式に即位すると、藤原京遷都計画に着手。694年、それまで都が置かれていた飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)から藤原京へ遷都。以後、持統・文武・元明三代にわたり、和銅3年(710)平城京に遷都するまで藤原京に都が置かれました。

藤原京は中国の長安や洛陽を手本に建設され、中央の朱雀大路から東を左京、西を右京とします。

藤原京 概略図
藤原京 概略図

東西に貫く通り「条」が一条北大路から十条大路まで。これに南北の大路が交差し、碁盤の目のような整然とした都市の作りでした。

中央に藤原宮(ふじわらきゅう)という区画があり、さらにその中央に役人たちが政治を行う朝堂院、天皇や皇族が儀式を行う大極殿、そして内裏が一列にならびました。その左右の区画には役人たちの居住区がありました。

藤原宮 概略図
藤原宮 概略図

藤原宮の周囲は塀と塀で囲まれた空白地帯が取り巻き、東西南北の塀にそれぞれ3つづつ計12の門があり、市街地と隔てられていました。この空白地帯は、平城京や平安京には見られない、藤原京独特のものです。

それまでの都は天皇一代ごとに遷るならわしでしたが(理由は諸説あり、不明)、藤原京は代々都として使えることを意図して建設されました。

藤原京の形

藤原京はかつて、東西2.1キロ、南北3.2キロの長方形の都で、その中心部「藤原宮」は藤原京の中央やや北側に位置すると考えられていました。

しかし昭和55年(1980)発掘調査で、それまで藤原京の外と見られていたエリアからも条坊跡が見つかりました。その後も1990年代に道路の遺構が多く発掘されます。

その結果、従来の藤原京の境域説は否定されました。実はずっと大きい、5.3キロ平方の正方形の都であり、その中央に1キロ四方の「藤原宮」があったということが、わかってきました。

藤原京 概略図
藤原京 概略図

しかし南側は山にかかっており、条坊が区切られたとは思えません。朱雀大路の最南端である羅城門は、藤原京では置かれなかったという説もあります。

大極殿跡

こんもりと盛り土になって木が生い茂っているエリアが大極殿跡です。

藤原宮 大極殿跡
藤原宮 大極殿跡

大極殿は天皇の即位式・大嘗祭ほか、日常のさまざまな儀式が行われました。

藤原宮 大極殿跡
藤原宮 大極殿跡

儀式のたびに天皇が玉座につき、取り仕切りました。大極殿の名は長安城の「太極殿」に由来します。

朝堂院跡

その南の広々としたエリアが朝堂院跡です。朝堂院では役人たちが政務・儀式を執り行いました。藤原宮の中心的な施設です。

藤原宮 朝堂院跡
藤原宮 朝堂院跡

中央に「朝廷」と呼ばれる庭があり、その左右に役人たちが列座する「朝堂」がそれぞれ六堂ずつ、計十二堂配置されていました。

藤原京を詠んだ歌

藤原宮(ふじわらのみや)の御井(みい)の歌

やすみしし わご大王(おほきみ) 高照らす 日の御子 荒栲(あらたへ)の 藤井が原に 大御門(おほみかど) 始め給ひて 埴安(はにやす)の 堤の上に あり立たし 見し給へば 大和の 青香久山は 日の経(たて)の 大御門に 春山と 繁(しみ)さび立てり 畝火(うねび)の この瑞山(みづやま)は 日の緯(よこ)の 大御門に 宜しなへ 神さび立てり 名くはし 吉野の山は 影面(かげとも)の 大御門ゆ 雲居にそ 遠くありける 高知るや 天(あめ)の御蔭 天(あめ)知るや 日の御蔭の 水こそば 常(とこしへ)にあらめ 御井の清水

万葉集 巻第一・五十二

藤原宮の御井の歌

わが大王。高々と照らす 日の御子。ここ藤井の原に 宮殿を築いて王権を行使し始められて、埴安の池の堤の上に お立ちになってご覧になると、大和の青々とした香久山は、東の門に春の山としてうっそうと茂って素晴らしく立っている。

畝火の、この瑞々しい山は、西の門に瑞々しい山として素晴らしく立っている。耳成の 青々とした菅で囲まれた山は、北の門の前に よい感じで、神々しく立っている。

その名も麗しい吉野の山は、南の門を通って、はるか雲の向うに遠くある。高々と統治なさることよ。天の宮殿に。天高く統治なさることよ。日の宮殿の、この水こそは、永遠にあるだろう。御井の清水よ。

■藤原宮の御井 藤原宮の名のもととなった井?所在不明。 ■やすみしし 「わが大君」「わご大君」にかかる枕詞。 ■日の御子 ここでは持統の孫・軽皇子を指す。 ■荒栲の 「藤原」「藤井」など「藤」のつく地名にかかる。■藤井が原 耳成山南方の盆地。 ■大御門 門を抽象化して、宮殿=王権のこと。 ■埴安 香久山の北西の池。 ■日の経(たて) 東。 ■瑞山 みずみずしい山。 ■繁みさび立てり うっそうと茂って趣深く立っている。 ■日の緯 西。 ■青菅山 青々とした菅で囲まれた山。 ■背面の 北の。 ■宜しなへ いい感じで。 ■名くはし 「くはし」は美しい。麗しい。その名も美しい。 ■影面(かげとも)の 南。 ■雲居 雲の彼方。 ■天(あめ)の御蔭・日の御蔭 宮殿のこと。

藤原京跡の西隣には藤原京資料室があります。

藤原京資料室
藤原京資料室

藤原京の復元模型が展示されており、藤原京についてのビデオが上映されています。


二階の窓から天香久山が見渡せます。

天香久山
天香久山


春過ぎて 夏来るらし 白栲の 衣干したり 天の香久山
(万葉集・巻1・28)

春が過ぎて夏が来たようだ。真っ白な衣を干している。天の香久山に。

藤原京朱雀大路跡

藤原京跡の南に藤原京朱雀大路跡が復元されています。

藤原京朱雀大路跡
藤原京朱雀大路跡

藤原京の中央を南北に貫く朱雀大路。路面幅19メートルの左右に、幅4メートルの側溝があったことが昭和51年の発掘調査でわかりました。

ここから北に進むと藤原宮の玄関口「朱雀門」。南へ進むと、日高山を越え、飛鳥川を渡って、藤原京の南の玄関口「羅城門」に続いていたと思われます。ただし、藤原京の南側は山にかかっているので、羅生門はなかったという説もあります。

藤原京朱雀大路跡西に向います。飛鳥川を渡り、

飛鳥川
飛鳥川

正面に畝傍山をみながら進んでいくと、


本薬師寺跡があります。

本薬師寺跡
本薬師寺跡

本薬師寺のまわりの田んぼに、ホテイアオイが一面に咲いていました。畝傍北(うねびきた)小学校の生徒さんたちが植えたものだそうです。奈良に来てよかった…しみじみ実感しました。


薬師寺は天武天皇が680年、皇后(後の持統天皇)が病にかかった時、病平癒のために発願した寺です。686年に天武が亡くなった後も、持統天皇によって造営が進められ、698年に完成しました。

平城京遷都に伴い、薬師寺は養老2年(718)平城京の右京(現在の位置)に遷されます。しかし藤原京の薬師寺も取り壊されたわけではなく、建物は平安時代(院政期)までも残っていたようです。これを平城京の薬師寺と区別して本薬師寺といいます。

本薬師寺跡
本薬師寺跡

本薬師寺跡
本薬師寺跡

田んぼの真ん中に基壇が盛り上がり、礎石が残っています。

本日は持統天皇が遷都した藤原京の中心地・藤原宮跡を歩きました。大和三山の眺めも素晴らしく、田園風景の中を歩いていると心は万葉の昔にいざなわれます。奈良を訪れた際には、ぜひ行ってみてください。

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