学習院大学とその周辺を歩く

■【古典・歴史】メールマガジン

本日は「学習院大学とその周辺を歩く」です。学習院大学は緑豊かで広々として、散歩コースとしてもおすすめです。私の母校でもあります。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

https://roudokus.com/mp3/Gakusyuin.mp3

目白駅から学習院大学へ

JR山手線目白駅下車。駅出てすぐ右手が学習院大学の西門です。

JR目白駅
JR目白駅

学習院大学西門
学習院大学西門

学習院大学西門
学習院大学西門

弘化4年(1847)京都御所の東側に公家のための学習所が設置され、孝明天皇より「学習院」と名が下賜されました。論語の学而第一「学びて時にこれを習う」によるものと思われます。

明治10年(1877)神田錦町に華族のための教育機関が創設され、京都御所内の「学習院」の名を継いで「学習院」となりました。

神田錦町 学習院(華族学校)開校の地の碑
神田錦町 学習院(華族学校)開校の地の碑

明治41年(1908)現在の豊島区目白に移転。昭和22年(1947)以降、一般向けの私立学校となりました。

中入ると、立て看板が左右に並んでいるのが、大学だなあという感じをかき立ててくれますね。


学園祭の時は、立て看レースといって立て看立てる位置を走って、順位で決めた思い出があります。

すぐ右に体育館、左にグラウンドが見えてきます。グラウンドからはポンポンポンポンと、常にボールの音が響いていて、大学情緒が胸に迫ります。


学食前の広場に出ました。ここからは学食のある本館、輔仁会館、黎明会館、西二号館、西五号館が見渡せ、見晴らしのいい所です。



学食前がオープンテラスみたいになっていて、テーブルと椅子が据えてあって、ちろちろちろちろ水の流れが響いて、いい感じです。


久しぶり来たんで、とりあえず学食食べていきます。


TFC桜定食…?

私が学生時代にはなかったメニューが増えてます。お、けっこうマトモなもんじゃないですか。まあ味は微妙なんですけども…その微妙な味の定食すら食べられない時は、「ただ茶飲みに行こうぜ」と、友人と誘い合わせて、ひたすら茶ばかり飲んでいたのも、いい思い出です。

黎明会館

学食の対面にあるのが、黎明会館。いわゆる部室棟です。

黎明会館
黎明会館

ここの漫画研究会で延々と放課後は時間を過ごしていました…放課後と言うかあまり授業に出なかったので、この黎明会館こそ私にとっての大学でした。狭い部室に何人も詰めて、何時間もだらだら喋って…何をあんな話すことがあったのかなと、今想像もつかないです。

体育館裏手には血洗いの池があります。

血洗いの池
血洗いの池

堀部安兵衛が、高田馬場で叔父の敵討ちをした後、この池で刀の血を洗った…という話が、先輩から後輩へ、まことしやかに語り伝えられました。

血洗いの池
血洗いの池

つまり、嘘なんですが、学習院から高田馬場までは歩いて15分くらいですし、舞台設定に無理がなく、なかなかイキなこと考える学生がいたなァと思います。

アジサイの季節は水際のアジサイが色とりどりに映り込んで、いい雰囲気です。黎明会館の建物が映りこんでいるのもいい。ここに戦艦のプラモデルを浮かべて爆撃だとかいって石投げて遊んだのがいい思い出です。大学生がやることかよって話ですが。

乃木舘

キャンパス最奥あたりに乃木希典ゆかりの「乃木館」があります。

乃木舘
乃木舘

明治41(1908)に建てられた昔の学生寮です。第十代院長として赴任した乃木希典がこの学生寮で学生とともに寝起きしたため「乃木館」と言われています。学生のころは何とも思わず立ち止まることもなかったんですが、学校出てだいぶ経ってから行ってみると、ああ、母校にこういう歴史的なものがあったんだなあとシミジミしますね。案内板に乃木希典の歌が掲げられていました。

寄宿舎で楽しきことを数ふれば戟剣音読朝飯の味

乃木院長も音読が好きだったんですね。親近感がわきました。

乃木館の横には榊壇があります。明治43年(1910)学習院大学十代院長・乃木希典が明治天皇行幸を記念して私費を投じて築いたものです。

榊壇
榊壇

榊壇
榊壇

古墳みたいな形です。まさに前方後円墳です。で、その前方後円墳の「後円」の部分に、明治天皇行幸を記念した榊の木がうわってます。

私、学生時代はこれずっと古墳だと思ってて、中に古代の人が埋まってるのかと思ってました。違うんですね。記念しての、ものだそうです。

ピラ校跡

学習院のキャンバスの中央にはかつて「ピラ校」とよばれたピラミッド型の中央教室があったんですが、平成20年に取り壊され、現在は新しい校舎が建っています。

ピラ校跡
ピラ校跡

「ウルトラセブン」第29話でウルトラセブンがプロテ星人との戦いの際、つっこんで倒壊させたことでよく知られています。

そのピラ校の跡には案内板とピラ校のミニチュアがあり、昔の姿がしのばれました。ああ…時は流れ世は変わるのだなあとしみじみ感じ入りました。

キャンパス内で特におすすめなのは、北一号館と北二号館の間の並木道を大学図書館のほうに向かって歩いていくことです。


特に冬枯れた季節に、コートなんか着て歩くと、こう西洋の絵画の中に入り込んだような、おっ、俺今カッコいいなと、自己満足にひたれます。

東別館

東別館です。ここだけ雰囲気違います。

東別館
東別館

明らかに古色蒼然としている。一度も授業で使わないので学生時代、これ何だと思っていたんですけども、ここは学習院の皇族寮だった所です。大正2年(1913)竣工。

正面玄関に馬車を寄せる車寄せがあります。


ははあ馬車で行き来してたんですね。だから廂が高く、しつらえられているんですね。廂の中央には、学習院のシンボル・桜があしらわれています。

そして東別館の隣にある白亜の建物が、北別館です。

北別館
北別館

明治42年(1909)竣工。もとは大学図書館として使われていたものです。現在は資料館として利用されています。

ここも授業で使わないんで、何なんだろうなこの立派な建物はと、いつも横目で見ておりました。

なんか昔この前のベンチでもワアワアと発声練習して、平家物語とか読んでた記憶があります。ここでワアワアやったら迷惑だろうと、今更ながら反省しております。

百周年記念会館

百周年記念会館です。

百周年記念会館
百周年記念会館

創立100周年を迎えた昭和53年に建てられたものですね。こないだこの建物の一室で、漫画研究会の40周年記念式典をやって、10分くらいスピーチをしてきました。久しぶりに大学時代の面々と会えて、うれしかったですね。

つくづく思うのは、学生の時はこんな歴史がある大学とは知らずに通っていたなあと。ただ広くて緑が豊かで、なんか皇室に関係した大学だ、ぐらいの認識でした。あまり歴史を意識せずに通っていました。勿体なかったと思います。

みなさんもぜひ、ご出身の学校をふたたび訪ねて行ってみてください。必ず新たな発見があると思います。

学習院大学の正門を出て、目白通りを千登世橋方面に歩いていきます。

学習院大学 正門
学習院大学 正門

目白通り
目白通り

来ました。千登世橋。

千登勢橋
千登勢橋

明治通りと目白通りとの立体交差橋・千登世橋です。

千登勢橋上から明治通りを望む
千登勢橋上から明治通りを望む

明治通りから千登勢橋を望む
明治通りから千登勢橋を望む

昭和7年架設。眼下に明治通りを見ながら、渡ります。明治通りをまたぐ千歳橋わたると、すぐに都営荒川線の線路をまたぐ千登世小橋があります。

千登勢小橋
千登勢小橋

千登勢小橋上から都営荒川線を望む
千登勢小橋上から都営荒川線を望む

長い千登世橋と、短い千登勢小橋がつらなってるわけです。

千登勢橋(奥)・千登勢小橋(手前)
千登勢橋(奥)・千登勢小橋(手前)

三条大橋と三条小橋の関係みたいで、味わい深いじゃないですか。

のぞき坂

千登世橋・千登世小橋を通り過ぎてちょっと行った所から右に曲がると、のぞき坂。

のぞき坂
のぞき坂

とても急こう配な坂です。よくドラマの撮影なんかで使われます。アニメの舞台になったこともありました。

のぞき坂
のぞき坂

いやほんと、すごい坂だなあ。

確かに、この坂はカッコいいです。どの角度から写真撮ってもバッチリ構図が決まる。ドラマの撮影に使われるのもわかる気がします。とてもドラマチックでカッコいい。

のぞき坂を下りきってちょっと行った所が、目白不動・金乗院(こんじょういん)です。

金乗院
金乗院

金乗院
金乗院

真言宗豊山派の寺院で開山・永順が聖観世音菩薩を勧請して観音堂を開いたのが始まりです。昭和20年4月の戦災で消失し、現在の建物は昭和46年に再建されたものです。

また金乗院の境内にある目白不動堂はもと関口駒井町(文京区)にあったが、昭和20年5月の戦災で消失し、目白不動明王像とともに金乗院境内に移したものです。

江戸守護の江戸五色不動の随一とされます。

江戸五色不動とは、陰陽五行説の五色に基づき、三代将軍徳川家光が、大僧正天海の意見を容れて、江戸の五か所の不動尊を選び、これを江戸鎮守の場として天下泰平を祈ったと言われています。ただしこれは伝説的な話で本当の由来はよくわかりません。

五色には二色足らぬ不動の目

と川柳が残っているので、江戸時代には目黒・目白・目赤だけであり、明治以降、目黄・目青が登場し、陰陽五行説に結び付けられたと思われます。

実際、江戸五色不動というものがどれくらい信じられていたか?まして江戸時代にどうだったか、はなはだ怪しいんですが、天海大僧正とか、陰陽五行説といった道具立てがオカルトチックでワクワクするためか、漫画やゲームといったサブカルチャーの世界では採り上げられることが多い題材です。

丸橋忠弥・青柳文蔵の墓

墓地には槍術の達人で、由比正雪とともに江戸幕府転覆をはかった丸橋忠弥の墓、青柳文庫創設の青柳文蔵の墓があります。

墓に向かう道すがらも古そうな庚申塔や地蔵さんが並んでいて、おおっと思います。




けっこう広い墓地ですねえ。

住宅街の中にあってキーキーと鳥が鳴きしきり、ガラガンガラガンと卒塔婆が風にゆれる音がいい感じ。木枯しに何語らうや卒塔婆たち、なんてのはどうですか。

来ました。丸橋忠弥の墓。


丸橋忠弥は槍の達人で、江戸御茶ノ水に道場を開いていました。慶安4年(1651)由比正雪に加担し江戸幕府転覆をはかります。が、事前に内部告発によって発覚。品川鈴ヶ森刑場にて処刑されました。

丸橋忠也は、河竹黙阿弥作の歌舞伎「慶安太平記」…通称「忠也」で有名です。小雨降りしきる江戸城二重橋(にじゅうばし)前で、丸橋忠屋が「ああいい心持ちだぁ」と言って酔ったフリをしてお濠に石を投げてお濠の深さをはかっていると、それを見とがめた松平伊豆守がさっと傘を差しだす。忠也ハッと驚くという場面。有名ですね。北原白秋の詩にも歌われています。

そして青柳文蔵の墓。


仙台藩出身で江戸に出て儒学を学び、仙台に青柳文庫を創設しました。2万冊の蔵書がありました。日本における図書館の始祖、とあります。

境内右手の階段を上った先が、目白不動堂です。ボイスレコーダーで鐘の音を拾ってみました。



次回は「蒲原・由比を歩く」です。お楽しみに。

次の旅「落合を歩く

■【古典・歴史】メールマガジン