鎌倉 坂ノ下・極楽寺を歩く

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本日は、「鎌倉 坂ノ下・極楽寺を歩く」です。

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御霊神社

長谷方面を後に、坂の下を目指して西に向かいます。


しばらく住宅街を進み、道が入りくんできたなと思ったら、御霊神社の入り口です。



御霊神社は鎌倉権五郎景政を祀った神社です。鎌倉権五郎景政は桓武天皇の末裔(桓武平氏)で、父鎌倉権守景成の代から鎌倉に住む一方、湘南一帯(戸塚、鎌倉、鵠沼、藤沢、茅ヶ崎)を開発ました。

権五郎景政は奥州後三年合戦の時、源義家にしたがって16歳で出陣。敵将鳥海弥三郎(とりみやさぶろう)に左目を射ぬかれるも、ひるまず射返し、鳥海弥三郎を倒しました。戦がすんでから自陣に戻ると、同族の三浦為継が矢を抜いてやろうといって、景政の頭を足蹴にして引き抜こうとします。

「何をするかッ!」

「何をって、抜いてやるんだ。それじゃ痛いだろう」

「無礼者がっ!武士として敵の矢を受けるのは本望。されど、
足蹴にされる屈辱は、堪えられぬッ」

「そ…そうか。そりゃあ悪かった」

こうして足蹴をやめて膝で抑えて矢を抜いた…という話が伝わります(『奥州後三年記』)。

鎌倉権五郎景政は祖先は桓武平氏・平良文であり、子孫には梶原景時がいます。鎌倉権五郎景政の命日とされる9月18日には、「面掛行列」という例祭が行われています。

御霊神社はは周囲を緑に囲まれ、ヒヤッとするほど涼しかったです。この日は太陽がギラギラとして暑い日でしたが、それでも、ここ御霊神社だけは涼しかったです。


境内には権五郎景政の弓立の松。


また権五郎景政が手玉に取り、袂に入れたという手玉石・袂石があります。


さっきは裏口から入ってしまいましたが、正面の鳥居は、江ノ電のすぐ近くにあります。ひっきりなしに江ノ電が行き来しています。チンチンチンチン…音も風情がありますね。



御霊神社を後に、住宅街の中をしばらく進むと、星の井通りとぶつかります。その角にあるのが、力餅家です。


元禄3年(1690)創業。300年以上の歴史のある和菓子屋です。中にも権五郎力餅は、鎌倉名物として有名です。



白箱の中央に金地に白く「鎌倉名物 権五郎力餅」と書かれたシンプルなデザインです。箱を持つとずっしり重く、いかにも「いいもの入ってる」感があり、開けるのが楽しみになります!「今日中に召しあがってくださいね~」きさくに教えてくれました。

餅はコシが強く、甘さは控えめです。いかにも力が出る感じ!鎌倉権五郎景政の豪胆さが、餅を通して、わーーっと乗り移ってくる感じです!

星の井・虚空蔵堂

力餅屋から右に折れ、星の井通りを歩いてきます。すぐ右に見えてきました。鎌倉十井の一つ・星の井と、虚空蔵堂(真言宗星井寺(せいせんじ))です。



かつて、このあたりはうつそうと樹木が茂り、昼なお暗く、井戸をのぞくと昼でも水面に星が輝いて見えたことから、星の井、もしくは星月夜(ほしづきよ)の井と言われるようになったということです。


奈良時代の名僧・行基は、全国を修行してまわっていた時、この場所で虚空蔵菩薩を祀っていたところ。傍らの井戸の中から光輝く石が見つかりました。「これは虚空蔵菩薩の化身に違いない」そう信じた行基は、木像の虚空蔵菩薩を作って、安置したと伝えられます。

虚空蔵堂は現在、向かいの成就院の管理となっています。無人ながら、どこを見ても説明が詳しく書いてあり、解説書も置いてあり、管理者の親切な人柄がしのばれます。

虚空蔵堂を後に星の井通り西へ進んでいくと、しだいに坂道になります。鎌倉七口の一つ・極楽寺坂切り通しです。道傍に説明が書いてあります。



仲良し主婦グループとおぼしき人々が「あっ、解説解説、あるよー」と立ち止まり、しばし読み入っていましたが、「なんかよくわかんないわ」ワッと笑って、去っていきました。すっかり舗装されて、切通の面影はほとんどありませんが、ゴツゴツした岩肌がネットごしに見えており、わずかにここが切り通しであることを実感させてくれます。



元弘三年(1333)、新田義貞の鎌倉攻めの際、新田方の大将として大館次郎宗氏・江田三郎行義がここ極楽寺坂に向かい、鎌倉方の大将としては大佛陸奥守貞直が、防ぎ戦いました。現在は緩やかな坂道ですが、これは明治以降の改修工事で掘り下げられたためで、もとはずっと急な坂でした。

成就院

極楽寺坂左手に分岐する坂道があり、登っていくと、真言宗大覚寺派の寺・成就院です。



参道両側のアジサイは般若心経の文字数にあわせて262株あり、アジサイの寺として有名です。しかし2017年まで改宗工事中で、アジサイの数もかなり減っていました。また正面には由比ヶ浜と鎌倉の海がパアッと見渡せるはずですが…これも工事のため視界が阻まれており、現在は、見えません。2年後のリニューアルに望みを託し、山門をくぐります。



本堂の広い屋根が、まず視界に飛び込んできます。

境内には弘法大師像、


御本尊のレプリカである不動明王像…これは縁結びの御利益で知られています。


聖徳太子の夢殿の模型、


文覚荒行像など、


あちこちに見所があります。特に文覚荒行像はちっさくて見つけにくく、つい見逃してしまうので注意が必要です。

極楽寺坂を上りきると、江ノ電にかかる桜橋です。谷底を江ノ電が走っていくのが見下ろせます。その谷の上に桜橋がかかっているのです。桜橋からは江ノ電唯一のトンネル・極楽洞がうかがえます。


明治40年に作られたレンガ造りのトンネルです。風情があります。じっくり観察してから、桜橋を渡ります。

すぐに極楽寺の山門が見えてきます。


極楽寺は鎌倉で唯一の真言律宗の寺です。もとは深沢(鎌倉北西部)にあったのを、正元元年(1259)北条重時が現在の場所に移しました。後に奈良・西大寺に学んだ忍性を開山として招き、真言律宗の寺となりました。

また極楽寺といえば、歌舞伎『白波五人男』のクライマックスシーンで、弁天小僧が屋根の上に追い詰められ、腹を切る場面が有名です(「極楽寺大屋根(ごくらくじおおやね)の場」)。

茅葺の山門をくぐり、葉桜のまぶしい参道を歩いていくと、ぱっと空間が開け、まず見事な百日紅の木が目に飛び込んできます。正面に本堂。本堂右手に宝物館の天法輪殿(てんぽうりんでん)。

その手前に千服茶臼(せんぷくちゃうす)という大きな茶臼があります。開山の忍性は忍性は、貧民や病人の救済といった社会事業にはげみ、医王如来と言われています。その忍性が、薬として茶をひいて、人々に飲ませた、その臼だと言われています。たくさんの人に飲ませたから、千服茶臼というわけです。

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