京都御所を歩く

先日、宇治に行ったら宇治川の中島で、鵜飼の鵜に餌付けしてました。お姉さんが首に紐をつけたまま鵜を宇治川に放ち、小魚を投げ与えてました。水の中をスイスイと泳ぎまわる鵜の姿は、まるでビール瓶が泳いでいるように見え、面白かったです。

本日は京都御所を歩きます。

京都御所は元弘元年(1331)光厳天皇が即位してから明治2年(1869)明治天皇が東京に遷られるまで、約500年間、歴代の天皇がお住まいになった場所です。

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京都御苑のほぼ中央に位置し、南北約450m、東西250m、面積11万平方メートル。周囲を風情ある築地塀に囲まれた、長方形のエリアです。春と秋には一般公開されています。

京都御苑

地下鉄烏丸(からすま)線丸太町(まるたまち)駅もしくは今出川(いまでがわ)下車。もしくはバス停烏丸丸太町(からすままるたまち)か烏丸今出川(からすまいまでがわ)下車。

京都御苑

京都御苑に入ります。玉砂利の道を歩いていきます。時々、アオサギや猫がいて楽しいです。アオサギと猫が仲良くエサを食べてる様子なんか、癒やされます。

御所の南側の道で東を向くと、真正面に大文字山…如意ヶ岳がみえて気分高まります。晴れた日にはいっそう気分高まります。

京都御所の歴史

延暦13年(794)10月22日、桓武天皇が長岡京から平安京に遷都しました。当初、天皇のお住まいである内裏は現在の京都御所から西へ2キロ…現在の千本丸太町の付近にありました。

しかし、内裏とそれを取り巻く大内裏はたびたび火事に見舞われます。そのたびに天皇以下、平安京の貴族の屋敷などに避難し、仮の御所として住まわれました。この仮御所のことを里内裏といいます。

平安時代後期になると最初の内裏は次第に使われなくなります。鎌倉時代の安貞元年(1227)火事で焼けて以来再建されず、内野と呼ばれる荒れ野となりました。御所はもはや里内裏に置かれるのが当たり前となりました。

現在の京都御所は元弘元年(1331)北朝の光厳天皇が即位した里内裏・土御門東洞院内裏(つちみかど・ひがしのとういんだいり)を前身とします。

火事で何度も焼失しますが、織田信長や豊臣秀吉により再建・拡張されていきました。

天明8年(1788)の火事で焼失すると、老中松平定信が有職家の裏松固禅(うらまつこぜん)に厳密な考証を行わせ、平安時代の建築様式にのっとり再建させました。

寛政2年(1790)紫宸殿や清涼殿、その他の御殿が完成。しかしこの内裏も幕末の嘉永7年(1854)に焼失してしまいます。翌安政2年(1855)、松平定信が再建した時の古式に乗っ取り再建されたのが現在の京都御所です。

光厳天皇以後、明治2年(1869)明治天皇が東京に遷られるまで、約500年間、歴代の天皇がお住まいになりました。

王政復古の大号令、小御所会議、五箇条の御誓文の発布など歴史的事件の舞台となり明治・大正・昭和の天皇の即位礼が行われた場所でもあります。

御車寄(おくるまよせ)

御所東側の清所門から中に入ります。入り口で荷物チェックを受けて、整理札を渡されます。

京都御所 清所門

まず左に見えてくるのが御車寄です。

京都御所 御車寄

公卿・殿上人をはじめとする身分の高い貴族が、参内した時に使った玄関です。清涼殿や小御所と廊下でつながっています。

京都御所 御車寄

諸大夫の間(しょだいぶのま)

参内した公家や幕府の役人の控えの間です。

京都御所 諸大夫の間

身分によって3つの部屋があり、格の高い順に虎の間・鶴の間・桜の間と、襖絵によって名付けられています。

畳縁の色や、部屋への入り方にも身分によって差が設けられていました。格の高い虎の間・鶴の間を使う者は正式な玄関たる御車寄から入るが、格の低い桜の間を使う者は、諸大夫の間左側の沓脱石(くつぬぎいし)から上がりました。

京都御所 諸大夫の間沓脱石

新御車寄(しんみくるまよせ)

諸大夫の間の南に新御車寄。

京都御所 新御車寄

京都御所でもっとも新しい建物です。かつてこの場所には奈良の橿原神宮に移築された神嘉殿という建物がありました。

そこに大正4年(1915)大正天皇の即位令が紫宸殿で行われた際、玄関として作られたのがこの新御車寄です。馬車による行幸のことも考えて大きく作られています。

天皇が御所の南面から出入りされた伝統を踏まえ、南向きに建てられています。

紫宸殿(ししんでん)

通路に沿って進んでいきます。南に建礼門(けんれいもん)、

京都御所 建礼門

北に承明門(じょうめいもん)。承明門の朱塗りの柱ごしに見えるのが紫宸殿(ししんでん)です。

京都御所 承明門

京都御所 承明門・紫宸殿

紫宸殿は内裏でもっとも格式の高い正殿です。天皇の元服や即位礼、立太子、節会などの儀式が行われました。

京都御所 紫宸殿

東西9間(約33m)、南北4間(約23m)、入母屋造り、桧皮葺、高床式総桧造の建物です。内裏の最南部にあることから南殿(なんでん)・前殿(ぜんでん)ともいいます。

簀子の中央に設けられた18段の階段(南階(みなみのきざはし))と、桧皮葺の黒々した屋根がひときわ目をひきます。

建物は巨大でありながら威圧感はまったく無く、簡素で親しみやすい日本的な美をたたえています。寝殿造りの原型として、多くの貴族の邸宅のモデルとなりました。

正面東に左近の桜、西に右近の橘を配します。左右それぞれ、左近衛府・右近衛府が陣を置いたことの名残です。

京都御所 紫宸殿 左近の桜

京都御所 紫宸殿 右近の橘

左近の桜は桓武天皇の初期は左近の梅でしたが、平安時代に入って5代目の仁明天皇の時に桜に変わったといいます。

右近の橘は、11代垂仁天皇にお仕えした忠臣・田道間守命(たじまもりのみこと)が、不老不死の木の実といわれる非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)=橘を求めて海をわたり、ようやく手に入れて戻ってきた時には天皇が亡くなっていたという故事から、橘は天皇への忠義の象徴です。

白砂をしきつめた南庭(だんてい)は朱塗りの回廊に囲まれています。即位礼の時はこの庭に旗などが並びました。

現代の紫宸殿は安政2年(1855)平安時代の建築様式にのっとり再建されたものです。慶応4年(1868)「五箇条の御誓文」が発布された場所であり、明治・大正・昭和三代の天皇の即位礼もここ紫宸殿で行われました。

高御座・御帳台(たかみくら・みちょうだい)

紫宸殿内には天皇の御座である「高御座」、皇后の御座である「御帳台」が置かれています。即位礼の時に使われる調度品です。大正2年(1913)に製作され、大正・昭和・今上天皇の即位礼で用いられました。

来年10月に予定されている「即位礼正殿の儀」(新天皇のご即位式)にあわせ、現在、高御座と御帳台は東京の皇居に遷されています。一度解体して、飛行機で運んだそうです。

清涼殿

紫宸殿の裏手の道を通って清涼殿へ。

京都御所 清涼殿

清涼殿は紫宸殿の北西に位置します。入母屋造り・桧皮葺・寝殿造りの建物です。平安時代中期以降、天皇の日常お住まいになりました。

京都御所 清涼殿

紫宸殿が公の儀式・政務を行う場所であるのに対し、清涼殿は日常的な政務や毎日の四方拝・叙位・除目などが行われました。

天正18年(1590)御常御殿に天皇のお住まいが移ってからは、主に儀式の際に使用されるようになりました。

紫宸殿より床が低く間仕切りも多く複雑な構造になっています。延長8年(930)6月26日雷が落ち、大納言以下6名が焼死しました。「清涼殿落雷事件」です。3ケ月後、醍醐天皇は崩御しました。この事件は菅原道真の祟と恐れられました。

東庭・漢竹・呉竹(とうてい・かわたけ・くれたけ)

白砂をしきつめた正面の庭を「東庭」といい、向かって左に漢竹(かわたけ)、右に呉竹(くれたけ)が配され、清涼殿に優雅な雰囲気を添えています。

清涼殿 漢竹

清涼殿 呉竹

兼好法師『徒然草』には、

「呉竹は葉が細く、漢竹は広い。清涼殿の御前を流れる溝に近いほうが漢竹である」

と記されています(200段)。紫宸殿の左近の桜・右近の橘と違い、左右のバランスをあえて崩して空間を引き締めています。

清涼殿 漢竹・呉竹

昼御座(ひのおまし)

中央の畳敷きの部分が天皇の日常の御座所(おましどころ)である「昼御座(ひのおまし)」です。

清涼殿 昼御座

御帳台を隔てて北側には天皇の御寝所である「夜御殿(よんのおとど)」がありますが、見学はできません。

荒海障子(あらうみのしょうじ)

清涼殿北東の襖障子は荒海障子(あらうみのしょうじ)。

清涼殿 荒海障子

清少納言『枕草子』に「荒海の岸辺に、姿おそろしげな手長足長を描いた障子」と紹介されていることから、この名があります。

滝口(たきぐち)

清涼殿の御前を幅約50cmの御溝水(みからみず)が流れます。

清涼殿 御溝水

この御溝水が北側に流れ落ちるところを滝口といいます。

清涼殿 滝口

ここに清涼殿を警護する武士が詰めていたので、その警護の武士のことを「滝口の武士」といいました。

『平家物語』に登場する滝口の武士・斉藤時頼がもっとも有名です。

滝口の武士・斉藤時頼は建礼門院の雑仕女・横笛と恋仲になりました。しかし出家して嵯峨往生院にこもります。そこを横笛が訪ねていくが、時頼は修行のさまたげになると考えて居留守を使う。絶望した横笛は大堰川に身を投げるという話です。

小御所(こごしょ)

京都御所 小御所

鎌倉時代以降建てられたものです。寝殿造りと書院造りの中間にあたる建物で建築様式が新しくなっていることに気づきます。

江戸時代には将軍や大名との対面や儀式が行われました。慶応3年(1867)12月7日、徳川将軍家への処置を決めた「小御所会議」が行われた場所として有名です。

昭和29年(1954)鴨川から上った花火が小御所を直撃し、炎上してしまいました。現在の建物は昭和33年(1958)の再建です。

御池庭(おいけにわ)

小御所・御学問所の東に設けられた優雅な池泉回遊式庭園です。

京都御所 御池庭

中央に池を配し「欅橋」をかけ、西側は玉石を敷き詰めて州浜をあらわします。前田玄以の作庭で、後に小堀遠州が改修したと伝えられます。

蹴鞠の庭(けまりのにわ)

御池庭正面、小御所と御学問所の間に蹴鞠の庭(けまりのにわ)。

京都御所 蹴鞠の庭

ここで行われる蹴鞠を、御学問所から天皇がご覧になったという記録があります。

御学問所(おがくもんじょ)

慶長18年(1613)清涼殿から独立した御殿。

京都御所 御学問所

外観は完全に書院造りとなり時代が下ってきてきていることを実感できます。蔀戸にかわって舞良戸が用いられている点に注目です。慶応3年(1867)明治天皇により「王政復古の大号令」が発布された場所です。

御常御殿(おつねごてん)

京都御所でもっとも大きな御殿です。

京都御所 御常御殿

明治天皇も一時ここで過ごされました。天正18年(1590)清涼殿内の常御所が独立したものです。

天皇の日常の生活の場であり、またさまざまな儀式が行われました。内部は神器をおさめる「剣璽の間」、天皇の御寝所である「御寝の間」など15室に分かれます。

御常御殿東側の御内庭(ごないてい)は遣水を流し、石橋や土橋を配した風雅な庭園です。

京都御所 御常御殿

京都御所 御常御殿 御内庭

御三間(おみま)

御常御殿の南側の通路を通っていくと、右手に御三間が見えます。

京都御所 御三間

宝永6年(1709)御常御殿の一部が独立したものです。上段・中段・下段の間に分かれています。ここは儀式などを行う御殿です。

万延元年(1860)祐宮(さちのみや)…後の明治天皇の成長を願う儀式「深曽木の儀(ふかそぎのぎ)」が行われました。

以上、一般公開され歩ける部分は京都御所の半分ほどですが、平安時代の寝殿造りから鎌倉・江戸の書院造りへ。建築様式においても時代が下っていくことが実感されます。

王政復古の大号令、五箇条の御誓文などが発布され、歴史のターニングポイントとなったことを思うと感動がこみあげます。平成という一つの時代が終わろうとしている今こそ、この国の来し方行く末に思いをはせながら、京都御所、歩いてみるのはいかがでしょうか?

次回は泉涌寺を歩きます。お楽しみに。

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