浜松を歩く

こんにちは。左大臣光永です。

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本日は静岡県浜松を歩きます。

浜松は元亀元年(1570)徳川家康が29歳で赴任して浜松城を築き、天正14年(1586)45歳で駿府城に移るまでの17年間を城主として過ごした場所です。

その間、家康は三方原の合戦で武田信玄に惨敗し、また長男信康を自殺させるという悲劇も味わっています。

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徳川秀忠公 誕生の井戸

JR浜松駅下車。

JR浜松駅前

北口に出て、遠州鉄道鉄道線に沿った、第一通りを北に向います。

浜松 第一通り

遠州病院の前、新川交番の裏手に徳川秀忠公 誕生の井戸の碑があります。二代将軍秀忠がここで産湯につかったということです。

徳川秀忠公 誕生の井戸

ただし生まれたのは浜松城の二の丸という説もあり、この場所で産湯につかったという話はあやしいです。

この井戸もレプリカだし、そもそも場所がわかりづらいるし…

がっかりスポットと言えば言えます。

しかし!秀忠が家康の浜松城主時代に生まれたことは事実です。それをおぼえる、よすがとしましょう。

二代将軍徳川秀忠(1579-1632)。

徳川家康の三男として天正7年(1579)浜松に生まれます。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦では真田一族の足止めに足止めを喰らい、天下分け目の合戦に遅刻し、父家康の怒りを買いました。

慶長8年(1603)徳川家康は征夷大将軍になりますが、2年後、秀忠に将軍の位を譲り、隠居。しかし隠居後も家康は駿府で大御所として政治の実権を握り続けました。

家康存命中、秀忠の活躍は冴えないものでした。駿府で家康が大御所として政治の舵を取り続け、秀忠が独自に判断できることはほとんどありませんでした。

しかし、元和2年(1616)家康が没して本格的に秀忠時代が到来すると、秀忠はがぜん張り切ります。実に41家もの大名を取り潰し、徳川の力を示しました。潰された中には徳川の身内である松平忠輝や、関ヶ原で徳川に尽くした福島正則もありました。

将来の危険分子を、容赦なく排除して、徳川260年の基盤を築いたのが秀忠と言えます。

曳馬東照宮

遠州鉄道の高架線を背にして、西へ向います。道が上り坂になってきました。見えてきました。曳馬東照宮です。

曳馬東照宮

曳馬東照宮

曳馬東照宮は浜松城の前身である曳馬城の跡地です。入り口に曳馬城跡の碑が立っています。

曳馬城後碑

元亀元年(1570)家康が入城すると、もともとあった曳馬城を拡張して、浜松城としました。

また浜松には子供時代の日吉丸…豊臣秀吉も訪れた話があり、境内には日吉丸と家康の像が並んで立っています。

曳馬東照宮 日吉丸と家康像

浜松城公園

曳馬東照宮を後に西に向います。県道152号線(秋葉街道)を超えるとそこが浜松城公園と浜松城跡です。

浜松城公園

浜松城公園 若き日の徳川家康像

浜松城公園

浜松城は元亀元年(1570)徳川家康が築いた城です。家康はもとの城であった岡崎城を嫡男信康に譲り、この地にもともとあった曳馬城に入り、名を浜松城と改めました。29歳の時です。以後、家康は天正14年(1586)45歳で駿府城に移るまでの17年間を浜松城主として過ごしました。

この間、姉川、長篠、小牧・長久手などの有名な戦いがありました。天正7年(1579)長男の信康を切腹させるという悲劇も味わっています。

そして元亀3年(1572)三方ヶ原の合戦は家康生涯最大の負け戦です。家康は三方ヶ原の敗北を生涯忘れず教訓としました。

天正18年(1590)徳川家康の関東移封後、堀尾吉晴・忠氏父子が城主となり大規模な改修を行います。その後も何度か改修が繰り返され、天正年間(1573-92)にほぼ完成をみました。

江戸時代を通じて、浜松城は「出世城」と呼ばれるようになります。代々の浜松城主は老中に6人、大阪城代に2人、京都所司代に2人、寺社奉行に4人が登用されました。浜松城主になると出世するということで評判になりました。

中にも水野忠邦は石高で勝る肥前唐津藩から、わざわざ希望して浜松城に移ってきました。その甲斐あってか、水野忠邦は老中にまで出世し、天保の改革を行ったことはよく知られている通りです。

明治維新後、城郭は取り壊されましたが、昭和33年(1958)市民の寄付により天守が復元されました。とはいえ正確な図面も絵もなく、本来の浜松城天守がどんな姿だったかは知るよしもありません。

犀ヶ崖公園・犀ヶ崖資料舘

浜松城公園西側の県道257線(姫街道)を北上。東西に走る館山寺(かんざんじ)街道と交差したすぐ右側に、犀ヶ崖(さいががけ)公園と犀ヶ崖資料舘があります。があります。

犀ヶ崖公園

犀ヶ崖資料舘

元亀3年(1572)12月22日。

三方ヶ原の合戦にて徳川家康は武田信玄に惨敗し、浜松城まで撤退します。その夜。武田軍が浜松に侵攻してきます。

しかし徳川軍は地理にうとい武田軍をおびき寄せ、ここここ犀ヶ崖の断崖に突き落とした…と伝えられます。

この話をもとに、ある伝説が生まれました。

徳川軍は白い布を崖の上に渡して、橋のように見せかけたと。そこをあっ、橋があると渡ろうとした武田軍がわーーと崖下に落っこちたと。

そんなバカなって話ですが…武田軍が浜松の地理にうといことを利用して徳川軍が攻めた。そのことを寓話的に語ったものでしょう。ここから布橋という地名が生まれました。

崖下に落ちた武田軍の亡霊がイナゴとなって農作物に被害を与えたため、僧を招いて鉦と太鼓を叩き念仏上げて供養した。これが遠州大念仏の由来です。

本日は浜松を歩きました。浜松は元亀元年(1570)徳川家康が29歳で赴任して浜松城を築き、天正14年(1586)45歳で駿府城に移るまでの17年間を城主として過ごした場所です。しっかり勉強してから歩くと、それだけのものを返してくれる場所です。家康や武田信玄の昔に思いをはせながら、ぜひ歩いてみてください。

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