西郷隆盛・加藤清正ゆかりの熊本県花岡山に登る(一)

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本日は「西郷隆盛・加藤清正ゆかりの熊本県花岡山に登る(一)」です。

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熊本駅近くの花岡山は山頂に仏舎利塔がそびえ、よく目立つ熊本駅前のランドマークです。

明治9年の神風連の乱で犠牲になった官軍の墓地があり、西南戦争で薩摩軍が熊本城を砲撃した場所であり、加藤清正が熊本城の石垣の石を切り出した場所であり…

戦国時代から江戸時代、幕末から明治と、時の流れがクロスしているような場所です。

北岡神社

JR熊本駅下車。東口から出ます。


もう駅出たところから、花岡山山頂の仏舎利塔が見えてきます。期待が高まります。


徒歩3分。見えてきました。

北岡神社です。


厄除けの夫婦楠…対になった楠木が見事です。



境内入ると…



お正月の名残ですね。拝殿前で篝火が燃えてるのが、厳かでした。


北岡神社は天元2年(979)に京都の祇園社(八坂神社)を勧請して創建された神社です。もとは京都の祇園社と同じく祇園社と呼ばれ、花岡山の上にありました。


正保4年(1647)現在地に移され肥後国府のあった二本木の北に位置することから、北岡神社と改名されました。祀神はスサノオノミコトとクシナダヒメはじめ八柱…京都の祇園社(八坂神社)に祀られている神々と同じです。

熊本藩主 加藤氏・細川氏に厚く信仰されました。

私は子供のころからよく三社参りなど訪れた神社ですので、思い入れが深いです。

参道の脇の石垣の上に「西郷隆盛先生本営碑」が、立っています。


この場所には、西南戦争の時、薩摩軍の本営が置かれました。明治10年(1877)2月20日、薩摩軍は川尻に到着。旧家今村邸に一泊。

この前日の19日には熊本城の天守が出火しています。原因不明です。

22日から西郷軍は、熊本城下に入り、光永大膳宅を本営とし、熊本城の包囲に乗り出しました。

しかし熊本城の守りは思いのほか固く、籠城戦は長引きます。

西郷隆盛は最初の予定を変更して、熊本城の守りは固めつつ、軍勢を北上させる策に出ます。そこへ政府軍が小倉から押し寄せてきて、田原坂で激戦が行われたわけです。

西郷隆盛を宿泊させた神官・光永大膳の素性はわかりませんが、わが光永家はこのあたりが本拠地であったらしいので、ひょっとしたら親戚かなと思うと、ワクワクしました。

清原神社

北岡神社の隣の胴一本隔てて細い階段を下りた先には、清原神社があります。




百人一首の歌人として有名な、清原元輔を祀った神社です。


清原元輔は寛和2年(986)肥後国司として赴任しました。この時清原元輔79歳。当時、肥後国府は現在の熊本市二本木(にほんぎ)に置かれていたといいます。

以後、清原元輔は正暦元年(990)83歳で没するまで肥後にありました。その間、女流歌人桧垣との交流が伝説されます。肥後滞在中の歌として金峰山の鼓ヶ滝や藤崎八幡宮の歌が家集に残っています。

おとに聞く鼓ヶ滝をうち見れば
ただ山川になるにぞありける

評判に名高い鼓ヶ滝を見てみると、ただ山川に滝の音が鳴り響いている。

藤崎の軒の巌に生ふる松
今幾千代の子の日すぐさむ

藤崎の軒の岩に生えている松よ。お前は今まで、幾千代の、正月の子の日を経験して過してきたのか。これは熊本市内の藤崎八幡宮を詠んだ歌です。現在、藤崎八幡宮境内に歌碑が立っています。

ただし当時の藤崎八幡宮は現在のそれとは違い、熊本城の西・藤崎台球場のあたりにありました。

神社というか小さな祠ですが、私はいつもここに来ると、ああ熊本に帰ってきたなあとホッとする感じがあります。

清原神社から少し熊本駅方面に引き返すと、住宅街の中に岫雲院(しゅううんいん)があります。


初代肥後細川藩主・細川忠利を荼毘に付した臨済宗大徳寺派の寺です。

このあたりの住所が春日(かすが)であることから、地元では春日寺(かすがんじ)と呼ばれています。

細川忠利(1586-1641)。

細川家は関ヶ原の合戦の功績により、豊前小倉藩に封じられていました。元和6年(1620)忠利は父忠興の家督を継ぎ、小倉藩主となります。

寛永9年(1632)肥後の加藤家が二代で取り潰しになりましたので、その後を埋める形で豊前小倉藩39万石から肥後熊本54万石に移封。初代熊本藩主となりました。

晩年に宮本武蔵を客人として熊本に招いたことで有名です。

細川忠利公がこの寺を訪れた時、茶飲み話に、自分が死んだらこの寺で荼毘にふしてくれと言われた。そこで、寛永18年(1641)忠利公が亡くなると、実際にこの寺で荼毘に付しました。

その時に伝説があります。

忠利公の遺体を荼毘に付すと、たちのぼる煙の上空に、鷹が二羽飛んできた。

一羽がさーーっと炎に飛び込んだ。アッと思っているともう一羽が、すーーっと井戸に飛び込んだ。二羽の鷹は忠利公が鷹狩に使っていた「有明」と「明石」でした。

ああなんと哀れ深いことよ。鷹も情けを知って殉死したのだと涙を流さぬ者はなかったと伝えられます。

忠利公が亡くなった時は鷹だけでなく人間の家臣も多数殉死しました。その様子は森鴎外の『阿部一族』に描かれています。

境内には「明石」が殉死したという井戸跡、また忠利公を荼毘(火葬)の跡があります。なんの変哲もない境内ではありますが…忠利公の最期を思いながら歩くとき、しみじみと感慨がこみあげ、心は早くも江戸時代へトリップしていく感じがします。

花岡山へ

線路脇の「清水寺」は丸い石門が特徴的です。




遠くからも目出ちます。京都の清水寺を意識してか、寺の横の斜面にはわーーっと墓が立ち並んでいます。その墓の間の道を、登っていきます。



こんな高台に墓があったら墓参りも大変だろうなァと思いつつ歩いていくと、

途中、阿蘇殿松跡(あそどののまつあと)があります。


12歳の阿蘇大宮司・阿蘇惟光(あそ これみつ)が羽柴秀吉から切腹を命じれた。その霊を供養して植えられた松です。

阿蘇氏は代々阿蘇神社の大宮司をつとめ、矢部(上益城郡山都町)に荘厳な屋敷を構える戦国大名でもありました。

しかし、天正15年(1587)秀吉により九州は平定されます。薩摩の雄・島津氏も秀吉に膝を屈しました。

九州の各大名は新しい支配者・羽柴秀吉に挨拶うかがいをしました。

しかし阿蘇家の当主・阿蘇惟光(あそ これみつ)はまだ幼少だったため、秀吉にへの挨拶うかがいを怠りました。そのことを秀吉は根に持ち、無礼であるとして阿蘇氏の所領を没収してしまいます。

天正18年(1590)加藤清正が熊本に、小西行長が宇土(うと)に入り、清正は阿蘇惟光を、行長は弟の惟善を預かることとなりました。


秀吉はその後も阿蘇氏を快く思わず、取り潰す口実を探していました。

文禄元年(1592)秀吉の朝鮮征伐が始まります。加藤清正と小西行長はともに司令官として朝鮮に派遣されました。

その留守を見計らって、九州で騒ぎが起こります。

薩摩の島津義久の家臣・梅北国兼(うめきた くにかね)が加藤清正の城である桟敷城(さじきじょう。芦北町桟敷駅近く)を攻撃したのです。

文禄元年(1592)梅北の乱です。

桟敷城では降伏すると見せかけて酒宴を開くと、梅北国兼を殺害し、桟敷城を奪い返しました。この騒ぎはすぐに秀吉に伝えられます。

「やっと九州を平定したのに、また騒ぎを起こしおって!」

秀吉は激怒しました。そしてこの事件の背後に阿蘇氏が糸を引いていた、という讒言をうのみにして、これ幸いと阿蘇惟光に切腹を命じました。

むざん、阿蘇惟光は12歳の命を散らすこととなりました。

その、阿蘇惟光の霊を慰めるために植えられたのが、この阿蘇殿松(あそどののまつ)です。

9年後の1601年(慶長6年)、加藤清正は惟光の弟・惟善を阿蘇の大宮司に立て、阿蘇氏を復活させました。以後、現在まで阿蘇氏は阿蘇神社を守り連綿と続いています。

阿蘇神社は子供のころから親しんできた神社ですので、感慨深いものがあります。今回あらためて、しみじみと手をあわせてきました。

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