西郷隆盛・加藤清正ゆかりの熊本県花岡山に登る(二)

こんにちは。左大臣光永です。正月も終わりふだんの日常が戻ってまいりましたね。いかがお過ごしでしょうか?

私は実家の熊本に滞在中です。熊本市内はすっかり震災から立ち直ったようにも見えます。しかし高台から町を見下ろすと、所々ブルーシートが屋根にかぶせてあり震災の傷跡が見て取れます。

本日は「西郷隆盛・加藤清正ゆかりの熊本県花岡山に登る(二)」です。

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熊本駅近くの花岡山は山頂に仏舎利塔がそびえ、よく目立つ熊本のランドマークです。

明治9年の神風連の乱で犠牲になった官軍の墓地があり、西南戦争で薩摩軍が熊本城を砲撃した場所であり、加藤清正が熊本城の石垣の石を切り出した場所であり…

戦国時代から江戸時代、幕末から明治と、幾筋もの時の流れがクロスしているような場所です。

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官軍墓地

前回からのつづきです。

清水寺の脇から花岡山に登っていくと…

ぱっと空間が開けて踊り場状の広いエリアに出ました。


官軍墓地です。明治9年(1876)の神風連の乱で殺された官軍兵士の墓です。



明治新政府は、廃刀令、ついで断髪令を出して、西洋化政策を進めました。誇りを奪われた旧士族は、日に日に怒りをつのらせていました。

この頃はなんでも西洋、西洋だ。
すべて西洋が正しく、日本が間違ってるのか?

ふざけるな!

大和魂はどこへ行った?

武士の誇りはどこへ行った?

このままでは日本人が日本人で無くなってしまうぞ!と。

明治9年(1876)10月24日深夜、旧肥後藩の士族太田黒伴雄(おおたぐろともお)・加屋霽堅(かやはるかた)以下170名の「敬神党」が決起。反対派は彼ら敬神党のことを神風連と呼んだので、この出来事を「神風連の乱」といいます。

神風連は熊本鎮台司令官種田政明宅、熊本県令安岡良亮宅に乱入し、種田、安岡ほか四名を殺害。

ついで神風連は熊本鎮台を奪取。

鎮台兵が鉄砲や大砲で応戦したのに対し、古来の武士道を重んじる彼らは、槍と刀で戦いました。苦戦しながらも、多くの鎮台兵を殺害しました。


翌朝、児玉源太郎が駆けつけ反撃に転じると、神風連はあそこここに打ち取られ、首謀者太田黒伴雄は自刃。リーダーを失った神風連の多くは自刃しました。

こうして神風連の乱は一日で鎮圧されましたが、その後、神風連の乱に呼応して福岡で秋月の乱、山口で萩の乱が起こり、、明治10年(1877)西南戦争へとつながっていきます。

官軍墓地の南側には、襲撃を受けて殺された安岡良亮の墓が立っています。いかに神風連に志があったとはいえ、殺されたほうはたまったもんじゃないですね…


三島由紀夫と神風連

神風連の乱といえば三島由紀夫最後の大作『豊饒の海』四部作の第二部『奔馬』に描かれたことでよく知られています。

『奔馬』は神風連に傾倒する右翼のテロリスト・飯沼勲が主人公です。昭和の神風連を目指した勲は武力決起を目論見ますが、密告されて…最後は衝撃的な結末が待っています。

私は『豊饒の海』四部作は大学時代に読みましたが、『奔馬』は一番ニガテです。そうとう軍国主義的な傾向が強いので。

昭和45年(1970)11月25日、三島由紀夫は『豊穣の海』最終巻「天人五衰」を入稿した後、市ヶ谷駐屯地で演説後、壮絶な自決を遂げました。

おそらく三島由紀夫は『奔馬』の主人公飯沼勲のように、昭和の神風連になろうというつもりだったんだと思います。時代錯誤は承知の上で。

薩軍砲座の址

西南戦争の時は薩摩軍がこのあたりに大砲を設置して、熊本城を砲撃しました。


ここから熊本城まで2キロあります。2キロ。届きませんでした。途中の城下町に落ちました。しかし心理的効果は大きかったことでしょう。


かつて加藤清正は花岡山から熊本城の石垣を切り出しましたが、その際、「この山の上から城を攻撃されたら終わりだ」ということを語ったといいます。それを、まさに西郷隆盛は実践したわけです。

その時、西郷隆盛は北岡神社の本営を置いていました。北岡神社から花岡山山頂までたびたびのぼって、はるかに熊本城を眺めたことでしょう。

こうして立っていても…郷里を荒らされたという気持ちは別段、沸きませんね…。

ちなみに当時、熊本がこぞって西郷隆盛に敵対したわけではないです。

熊本にも明治政府への不満分子がいて、彼らは西郷隆盛の決起を歓迎しました。

たとえば佐々友房という人は、熊本隊に加わり薩摩方に味方しました。

西南戦争後、薩摩に味方したということで投獄されますが、後に病気のため出獄を許され、明治12年(1879年)済々黌(せいせいこう)高等学校の元となる同心学舎(どうしんがくしゃ)を設立しています。

仏舎利塔





花岡山山頂に出ました。インドのネール首相から贈られた仏舎利をおさめた仏舎利塔。昭和29年(1954)、日蓮宗の藤井日達上人により建造されました。


熊本駅おりたときからすでにこの仏舎利塔は花岡山の上に見えています。

鎌倉の龍口寺にも仏舎利塔が高台に立っていて、江の島からもよく見えるんですよね。ここ熊本の花岡山に立つと、私は鎌倉にいるような気分がしてきて、ワクワクするんですよ。



清正腰掛石・清正兜石・鐘掛松跡

天正16年(1588)加藤清正が肥後に赴任した時、この地には戦国武将・鹿子木寂心(かのこぎ じゃくしん)が築いた「隈本城」がありました。

当初、清正はこの「隈本城」を居城としましたが、二度の朝鮮征伐が終わった後、茶臼山に城郭を築きはじめます。

慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で小西行長が西軍について処刑されると、その領土をも清正は与えられて肥後54万石の国主となり、新しい城の建造に取り掛かります。

慶長12年(1607)城は完成。

もとの「隈本」城と区別して加藤清正の城を「熊本」城としました。

清正は熊本城の石垣に使う石を、ここ花岡山から切り出しました。

常に陣頭指揮が清正のモットーで、花岡山の現場でも直接指揮にあたっと伝えられます。

清正が作業の合間に腰をかけたという清正腰掛石、


清正が兜を置いたという清正兜石、


作業の始まりと終わり、休憩時間などを告げる鐘をかけた鐘掛松跡


まあこうしたものの常として真偽のほどはアレですが…、清正公がいかに熊本で慕われ親しまれているかというあらわれと思います。

熊本バンドの碑

また花岡山山頂には熊本バンドの碑があります。


明治9年(1876)1月30日、熊本洋学校の生徒35人が花岡山山頂で祈祷会を開き、キリスト教の信仰をもって祖国を救うという表明書(泰教意趣書)に署名・誓約しました。これは宣教師ジェーンズの聖書研究会に影響を受けてのことでした。

当局は驚き、ただちに熊本洋学校を閉鎖処分にします。その後、彼らは新島襄の築いたばかりの京都の同志社英学校に入学し、日本プロテスタントを担う戦力へ成長していきました。その中には坂本龍馬も学んだ漢学者・横井小楠の長男・時雄、明治を代表するジャーナリストとして有名になる徳富蘇峰もいました。

彼らは熊本出身のグループという意味で、「熊本バンド」と呼ばれました。

今でも、熊本バンドを記念して、花岡山の山頂では毎年1月30日に、祈祷会が開かれています。寒いですので、しっかり着込んでいったほうがいいです。

宣教師ジェーンズの館跡である「ジェーンズ邸」も水前寺公園のそばに残っていましたか゛、2016年の震災で倒壊し、現在はさら地になってしまいました。

というわけで二回にわたって熊本の花岡山を歩きました。戦国時代から江戸時代、幕末から明治と、時の流れが幾重にも交錯し、いろいろと考えさせられる場所です。鳥の声に癒されながら、西郷隆盛や加藤清正の昔に思いをはせながら歩いてみるのは、いかがでしょうか。


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京都在住の左大臣光永が、近畿を中心に史跡・名所を音声つきで紹介し、その場所にまつわる歴史や伝説などを語ります。楽しみながら深く立体的な知識が身につきます。

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