鎌倉 長谷を歩く(一)長谷寺・光則寺

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本日は、「鎌倉 長谷を歩く(一)長谷寺・光則寺」です。

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江ノ電長谷駅で下車。



平日だというのにすごい人だかりです。行列がちっとも進みません!やはり六月ですから、アジサイ目当ての方が多いことでしょう。しばらく大通りを歩いていくと、左に分岐点。



ここからが長谷寺の参道です。

長谷寺

長谷寺参道

むこうから見える「長谷寺」の大文字にわくわくしながら歩いてきます。


参道左手に、明治末期から営業している旅館「對遷閣(たいせんかく)」があります。



戦前の昭和の感じが漂いますね。最初、こういう展示物かと思いましたが、本当に営業してるんです。次回は予約して泊まってみます。

参道左手にはからくり時計が目印のオルゴール館。


銅葺き屋根の、寺っぽい造りのカフェ?雑貨屋でしょうか?長谷寺参詣気分を高めてくれます。


長谷寺縁起

長谷寺は建物も境内もキレイに整備されており、寺というより近代的な博物館のような印象を受けました。



たくさんの修学旅行生の傍らで入場料を払い、長谷寺境内に足を踏み込みます。平日なのにすごい人だかりです。やはり六月で、アジサイを見に来ている人が多いのでしょう。

長谷寺は、天平8年(736)徳道が創建した浄土宗の寺院です。御本尊の十一面観音立像は、高徳院の大仏と並び、鎌倉名物として親しまれています。三十三所観音霊場の第四札所に数えられています。

縁起によると、奈良時代の養老5年(721)、徳道という僧が、奈良の初瀬の山の中で巨大な楠の霊木を見つけ、これで二体の観音菩薩像を作らせました。そのうち一体を藤原房前の創建した奈良の長谷寺(桜井市)におさめ、もう一体海に流しました。

その流れされた観音像は相模の初声(はつせ。横須賀市長井)に流れ着きました。これを鎌倉に移し、徳道を開山として件の観音像を本尊として開かれたのが、ここ長谷寺です。

地蔵堂

まずは石段を登ります。


うねうね登っていくと、途中に踊場状のエリアにあるのが地蔵堂です。


お堂のまわりに、大小たくさんのお地蔵さまが取り巻いています。




愛嬌のある顔立ちのお地蔵さまも多く、思わず頬がゆるみます。

観音堂

階段を上り切ると、


ぱあっと空間が開け、手前から阿弥陀堂、本堂(観音堂)、見晴らし台が並びます。阿弥陀堂の脇には鐘楼が立ちます。


見晴台の果てに広がる海の輝きに心惹かれますが、まずは阿弥陀堂に参拝します。ついで観音堂に入ると、ドオーーンと巨大な十一面観音立像が迎えてくれます。おおっと思わず息を飲みました。圧倒的な感じです!金色に輝いています!


木像では日本最大級の9.18メートル。右手に笏杖、左手に蓮華を生けた花瓶を持ち、長谷寺式観音と呼ばれます。

しばし手をあわせて、瞑想にふけります。欲とか、嫉妬とか、ややこしい気持ちが、すーーっと消えていく感じがあります。たまにはこういう気持ちにならないといけませんね。

観音堂の中は別室があり観音堂ミュージアムになっています。別料金ですが、長谷寺の紹介ビデオや、寺の宝物を見ることができます。かなりのコンテンツ量で、長谷寺だけで今日一日終わってしまうのではないかと危機感を覚えました。

見晴台

見晴台からは鎌倉の海が一望できます。




キラキラとまぶしいです。私の頭のうしろを、ばさーーーっと一羽のトンビがかすめ飛んでいきました。見ると「トンビに注意」と書いてあります。弁当など食べてると襲撃されるらしいです。ひょろーーーひょろひょろ…しかし声はあくまで穏やかです。

アジサイの径

観音堂に向かって左手が、「アジサイの径(こみち)」の入り口になっています。


入口付近にいらっしゃる仏さまもあじさいをお持ちになっており、微笑ましいです。



山道を登っていくと、


あじさいの向うにパアーーッと鎌倉の海と由比ヶ浜が広がって見え、風も涼やかで、ホーオォーーケキョ、ケキョ、ケキョケキョと鳴く声も耳にやさしいです。




裏山をぐるりと回るように、あじさいと海の景色を堪能できます。いいものを、体いっぱいに吸い込んだ感じがありました。

経蔵

裏山を下りた所あるのが経蔵です。


中には一切経をおさめた回転式の書架があり、周囲を一周すると一切経をすべて読んだと同じ功徳があると言われています。


また四方の壁にはマニ車(摩尼車)と呼ばれる円筒形の回転するやつが、28個取り巻くように設置されています。マニ車には真言が刻まれ、中には経文が入っているということです。


これらをガラガラガラガラーーと手回しながら回ると、経典を唱えるのと同じご利益があるという仕組みです。ガラガラガラーーと回すのが、いかにも回してるゾ~という感じで、気持ちよかったです。

弁天窟

今度は階段を下りて、弁天窟に向かいます。


途中、大黒堂や


書院を見ながら進んでいくと、


ありました。弁天窟の入口の鳥居です。


岩窟の内部に、さまざまな仏さまが安置してあり、順繰りに拝むことができるのです。途中、かなり天井が低くなり、冒険気分が高まります。



弁天窟の外には、池のほとりにぽつんと不動明王像があります。「よくぞ試練を乗り越えた」とでも言わんばかりで、いい感じでした。


高山樗牛住居碑

その他、長谷寺境内には明治の文学者・高山樗牛の住居碑があります。


樗牛は31歳で亡くなりましたが、晩年、長谷寺の境内に住みました。それを記念して大佛次郎ら当時の文学者が発起人となってできた碑です。先日静岡の清見寺でも高山樗牛の碑を見たので、いっそう親しみを感じました。

というわけで、長谷寺は御本尊の十一面観音立像、アジサイの路、弁天窟など見所がとても多いです。十分に時間を取って、ゆっくり歩きたいところです。

さて長谷寺を後に徒歩10分。



見えてきました。光則寺の入り口です。



したたるような六月の緑。そして地面に落ちる木々の影が、強烈なコントラストをなして目に飛び込んできます。

文応年(1260)、日蓮は前執権北条時頼に『立正安国論』を奉り、国家の危機を説きました。今、さまざまな災害が起こり、社会不安が増しているのは、人々が念仏などという間違った宗教を信じているからだ。今こそ、正しい教え(正法)である法華経を信じなさい、という主張です。

しかし日蓮の『立正安国論』は完全に無視されます。北条時頼は国家の指導者として、特定の宗教に肩入れしたり、攻撃したりすることはできない立場でした。なので、浄土宗を特に名指しで攻撃する日蓮の主張は、時頼としては、無視する他、なかったのです。

しかし、日蓮に名指しで攻撃された浄土宗の信者(念仏教徒)たちは黙っていませんでした。日蓮の庵を襲撃し、日蓮の非を訴えます。また、現執権である北条長時の父・極楽寺重時は熱心な念仏信者であったので、日蓮を目のカタキにし、迫害しました。こうして日蓮はまず伊豆に流され、ついで文永8年(1271)、佐渡に流されます。

日蓮が佐渡に流されるにあたって、日蓮の弟子・日朗は北条氏の家来・宿屋光則の預かりとなり、他の四人とともに土牢に幽閉されました。ガチャッ。「お前、問題を起こしちゃいかんぞ」「なんの。師がお帰りになるまで鎌倉を守るのが私の使命です。それにしても快適な住まいをありがとうございます。南無妙法蓮華経!南無妙法蓮華経!」「ぬぬぬ…おかしなヤツめ」

そんなやりとりもあったでしょうか…宿屋光則は日朗に対してしだいに心を開き、ついに法華経を信じ、日蓮に帰依します。後に、宿屋光則は自分の屋敷を日蓮宗の寺としました。それがこの、光則寺です。

境内は植物園のようです。草花が咲き乱れています。



どこを見ても木々の緑がつややかで、まぶしいです!

裏山に日朗上人の土牢があると聞いていたので、登ります。


どんどん登ります。すごい山道になってきました。おい冗談かよというほど、高い山の奥です!さすがにヤバいんじゃないかと危機感が生まれた頃、山道が下り坂になってきました。どんどん下りていくと、ふもとに至り、そこに土牢がありました。なんだ…裏山の入り口にあったのか。私は反対側から裏山に踏み入って、ぐるーーっと一回りしたのでした。案内板もなく、寺に管理人もいないので、わからなかったのです。

日朗上人が幽閉されていた土牢です!



想像してたのと違います!広いです!天井が高いです!これは…案外快適な住まいではないですか!私の部屋よりも快適そうです!ホーホケキョ、ケキョ、ケキョと鳥の声が響き、木々の梢がざわめく音。この環境で朗々とお題目を唱えていたんですか…。いいなあ。最高じゃないですか!!三日くらいなら、私も幽閉されてみたいと思いました。

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