畠山重忠誕生の地を歩く

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本日は畠山重忠誕生の地・埼玉の畠山を歩きます。

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畠山重忠は関東武士の鏡といわれた鎌倉時代の武士です。その畠山誕生の地・埼玉の畠山は町の中央を荒川の清流が東西に流れ、荒川に沿って秩父鉄道が走っています。

永田駅~

秩父鉄道永田駅でおります。


いきなり、ほったて小屋風の待合室が、うーん…古びた何というか、古色蒼然といいますか。ああ、遠くに来たなァと実感させてくれます。


駅を出て、荒川方面に向けて歩いていきます。

しばらく国道に沿って歩いて、ファミリーマートが見えてきたところで右に曲がります。重忠橋。橋かかってますね。


馬を背負った一の谷の合戦における重忠像が、刻まれています。ここから荒川を渡っていきます。

荒川の景色です。


中島に、鷺でしょうか。つがいで仲良くとまっていて、微笑ましいです。振り返ると、秩父連山ですか?山々が見えて、鴨川のあたりから比叡山見てる感じがこみあげて、一瞬、自分どこにいるんだよって感じ。


橋渡り切ると、満々たる田園風景の中を道路が一本走っています。これを畠山重忠記念公園までひたすら歩きます。見えてきました。

畠山重忠史跡公園です。入ってすぐに見えるのが、


世にもめずらしい馬を背負った銅像です。


おそらく馬背負った銅像は世界でこれが一つでしょう。畠山重忠公が1184年一の谷の合戦で、源義経の配下として戦った時に、ザザザザザとあの、一の谷の「逆落とし」という、ガケから駆け下りて、平家軍に奇襲をかけた。

あの作戦で、自分の馬「三日月」を傷つけるのはしのびないと、馬を背負って、逆落としということで、ざーっと駆け下りた、『源平盛衰記』にあるエピソードです。

まあ、馬もすごいんですけども、特に畠山の右手がですね。ドラマチックに開いている様子が、感動をおぼえました。

畠山重忠公は関東武士の鏡とされ、長寛2年(1164)、畠山に秩父庄司重能の次男として生まれました。治承4年(1180)頼朝が旗揚げした時、はじめ平家方についていましたが、後に頼朝に降服して、頼朝方として戦いました。頼朝の信任厚く領土もたくさん得ましたが、頼朝没後は北条氏に疎まれ、

元久2年(1205)6月22日。北条時政の策略にかかっておびき出され、武蔵国二股川で北条義時軍と合戦し、討ち死にしました。42歳。子重秀は23歳。しかしその人柄の質実剛健でまっすぐなことは今日にいたるまで慕われています。

畠山重忠像の裏に、畠山重忠とその部下とおぼしき六基の五輪の塔があります。


あれどこにあんの?見つかんないなと探し回っていたら、目の前のお堂の中にありました。建物の中に、柵に囲まれて、あったんですね。これは盲点でした。


畠山公を忍んで合掌し賽銭を入れてきました。

またお堂の右手に重忠節の碑が立っています。


国は武蔵の嵐山
武者と生まれて描く虹
豪遊かおる重忠に
いざ鎌倉の時至る

満福寺

畠山重忠記念公園を後に、畑中の道をてくてく歩いていきます。見えてきました。満福寺です。畠山重忠公の菩提寺です。



鳥羽天皇の時代に弘誓坊深海(ぐせいぼうしんかい)によって創設された真言宗の寺院で、後に畠山重忠公が寿永年間に再興し、畠山家の菩提寺としたということです。

のんびりした田園風景の中に建っていて、ちっちっちとしきりにスズメがさえずって、牧歌的な感じですよ。

墓をはさんで本堂の横にあるのが観音閣です。


ここに畠山重忠公の守り本尊である6尺3寸の千手観音像が安置されているということです。

そして満福寺のすぐそば。荒川のすぐ際に鶯の瀬の記念碑が建っています。


その昔、畠山重忠公が榛沢六郎成清(はんざわろくろうなりきよ)という武士のもとに行って、帰り道。どざーと雨が降ってきた。

「まいったな。荒川渡れないぞ」

困っていたところに。

ほーほけきょ、けきょけきょけきょ

鶯が鳴いた。

「お、あの鶯。浅瀬を私に教えてくれるというのか」

こう言って、無事浅瀬を渡ることができた、という故事が伝わっています。それを詠んだ歌が、

時ならぬ岸の小笹の鶯は浅瀬たずねて鳴きわたるらん

いやーこういう、風流な話が伝わってるじゃないですか。武人で、武力がすぐれているだけじゃないんですね。こういう風流の心も持っていた、畠山重忠公の、その人柄をしのんで、じゃばじゃばじゃばと荒川の波の音を聴く。味なことです。

荒川の際で、方丈記の冒頭を大声で読んできました。水場ではやっぱり方丈記が一番いいですね。大声を上げて気分がよかったです。


井椋神社

さっきの満福寺の裏手に井椋(いぐら)神社があります。


畠山重忠の先祖が代々敬ってきた神社です。畠山重忠の父畠山重能が秩父からここ畠山に移る時に、秩父の椋(むく)神社を勧請したものです。サルタヒコノカミほか四柱を祀っています。


いかにもこう、畑中のこんもりした木の茂った神社で、地元の農家からも信仰を集めているのかなあという、昔ながらのいかにも神社という感じが、漂っています。

最後に、日の沈みかける向こうの山の端を見渡すと、畠山重忠公もこの武蔵の山々をごらんになっていたかと思うと、かーーっとこみ上げますね。


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