女流歌人・桧垣と清原元輔の伝説の地を歩く

こんにちは。左大臣光永です。お正月のひととき、いかがお過ごしでしょうか?私は熊本に帰省しています。元日は菊池一族ゆかりの菊池神社に参拝してきました。かなり高台にある神社で、菊池の集落が眼下に見渡せて、いい気分でした。

さて本日は熊本に平安時代の女流歌人・桧垣(ひがき)にまつわる地を訪ねます。桧垣は平安時代の伝説的な女流歌人で、清少納言の父として知られる清原元輔との交流が有名です。

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蓮台寺

熊本駅から2キロ。車で5分の距離です。見えてきました。浄土宗蓮台寺です。


古色蒼然とした山門が迎えてくれます。格子状の山門扉が特徴的です。右手前に梵鐘。銀杏はすっかり黄葉してます。



左手には手前から庫裏、本堂、観音堂と並びます。住職さまのお話だと、以前は庫裏で生活していたが震災でやられてしまったということで、今は奥の観音堂でお寺の方はおすまいだということです。


桧垣とは?

伝説によると、桧垣は京都や大宰府で、その美貌と文学的才能で名声をはくしましていました。しかし藤原純友の乱(939)にあい、家も財産も失って落ちぶれ果て、肥後白川のほとり・蓮台寺のあたりに流れ着き、小さな庵を結び暮らしていました。

「ああ…なんでこんなことになっちゃったのかしら。私、あんなにチヤホヤされてたのに…。やっぱり、傲慢になっていたのかしら。慢心していたのだわ」

そんな感じで後悔してか、どうだかわかりませんが、桧垣は金峰山山麓の岩戸観音に日々通い、熱心にお参りしていました。

その頃、肥後の国司として赴任してきたのが清原元輔です。清原元輔といえば、清少納言の父として有名です。当時の歌壇の中心人物であり、『後撰集』編纂の中心となった「梨壷の五人」の一人です

その清原元輔が、ある時白川のほとりを通りかかった時、老婆を見かけたので、

「これ、ノドがかわいたので、白川の水を汲んではくれぬか」

すると老婆は、

年ふればわが黒髪も白川の
みづはくむまで老いにけるかな

(年をとって私の黒髪も白くなり、白川の水を手ずから汲むまでに落ちぶれてしまった)

「おお…このような老婆が、これほど見事な歌を詠むとは…はっ!
もしやそなたは、音に聞く歌人・桧垣!」

「いかにも、私が桧垣でございます」

「なんと…!ああ…」

かつて一世を風靡した女流歌人・桧垣が、今はこんなにも落ちぶれていた。清原元輔はふびんに思い、桧垣を館に招いて、丁重にもてなします。以後たびたび桧垣は清原邸に出入りし、元輔と風流の交わりをしました。

清原元輔が任期を終えて京へ戻っていく時、桧垣が詠んだ歌…

白川の底の水ひて塵立たむ
時にぞ君を思ひ忘れむ

(白川の水が枯れて水底に塵が立つ時まで、あなたを忘れません)

ただし、実際は清原元輔は任地肥後で没したとされます。あくまで伝説的な話なのですが、遠く肥後の地に流れ着いた女流歌人と、国司として赴任してきた風流人・清原元輔の交わり…ロマンを感じずには、いられません。

桧垣の供養塔

謡曲「桧垣」によると…

昔、白川のほとりのこの地に、一人の老女が住んでいて、井戸から水を汲んでは金峰山の岩戸観音に捧げて供養していた。それは遠いですからね。ここから金峰山まで。たいへんな道のりです。それを見かねたここの坊さんが、何をしてるですかと尋ねた。


すると老女は、私は昔大宰府で舞の誉れ高かった、女流歌人桧垣ですよと名乗った。ああ桧垣の亡霊であったのか。どうか成仏してくださいと僧は供養して、桧垣の亡霊は昔を思って舞い踊り、消え去ったという、謡曲の『桧垣』のストーリーです。

案内板の奥、境内右奥にあるのが桧垣の供養塔たる五輪の塔です。若い住職さんが、親切に由来を説明してくださいました。

千体地蔵

また桧垣の供養等右にある千体地蔵も非常に気になるので、所以をききました。


江戸時代の初期にこの寺の近くにある白川が氾濫して、多くの方が亡くなった。その供養のために当時の住職が1000体以上のお地蔵さまを作った、ということです。

手間の二列くらいは近代になってから補充したものだそうですが…見ていると何か祈りの力というものを、実感させられます。

蓮台寺天満宮

寺の右隣に天満宮があります…苔むした石づくりの鳥居で、よくこれ震災の時崩れなかったなあとビックリです。



黒く苔むした瓦屋根に黄色い銀杏の葉っぱが散り敷いて、目にあざやかです。この天満宮の造り…九州でよく見るんですけど、あまり関東で見たことがないですよ。


吹きっさらしの拝殿があって、そこから短い階段が上っていて、その先に本殿がある形。これ、何造りって言うんですかね?九州では非常によく見るんですが…。

わかる方がいらしたら、教えてください。

本殿に賽銭箱が無いなと思ったら、ずいぶん小さな、コインの投入口がありました。


なるほど、ここから賽銭を入れるわけですね。ぽーんと投げてシュパッと見事入ったら、幸運が訪れるとか…そういう趣向でもないでしょうけども、おとなしくコイン投入しときます。

この天満宮の境内に桧垣が作ったという井戸があるという話でしたが…あ、ありますね。見えます。石が重なり合って、井戸の感じを残しています。




さて私、今回、蓮台寺に参詣して、桧垣の謡曲のストーリーについて一つギモンがわいたんですよ。

蓮台寺から金峰山の観音堂まで15キロもあると案内板に書いてあります。さすがに無理だろう。しかも山道を、女の足で。いやいやまさかと。

しかもですね、金峰山にはわざわざこんな遠くから水運ばなくてもキレイな湧き水がいくらでもあるんですよ。なんか、桧垣は自分に苦役を与えていたのか?苦しむことによって罪滅ぼしでもしようとしていたのか?ならばその罪とは何か?

いろいろギモンがわいてきましたので、今度は桧垣が日参したという観音堂のある金峰山に登ることにしました。

清原神社

が、その前に清原元輔を祀る清原神社に向かいます。

清原神社は熊本市内にある清原元輔を祭った神社です。清原元輔は寛和2年(986)肥後国司として赴任しました。この時清原元輔79歳。当時、肥後国府は現在の熊本市二本木(にほんぎ)に置かれていたといいます。

以後、清原元輔は正暦元年(990)まで任につきました。その間、女流歌人桧垣との交流が伝説されます。肥後滞在中の歌として金峰山の鼓ヶ滝や藤崎八幡宮の歌が家集に残っています。

おとに聞く鼓ヶ滝をうち見れば
ただ山川になるにぞありける

評判に名高い鼓ヶ滝を見てみると、ただ山川に滝の音が鳴り響いている。

藤崎の軒の巌に生ふる松
今幾千代の子の日すぐさむ

藤崎の軒の岩に生えている松よ。お前は今まで、幾千代の、正月の子の日を経験して過してきたのか。これは熊本市内の藤崎宮を詠んだ歌です。藤崎宮境内に歌碑が立っています。

さて北岡神社裏手の駐車場に車止めて、道路一本渡って、すごく急な階段を下りていきます。下りきって、ちょっと右に行ったところが、清原元輔ゆかりの清原神社です。神社というかちっさな祠みたいな感じなんですが…

ここに、肥後国の国司として清少納言のお父さん清原元輔が赴任してきた、その清原元輔を祀った神社です。

住宅街の中の細い路地の向こうに、見えてきました。




清原神社の文字が。ああ、正面に見えたのは公民館ですね。苔むした石造りの鳥居が、震災で崩れることなく、立っています。


小さなお堂で、先日の震災でつぶれたんじゃないかなと心配だったんですが、そのままの状態をとどめ、健康状態です。まったく傾いてもいない。


どうだったでしょうかねえ清原元輔が赴任してきた当時の肥後は…狸と狐ばっかりな感じかな。都の華やかな世界からやってきた清原元輔には、さぞかし心細かったろうと思います。

ちなみに清原家と肥後熊本のつながりはその後も続きます。初代肥後細川家・細川忠利の祖父にあたる細川幽斎の母親は清原氏の娘です。

岩戸観音へ

翌日、清原元輔と桧垣の面影を追って、金峰山の岩戸観音に向かいます。ふつう、熊本市内から金峰山に登るには本妙寺の横から国道1号線に乗るんですが、そのコースだと桧垣のいた蓮台寺からは15キロもあります。

15キロ、毎日通うのはなんぼなんでも無理だろう。

そこで色々調べたところ、蓮台寺や白川のあたりから、松尾北小学校を通っていくコースなら、ずっと距離は短い。桧垣はこっちを通った可能性が高い、ということで、蓮台寺から距離を測定しつつ、岩戸観音目指して出発しました。

途中、ぱあーーっと視界が開けて満々たる田園風景が広がります。所々屋根にブルーシートがかぶせてあり、震災の傷跡が見られますね。


松尾北小学校目指して山道をうねうねと蛇行しつつ上っていきます。なかなかの風光明媚です。

しばらく上っていくと山の切れ間に河内の海が輝き、その先には雲仙岳が見えます。


対向車もすれ違う人もほとんど無いので、声出し放題です。時々車停めては、雲仙岳に向けてわーーと叫ぶ。また停めてはわーーと叫ぶ。ストレス解消に、とてもよいです。

道路の脇に石垣があって、石垣の上にミカン畑があります。



一瞬「城跡か」と思いましたが、昔からのミカン畑なんですね。新しいミカン畑はコンクリートで固めてありますが、昔からのものは石垣です。わりと石垣はスキマだらけで、しかも積み上げてあるだけなのによく崩れないなあと感心します。

お、「岩戸観音」と書かれた細い道が現れました。



ミカン畑の中の細い道を下っていきます。分岐点のたびに「岩戸観音」の矢印が親切に出ていて、とても行きやすいです。カーナビはもう道と道の間の空間を泳いでいて、まるで役に立たないので、この矢印だけが頼りです。

雲巌禅寺

案内板に従って進んでいくと、見えてきました。岩戸観音のある、曹洞宗雲巌禅寺です。


雲巌禅寺は、南北朝時代、元の禅僧で日本に帰化した、東陵永ヨ(とうりょうえいよ)が建立したと伝えられる、曹洞宗の寺院です。


九州西国三十三観音霊場・第14番霊場に数えられ、裏山にある宮本武蔵がこもった霊巌堂・24年の歳月をかけて奉納された五百羅漢像・平安時代の女流歌人・桧垣(ひがき)が訪れたことで有名です。

本堂左手に、霊巌堂と五百羅漢への入り口があります。入ります。


宝物館

入るとまず宝物館になっています。


ガラスケース内に、宮本武蔵が巌流島で使用した木刀や、自画像などが展示してあります。また、平安時代の女流歌人桧垣がこの地を訪れ、肥後守として赴任していた清原元輔と親睦をふかめている様が描かれています。清原元輔は、清少納言のお父さんです。

清原元輔がこの近くの鼓ヶ滝の前でたたずんでいる水墨画が、なかなか味わい深いものです。

五百羅漢像

境内を進みます。右の岩山上にワアーーッと広がっているのが、五百羅漢です。


熊本の商人渕田屋儀平(ふちだやぎへい)が、安政8年(1779)から享和(きょうわ)2年(1802年)まで24年間かけて奉納したといわれます。


明治初頭の廃仏毀釈や明治22年(1889年)の熊本地震・そして長年にわたる風雨によってダメージを受け、首が落ちたものや原型を留めないものも多いですが、往時の雰囲気を今に伝えています。


1800年前後の奉納ですから、宮本武蔵が生きた時代には、まだこの五百羅漢像は、なかったことになります。

霊巌堂・岩戸観音

突き当たりまで順路を進むと、右手に見えるのが霊巌堂です。


岩をくりぬいてお堂をつくってあります。内部には、岩戸観音とよばれる石体四面の観音像が安置されています。ここに、桧垣は水をお供えにきてたわけですか!急な階段をのぼり、堂内に入ります。


宮本武蔵は、自分を客人として招いた細川忠利の三回忌にあたる寛永20(1643)、ここ霊巌堂にこもり、生涯の集大成として、『五輪書』の執筆に取り掛かりました。時に武蔵60歳。


五巻からなる兵法書『五輪書』は、2年の月日を経て完成し、門人・寺尾孫之允勝信(てらおまごのじょう・かつのぶ)に授けられました。

ここに武蔵がしゃんと座って、心をすまして『五輪書』を書いてたかと思うと、しみじみ、こみ上げるものがあります。

山下庵

さて雲巌禅寺から徒歩2分のミカン畑の前に、桧垣が晩年に庵を結んだ「山下庵」の跡があると、雲巌禅寺の住職さまに聞いたので、行ってみます。

案内板によると…

桧垣は白川のほとり・蓮台寺のあたりから金峰山の観音堂まで毎日通い、観音堂に水を捧げた。その距離15キロメートルであると。後にはさすがに遠すぎるということか、金峰山は観音堂近くに庵「山下庵」を結び、観音信仰に明け暮れた、ということです。

案内板の所から坂道をちょっと下るとミカン畑に突き当たり、そのミカン畑のそばに、湧き水があります。この湧き水のあたりが、桧垣が住んだ山下庵の跡地だという話です。しかし案内板も何も無いのでふつうにはわからないですね。



鼓ヶ滝

さて、雲巌禅寺の宝物館に水墨画が掲げてあった、清原元輔と桧垣ゆかりの鼓ヶ滝は、雲巌禅寺から山道を下ってすぐ。国道101号線沿いにあります。

案内板も何もなく、とてもわかりにくいですが、車の窓を開けるとドザーーと音がしていて「あ滝だな」とわかります。


うん。まさに滝ですね。車からは見えない。車から降りると、もうハッキリ明瞭。耳にも目にも。滝があります。ここで桧垣と清原元輔の風流の交わりがされたという、三手に分かれて滝が滝壷に落ち込んでおります。

肥後国司・清原元輔と女流歌人・桧垣が歌の縁で知り合い、ここ金峰山の山中を訪れた時に、鼓ヶ滝を見て清原元輔が歌を詠んだということです。

おとに聞く鼓ヶ滝をうち見れば
ただ山川になるにぞありける

山奥に滝の音がさーーと響いて、これで芭蕉の句のように山吹がほろほろと舞い散っていたりしたら、なかなかの雰囲気だろうなと思われせます。

こぼし坂

旅のしめくくりとして、桧垣が水を運んでくる途中、桶の水をこぼしたという「こぼし坂」を訪ねます。

鼓ヶ滝からふたたび雲巌禅寺に戻って住職さんに道をきくと、すっと向こうの山を指し示し、「向こうに見えるガードレールのあたりまで、ずーっと道を上がっていって、上がりきると、道が下りに転じる。そこからちょっと下った所にありますよ」

ということでした。ミカン畑の中を車でウロウロすること2-30分。なかなか見つけられずに苦労しましたが、ようやくたどり着けました。というかこれは、来た時通ってきた旧道じゃないですか。

道の脇に小さなお地蔵さまと、案内板が立っています。桧垣のこぼし坂です。桧垣はこの坂を、蓮台寺のほうから、この道を通って、やってきたのかと、しばし感慨にふけりました。




蓮台寺から雲巌禅寺(岩戸観音)までの距離は車で測定すると11.5キロほどでしたが、山頂に上りきって岩戸観音まで下るのは、車みたいに尾根づたいにぐるぐる道を通らなくていいはずです。人一人が通れるような、細いまっすぐな道があったと仮定すると、2キロくらいマイナスしていいかなと思います。

とすると、蓮台寺から岩戸観音まで9.5キロほどになり、徒歩だと2時間半から3時間程度。これなら毎日通えないことはないと思いました。

ただ、「水をかついで通っていた」というのがギモンです。蓮台寺から水をかついで持っていくなら、さすがに9.5キロは無理だと思います。それに、岩戸観音のそばには豊かな湧き水がいくらもあるので、わざわざふもとから運ぶ必要も無いでしょう。

想像するに、道中の飲み水を竹筒に入れて弁当とともに持っていき、水は岩戸観音のそばで汲む。それから岩戸観音に水を捧げて、ゆた~と昼飯でも食べてから山を下って蓮台寺まで戻ったんじゃないかなと思いました。

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本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。