名護屋城を歩く

こんにちは。左大臣光永です。京都アスニーで「京の塔をめぐる」という企画展をやってるので、みてきました。法勝寺九重塔は白河天皇が永宝元年(1081)に建立したものです。

1994年の発掘調査の時点では、『太平記』に基づいて檜皮葺の屋根として復元図が作られました。しかし2010年の発掘調査で多数の瓦が出土しました。そのため、2011年は瓦葺の建物として復元図が作られました。

1994年の復元図と2011年の復元図をならべてみると、同じ法勝寺九重の塔でもまったく違うことに驚きます。歴史は、常にアップデートを繰り返しているなァと実感しました。

本日は秀吉が朝鮮遠征のあしかがりとして築いた、肥前名護屋城を歩きます。

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名護屋城

JR唐津線・西唐津駅から呼子行きのバスに乗り、約1時間。

呼子下車。タクシーで名護屋城跡へ(あるいは西唐津駅から名護屋城博物館直通のバスに乗る)。

見えてきました。名護屋城の大手口です。

名護屋城の歴史

名護屋城は天正19年(1891)より、羽柴秀吉が朝鮮遠征の足がかりとして東松浦半島の名護屋(佐賀県唐津市鎮西町)に造営した平山城です。

着工前年の天正18年(1890)に、秀吉は関白を甥の秀次に譲り、「太閤」となっていました。

東松浦(ひがしまつうら)半島は玄界灘に突き出した半島で、かつては松浦船団の拠点でした。壱岐・対馬をのぞけば日本でもっとも朝鮮に近く、朝鮮遠征の拠点としては最適でした。

加藤清正・黒田如水・小西行長の指示により、九州の各大名に「割普請」(分担工事)をさせて、約5ヶ月の突貫工事で城は完成しました。

以後、7年間にわたる「唐入り」…いわゆる「文禄・慶長の役」の大本営として名護屋城は機能しました。城のまわりには全国約130の大名の陣所が築かれ、城下町が築かれ、最盛期には30万人もが居住していました。名護屋は「京をもしのぐ」一大都市となりました。

しかし、慶長3年(1598)秀吉が死に、「唐入り」文禄・慶長の役が終わると、名護屋はもとに寒村へ戻っていきました。

慶長20年(1615)徳川幕府の「一国一城令」により名護屋城は破却され、用材は唐津城に転用されました。寛永14年(1637)の島原の乱の後、一揆勢が将来立てこもってはいけないということで「破城令」が出され、石垣の一部も破壊されました。

大手口

大手口。城の玄関口です。

右に大きな櫓があり、実際に登ることができます。

東出丸までの坂道を登っていきます。見事な石垣です。

東出丸

東出丸。東方に張り出した長方形の曲輪です。

大手口・三の丸を警護するための詰め所があったと推定されています。

三の丸

三の丸は本丸の西にあり、当時の井戸が残っています。

名護屋城でもっとも高い場所にある井戸で、現在は2メートルほどですが、後世埋め立てられたため、本来の深さは不明です。湧き水まで達するにはかなり深いものだったと推定されています。

所々、石垣がV字型に崩れています。

幕府は島原の乱の後、一揆勢が将来たてこもるといけないからと、名護屋城の石垣の一部を破壊しました。V字型の崩れは、その破壊の跡といわれます。

三の丸は本丸をはさんでニの丸の反対側にあり、三の丸から本丸へは直接のぼれるのにニの丸から本丸へはのぼれません。名護屋城の謎の一つとされています。

本丸大手門

三の丸から本丸へ登る入り口に、二層の荘厳な門が、かつて存在していました。

伊達政宗が青葉城の大手門として移築しましたが、昭和20年の空襲で焼けてしまいました。

本丸

本丸にきました。

北西の隅に天守台があり、玄界灘が見渡せます。本丸中央に名護屋城址の碑。

本丸北側に青木月斗の句碑

太閤が睨みし海の霞哉

天守台

天守台です。

かつてここの天守台の上に五重の天守がそびえていました。壱岐・対馬が見渡せます。

眼下に遊撃丸と二の丸が見えます。

本丸多門櫓跡

本丸の西と南に多門櫓の礎石がのこります。

多門櫓とは長屋状の建物で武器や食料の保管庫として使われました。秀吉はすでに朝鮮遠征がはじまってから、拡張工事としてこの多門櫓を造営したようです。そうとうバタバタしてたんですね。

本丸南西隅櫓跡

本丸の南西に本丸南西隅櫓跡。

南西隅櫓は天守と同じく物見台として使われたと考えられています。名護屋城破却の際、上に盛り土をもって完全に埋め込まれてしまいました。それで現在、盛り土の範囲を赤石で示し、礎石の位置に模擬礎石を置いています。

山里丸

名護屋城の東北・現在の広沢寺の一帯は、山里丸という曲輪がありました。秀吉の館や能舞台、茶屋、庭園などがありました。秀吉はどっしり腰をすえて朝鮮攻略に取り組むため、こうした娯楽施設も作っていました。

水手曲輪

水手曲輪。ここに貯水池をつくって城の飲水としたといいます。

遊撃丸

文禄2年(1593)講和の使者として訪れた沈維敬(しんいけい)の宿舎がありました。

沈維敬は明の遊撃軍の使者として訪れたので、遊撃丸という名がつきました。

二の丸

本丸の東にあります。

武器や兵糧を蓄える建物があったといわれます。三棟の建物の跡が発見されています。

そのうち二棟は東西に細長い長屋状の建物で、向かい合っています。

弾正丸

秀吉の親類で五奉行の浅野弾正長政が居住していた曲輪です。

搦手口

弾正丸西南に搦手口。

名護屋城に5つある虎口(こぐち。城の出入口)の一つです。面側の大手に対し、裏側の搦手口といいます。

名護屋城博物館

名護屋城跡の隣に、名護屋城博物館があります。

秀吉の朝鮮遠征についての資料などが展示されていますが、書いてることは、

ウソばっかりです。

たとえば、弥生時代になって稲作の技術が、朝鮮から入ってきたという説明が書かれています。現在ではすでに否定されている説です。縄文時代にすでに日本は独自に稲作を行っていた証拠が出ています。

秀吉は朝鮮侵略のための拠点として名護屋城を築いたと書かれています。違います。朝鮮侵略のためでなく、中国侵略のためというのが本当です。

文禄・慶長の役のことを「朝鮮遠征」とか「朝鮮侵略」と俗にいいますが、秀吉自身の書状には「唐入(からいり)」と書かれています。目的は中国でした。

朝鮮はどうでもよかったんです。中国を征伐するために朝鮮の通路を使わせろと要求したところ、拒否されたので朝鮮と戦になったのであって、はじめから朝鮮侵略を目的としていたのでは、ありません。

ちゃんとした学芸員さんも勤めているはずの立派な施設です。こうしたウソはウソとわかっているはずです。にもかかわらずウソを掲げ続けるのは、感心しません。早急に正してほしいものです。

本日は名護屋城を歩きました。秀吉の大陸進出にかける本気が感じられる城です。名護屋城のまわりには大名の陣所が130もあり、そのうちいくつかは整備され一般公開されています。次回はその、陣屋跡も歩いてみます。

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66番前大僧正行尊~