板橋宿跡(旧中山道)を歩く 二

■【古典・歴史】メールマガジン

本日は板橋宿(いたばしじゅく)跡を歩く(二)です。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

https://roudokus.com/mp3/Itabashi2.mp3

板橋宿は江戸四宿(ししゅく)…千住宿・板橋宿・内藤新宿・品川宿…これら江戸四宿のひとつで、日本橋からはじまる中山道最初の宿です。平尾宿(ひらおじゅく)・仲宿(なかじゅく)・上宿(かみじゅく)に分かれ、1.7キロメートルにわたり旅籠屋や町屋が軒をつらね、賑わっていました。

板橋の地名は、石神井川と中山道が交差する所にかかった「板橋」という橋に由来し、古くは『源平盛衰記』や『義経記』に登場します。

仲宿商店街

前回「板橋を歩く(一)」からのつづきです。

いたばし観光センターを後にしばらく歩くと、旧中山道が王子新道とクロスし、「仲宿」の文字がみえます。ここからは仲宿です。さらに商店街が続きます。


さっきはシャッター閉まってる店が多かったですが、仲宿に入るとけっこう商店街がにぎわってきますね♪楽しい感じです。学生の頃入ったゲームセンターや古本屋がまだ残っていて、おっ、と思いますね。


個人経営的な「町の本屋さん」が多いのも嬉しいじゃないですか!なんでもかんでもTSUTAYA、どこ行っても同じ品揃えというのも寂しいじゃないデスカ。それぞれの品揃えの店が、各町にある。すばらしいことと思います。


昔ながらの「町のおもちゃ屋さん」が健在なのもいいです。店先に立ち並ぶガチャガチャ。風情があります。




仲宿商店街入ってすぐ右手にあるのが…遍照寺です。気づかないです!普通に商店街の合間ですからね…よく見ると弘法大師霊場とあって、寺だなとかろうじてわかります。


江戸時代は天台宗の寺院で、境内に馬繋ぎ場があり、伝達用・中継用の馬が繋がれていました。明治4年に廃寺(はいじ)となったということで、現在ガラーーンとして寺らしい感じはないです。

寛政10年(1798)の馬頭観音が、かすかに昔の名残をとどめます。


なぜか主婦二人が延々と井戸端会議をしてました。なにもこんな所でやらなくても。

板橋宿本陣跡

スーパー「ライフ」が見えてくる。その手前にあるのが、板橋宿本陣跡の碑です。



本陣とは、大名が参勤交代の時に宿泊した宿のことです。ただし板橋は日本橋から一つ目の宿で、まだ泊まるというほどでもないので、宿泊所というより休憩所といった性質でした。

古くは飯田家はじめ数家が本陣をつとめてた、と説明坂にあります。

孝明天皇の妹君・和宮(かずのみや)が14代将軍徳川家茂のもとに嫁ぐときに、最後の夜を過ごしたのも飯田家でした。

以前、メルマガで一年間にわたって新選組の話をした時にこのあたりも取材に来たのを思い出しました。

板橋宿本陣跡のはす向かいに、とても風格のあるたたずまいの和菓子屋さんがあります。新月堂。店主の女性はとてもきさくで、このあたりの歴史について教えてくださいました。


治承饅頭。これは板橋の地名が初めて見えるのが『義経記』だということで、義経が生きた時代の元号、治承を取って、治承饅頭。ということです。


名前の付け方も味わい深いじゃないですか。歴史をつまんで、食べてる感じ。気分がいいです。

「はたごの月」…イラストも、それっぽいです。


中宿脇本陣跡

いたばし観光センターのボランティアの人の話だと、この近くに仲宿の脇本陣跡があると聞いていました。うなぎの仲宿のあたりだということです。が、その中宿脇本陣跡の名残はありません。うなぎの仲宿も、現在店じまいしちゃってるようです。


次は商店街ちょっとそれます。ライフの横から右に曲がって坂をちょっと下っていくと、左手にあるのが文殊院です。お、なかなか味わい深い山門のたたずまいです。


板橋宿の本陣をつとめた飯田家が菩提寺としていた延命地蔵尊の境内を広げて、江戸時代の初期に建立された寺です。

なるほど、山門脇にあるこれが…飯田家が菩提寺とした延命地蔵尊ですか。なかなか精悍な顔をしていらっしゃいます。


山門をくぐります。境内入って左手に、閻魔堂。


中入ると、閻魔大王の像を中心に、三体の像が祀ってあります。


右は、奪衣婆(だつえば)。三途の川で渡し賃を持たない者の衣服をはぎとる奪衣婆(だつえば)です。


左は懸衣翁(けんえおう)。


三途の川のほとりの衣領樹(えりょうじゅ)という木の上にいて、奪衣婆がはぎとった衣を枝に干すと、その垂れ下がり具合でその者の罪の重さを判断すると言われています。

本堂。格子天井に描かれた花の文様がなかなか見事です。賽銭箱の前に小さな鐘があって突けます。景気のいい音が出たので、満足です。


そのほか境内には飯田家の娘で和歌を好んだ飯田静の碑、板橋遊廓の女郎四人を葬った、「遊女の墓」があります。

板橋

ふたたび商店街に立ち戻り先に進みますが、その商店街もいよいよ最後となりました。その先に見えてきました。板橋。


板橋の地名の元となった、板橋です。中山道が石神井川とクロスする所にかかっています。江戸時代の板橋は木製の太鼓橋でしたが近代では大正9年に架け替えられました。しかし交通量が増えたことにより、昭和47年に架け替えられ現在に至っています。


このあたり、春は石神井川沿いのしだれ桜が見事なんですよ。昔、この近くに知人の家があってですね、私もよく石神井川沿いで花見をしました。


その知人とはもう縁が切れてしまったんですが、というわけで次に見えてくるのが、まさにその、

縁切榎です。悪縁を切るから縁切榎。男女の縁を切るときや断酒を誓う時に、この榎の樹皮をそぎ落として、どうかやめさせてください、縁切ってくださいと願うわけです。



現在、板橋を背にして道路の右側にありますけれども、いたばし観光センターの方の話だと、もとは道路の左側にあって、近藤石見守登之介(こんどう・いわみのかみ・のぼりのすけ)の抱(かかえ)屋敷の垣根に植わっていた。

それが第一世代、第二世代の縁切榎で、現在の第三世代の縁切榎にいたり、道路の右側に植え替えられた、ということです。

文久元年(1861)孝明天皇の妹君・和宮が14代将軍家茂に嫁した時は、わざわざ迂回路が作られました。

絵馬を見ると…今の職場と縁が切れますように。悪い評判を流したあなたを恨みます。私にひどい思いをさせたあなたを許さない。誰それと誰それが一日も早く別れますように…

…けっこう闇が深いですね( ̄□ ̄;)!!

というわけで、二日間にわたって、板橋宿跡を歩きました。

■【古典・歴史】メールマガジン