北条氏発祥の地~伊豆 北条を歩く

こんにちは。左大臣光永です。

私は嵐山に行くと中島みゆきの「怜子」という曲が頭の中で鳴り響くので、何でかなと思ってたら、京都には「夕子」という銘菓があって、嵐電の車体によく広告がでかでかと貼ってあるため、夕子→怜子と頭の中でシフトが起こり、中島みゆきの「怜子」が鳴り響くという仕組みでした。

さて本日は、北条氏発祥の地・伊豆韮山を歩きます。

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前回の「源頼朝雌伏の地~伊豆蛭ヶ小島を歩く」からの続きです。

伊豆箱根鉄道駿豆(すんず)線・伊豆長岡駅下車。

徒歩20分。

見えてきました。韮山反射炉です。



韮山反射炉

嘉永六年《1853》のペリー来航は日本人に大きな衝撃を与えました。韮山代官・江川英竜《えがわ ひでたつ。坦庵》は、幕府に国防の必要を説きます。

「このままでは日本は外国に潰される。とにかく、江戸湾の守りを固めなくては!」

「だがどうすれば」

「品川沖に台場を作るのです!!」

この意見が幕府に容れられ、品川沖に台場を作り大砲を設置することになります。

そして品川台場に置く大砲の原料となる銑鉄(せんてつ)を溶解するための施設が、伊豆韮山に造られました。

それがこの、韮山反射炉です。

熱や炎を反射して銑鉄を溶かしたことから、反射炉といいます。

また反射炉のまわりには、砲身をくりぬく錐台《すいだい》小屋、仕上げを行う御筒仕上小屋《おんつつしあげごや》、鍛冶小屋などがあり、大砲を作るための一連の工程をすべてここで行えるようになっていました。


明治に入り、工場は廃止されますが、二基の反射炉は保存され、現在の伊豆の国市のシンボルとして観光客を集め続けています。

反射炉のそばの小川のほとりには、江川英竜の像が立ってます。


小川の流れは、とても清らかで、素晴らしかったです。


屋台で鹿肉を売ってました。この近くで穫れる伊豆鹿だそうです。ボリュームたっぷりで、美味しかったです。イノシシ肉もありました。

願成就院

次にやってきたのが、北条時政建立による願成就院(がんじょうじゅいん)です。



願成就院は北条時政が文治5年(1189)娘婿である源頼朝の奥州藤原氏攻めが成功するよう願って建立した真言宗寺院です。二代執権北条義時、三代執権北条泰時の時代に堂塔がしだいに整えられ、繁栄を極めました。


しかし室町時代にはたびたび戦火に見舞われます。

二代堀越公方・足利茶々丸が北条早雲に滅ぼされた時、多くの伽藍が焼かれ、時代下って天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際には、秀吉方の韮山城攻撃に際してふたたび願成就院は兵火に見舞われました。

現在の社殿は江戸時代に再建されたものです。

境内はひっそりしてます。背後に守山という山を負います。

北条時政の墓があります。


二代堀越公方で北条早雲に滅ぼされた足利茶々丸の墓があります。

大御堂という建物の中には、御本尊の阿弥陀如来坐像はじめ創建寺に祀られたという運慶作の仏像五体が安置されています。その奥に宝物館があり、教科書などでお馴染みの「北条時政像」と「北条政子像」が並んで、安置されています。


境内の到るところに、「現代版五百羅漢」が立ってます。


何十万だかで、自分を羅漢様にしてもらえるんですね。メガネかけてたり、新聞読んでたり、一升瓶かかえてたり、なかなかにユニークです。


北条時政

北条時政(1138-1215)

伊豆の在庁官人。鎌倉幕府初代執権。

時政は流人として流されてきた源頼朝の監査を平家から命じられていたが、頼朝と政子が結婚するに及び、頼朝支持にまわります。

治承4年(1180)源頼朝が伊豆で挙兵するとそれを助け、息子義時と頼朝の後方支援などを行います。文治元年(1185)後白河法皇に全国に「守護・地頭」という鎌倉幕府の役人を置くことを認めさせました(文治勅許)。

二代将軍頼家の時代には頼家にかわって訴訟を行う13人の御家人の筆頭に任じれるも、やがて頼家の妻の実家・比企氏と対立を深め、比企氏を討伐。

その後、子である北条政子・義時としだいに対立を深めていき、元久2年(1205)将軍実朝の廃立を図ったということで北条政子・義時により出家させられ、北条氏発祥の地・伊豆北条の地に流されました。そして北条の地で10年間を過ごし、建保3年(1215)亡くなりました。

守山八幡宮

願成就院のそばには守山八幡宮があります。


石段を登ると拝殿。



拝殿の裏にさらに長く石段が続きます。


手すりにカマキリがいて…シャカシャカ一生懸命登っていました。


「おっ、こりゃ失礼」と、手を引っ込めました。

石段の最上段まで来ました。


はるか下に、さっさきの拝殿が見えます。


杉の木が景色をワッと覆ってるんですけども、正面のずーーっと向こうに、山木兼隆邸が見渡せたはずです。

頼朝もこのあたりから山木兼隆邸を睨んで、「いつ成功のしるしの火が上がるか」と、待ち構えていたかもしれません。

北条政子産湯の井戸

守山八幡宮を後に、「頼朝・政子語らいの路」と銘打たれ細い道を歩いてきます。


ここは鎌倉古道らしいです。そこから少し住宅街に入り込んだ所に、北条政子産湯の井戸があります。


ふつうの民家の真ん前ですね…覗いていいのかなと、一瞬不安になります。

四角い石造りの井戸です。安産祈願にご利益があるということです。


北条政子は北条時政の娘。保元2年(1157)生まれ。源頼朝が伊豆流人中に結ばれ、治承4年(1180)源頼朝が旗揚げして鎌倉に入るとそれに付き添い、二男ニ女をもうけました。

正治元年(1199)頼朝が死ぬと出家。尼将軍と呼ばれ御家人たちをたばね、将軍ではないものの実質将軍のような立場にありました。元久2年(1205)将軍実朝の廃立を企てたとして父時政を追放。

承久3年(1221)承久の乱では上皇方と戦うのを躊躇する御家人たちに、「北条政子の大演説」でガツンと気合を入れて、鎌倉方を勝利に導いたことはよく知られていますね。

伝堀越御所跡

北条政子産湯の井戸の北側には伝堀越御所跡(でん ほりごえごしょあと)があります。だだっ広い野原でしかないですが…。


室町時代。八代将軍足利義政は関東を統治するために弟の足利政知(まさとも)を鎌倉に送ろうとしました。しかし当時の関東は古河公方・足利成氏(しげうじ)が力を持っていました。政知は成氏の軍勢にはばまれ、鎌倉に入ることすらできませんでした。

そこで足利政知は駿河の今川氏を頼って、鎌倉の手前の伊豆に臨時の御所を置きました。これが堀越御所です。そして足利政知のことを堀越公方といいます。最初は臨時の御所のつもりで、ほとぼりが冷めたら鎌倉に入るつもりでいましたが…政知は生涯堀越から出られませんでした。

政知の死後は息子の茶々丸が継ぎましたが、明応7年(1498)伊豆に侵攻した伊勢宗瑞(北条早雲)により茶々丸は殺害されます。その後は堀越御所は消滅しました。

狩野川

伝堀越御所跡を後に、伊豆北条氏をはぐくんだ狩野川(かのがわ)に来ました。


私は北条氏のことを何度もメルマガや講演で語ってますが、北条氏を生みはぐくんだ狩野川の流れを実際に見るのは初めてです。これが狩野川か。北条時政も、この流れを見たかと、感激が、こみ上げるんですよ!

それにしてもいい所です。


北条時政は元久2年(1205年)北条政子・北条義時と対立し鎌倉から伊豆韮山の地に追放されました。

実の子によって、追放されたわけです!

そして10年間を伊豆韮山で過ごし、建保3年(1215年)、78歳で亡くなりました。

伊豆追放後の北条時政について語る史料はほとんど無いので、時政の気持ちは想像するしかないんですが…。

こんな景色のキレイな、食べ物のうまい所で晩年を過ごしたのは時政にとってむしろ幸福だったのではないか?

陰謀うずまく鎌倉を去って(北条時政はどちらかというと自分で陰謀をひっかきまわしてた人物ではありますが…)、のびのびした伊豆の自然の中へ送られたのは、むしろ時政にとって良かったのではないか。

狩野川で釣りでもしながら「政子、義時。お前たちの作る世の中を見ておるぞ」そんなことつぶやいたかもと想像しました。

そう考えると、父を鎌倉から追放した北条政子にも、肉親としての思いやりは、確かに、あったのだと感じました。

北条氏邸跡

狩野川のほとりに北条氏宅跡(ほうじょううじていあと)。北条氏の館があった所で、狩野川の東岸にある守山北西部の谷になった所にあります。


この周辺が平安時代から鎌倉時代初期にかけて北条氏の本拠地であった伊豆北条という地域です。

こうして見ると、まったく、谷なんですよ!

一方を守山に面して、一方を狩野川に面している。ガケ崩れや洪水が気になる感じです。

元弘3年(1333)鎌倉幕府が滅ぶと北条一族の妻や娘たちは伊豆北条の地に戻りました。北条高時の母・円成尼(えんじょうに)は、この地に円成寺を建てて一門の菩提を弔ったということです。

平家一門の菩提を弔った建礼門院みたいな女性が、北条一門にもいたんですね。なんとも感慨深いことです。

成福寺

最後に、浄土真宗成福寺(じょうふくじ)を訪ねます。



八代執権北条時宗の子・北条正宗(まさむね)の建立した真宗大谷派の寺院です。父時宗は二度のモンゴル襲来という国難にあたって、よく鎌倉御家人たちを統率し、国難を退けました。

戦後、モンゴル襲来における敵味方の死者を弔うため、鎌倉に円覚寺を建てました。また長男貞時には一千体の地蔵尊を。三男正宗には一切経を書写して奉納することを命じました。

「敵も味方も死ねば皆仏」

それが父時宗の考えでした。この頃、正宗は親鸞の孫で本願寺二世・如信上人の教えを受け、仏門に入りました。

父時宗の死後、正宗は父の遺志を継ぎ、ここ伊豆の地に成福寺を築きました。

広い屋根と、背後に迫る山が、印象的です。

お堂の中に入って、御本尊の阿弥陀如来立像の前でしばし瞑想してきました。後ろの戸からさーーっと涼しい風が吹き込み、時計の音がカッチカッチカッチカッチと静かに刻んでいるのが、いい気分でした。

本日は北条氏発祥の地・伊豆北条の地を歩きました。

次回は、宇治の平等院を歩きます。お楽しみに。

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本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。ありがとうございました。