蒲原・由比を歩く

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本日は「蒲原・由比を歩く」です。

蒲原は東海道の15番目の宿、由比はその隣の16番目の宿です。古くから人の行き来が多く、宿場町として賑わいました。

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サッタ峠

とても晴れていたのでまず富士山を見ようということで、サッタ峠に車で向かいました。

道すがら、すでに富士山がよく見えます。山の半分くらいまで白雪がかかっていて、素晴らしい時期に来たなと思います。気分いいです。


富士山の右肩あたりに宝永山がちょこっと顔を出してるのも味わい深いです。

サッタ峠が近づいてきました。ちらほらミカン畑が見えます。看板の表示に従って車を進めていきます。

サッタ峠は東海道の興津宿と由比宿の間に横たわる峠道です。万葉の昔より箱根、宇津ノ谷・日坂などと並び、東海道の難所として知られてきました。東海道を行く旅人は、サッタ峠を越えるか、海岸沿いの道を駆け抜けるか、いずれも険しい道を行かねばなりませんでした。

南北朝時代には足利尊氏と弟の足利直義が戦い、戦国時代には、武田信玄・今川氏真軍と北条氏政軍が戦いました。

踊り場状の場所に着きました。先客の車がたくさんいます。それも全国から。沼津とか静岡だけでなく、横浜ナンバー、鈴鹿ナンバー、けっこう遠くからも来てます。

お、パァーーと視界が開けて、駿河湾が見渡せます。



ああおだやかです。今日は風もないし、暖かく、波も立っていない。いい気分です。

左見ると、ミカン畑を前景として、向こうに、おお…雄大な富士山が。眼下には富士由比バイパス、東海道本線、その上を東名高速道路がクロスして走り、ガアーーゴオーーと音が響いています。現在でもここは交通の要衝です。

富士山を背にして、左に駿河湾と富士由比バイパスを見おろしながら、山道を歩いてきます。駿河湾の向こうには伊豆半島が翼のように広がって見えます。途中、見晴らし台があって、家族連れが写真を撮っていました。楽しげです。


山道の右側にはビワだかミカンだかを運ぶためのレール。でもちょっとこれは普通のミカンじゃないですね。柚子かな…柚子にしては大きい感じがするし。



南北朝時代には足利尊氏と弟の足利直義が戦い、戦国時代には、武田信玄・今川氏真軍と北条氏政が戦った…ということですが、


こんな所でよく戦争したと思うんですよ。狭いじゃないですか道。何万騎いても、先のほうで、キンキンキンキンと斬り合うばかりですよ。で、順番に戦っていって、死体は、ここの崖から突き落としたんですかね。

満々たる駿河湾。ぱあーーっと開けて、晴れやかな気持ちになります。空気もいいです。水仙がよく咲いてます。すれ違う人と、こんにちは~こんにちは~自然に挨拶が発生するのもいい感じです。

おお…もう寒桜が。


梅も。まだ控えめですが、いいもんですね。トンビが気持ちよさそうに旋回している。ああ…今日は気分いいなあとトンビも言ってるようです。

振り返ると、富士山を遠景に、梅を前景として、見事な景色が広がってる。いいですね。


このままずっといくと興津まで下りて行くので、このあたりで引き返して、次は由比を目指します。

その前に「ごはん屋 さくら」で昼です。


土曜日ということもあり満席です。大繁盛です。だいぶ待たないといけませんでした。いいですね。店が流行っているというのは、素晴らしいことですよ。

店に一歩入ると、おっ…潮の香が充満してます。美味しそう。駿河湾名物の桜えびとしらすを盛った、二色丼を注文しました。


かなりのボリュームです。しらすも桜エビも丸々としていて食べ応えがありました。すっかり満腹になった後、由比を目指します。

由比本陣公園

由比本陣公園です。由比の本陣があった跡に建てられた公園。この前の通りも、いかにも昔の街道という感じがして、雰囲気がありますね。




それでその由比の本陣公園の真ん前が、由比正雪の生家と伝えられる正雪紺屋(しょうせつこうや)です。

公園入ると、けっこう広いですね。ここが由比宿の本陣跡です。とはいえ大名などが宿泊した本陣の建物は残っていません。それはもとは正門の正面にあったけれども、明治初年に解体されたということです。

左手に明治天皇がご休息された離れ舘を再現した御幸亭(みゆきてい)、


山岡鉄舟命名による松榧園(しょうひえん)。

正面が東海道広重美術館。


右手のレトロな建物が、東海道由比宿交流館。これは、由比の特産品なんかを売ってあるところですね。


御幸亭

左手にあるのが復元された御幸亭です。



明治天皇が三度宿泊されたという離れ屋敷を復元したものです。

南側の庭は松榧園(しょうひえん)。


山岡鉄舟命名によるものです。

北側の庭は小堀遠州作といわれる枯山水です。


中央の樹木や燈篭を取り囲むように左右から石段が円形に上っていて、まあアイドルのステージみたいな形になってます。

建物はすべて平成6年に復元されたものですが、釘隠しだけは当時のものを拾い集めて使われたということです。


上のほう見ると、無双連子窓(むそうれんしまど)。すすすーとスライドします。古いお風呂やさんなんかで見るやつですね。


そして茶室結仁斎(ゆいじんさい)。


ちろちろちろちろと筧の水音がして、いい雰囲気です。背の低い入口くぐると…おお、茶室が。真ん中に囲炉裏が切ってあります。こう座ってるとチロチロチロチロと庭の筧の音が響き、また羽目板が風にガタガタ、ガタガタと揺れる音も、いい風情ですね。ここで明治天皇もお茶をお召しになったんでしょうか。

さて由比本陣公園を後に、正面にある正雪紺屋を訪ねます。


紺屋とは染物屋のことです。慶安事件で江戸幕府の転覆をはかった由比正雪の生家、と伝えられているので、正雪紺屋と言われています。

土間に埋め込まれた藍瓶(あいがめ)、


梁の上に置かれた用心籠(ようじんかご)はよく観察したいところです。


現在もふつうに営業していらっしゃり、奥様がきさくに話をきかせてくれました。


蒲原本陣跡(佐藤家)

次に向かうのは蒲原の本陣跡です。道がわからずグルグル迷いましたが、郵便局の前で主婦とおぼしき方に道を聞いたら、「えーと、じゃあ私先導しますから、着いてきてください」とスクーターで先導してくださいました。スクーターの後から、車でついていきました。

車の中から思わず写真を撮ります。我々を先導してくださった、頼もしい背中です!


こうして親切な方に導かれて、我々は蒲原の本陣跡にたどり着くことができたのです。

蒲原の本陣は、もとは平岡家が本陣をつとめていましたが、今は佐藤家ご一家が住んでいらっしゃいます。


対面にあるのが旅籠屋で、平岡本陣時代の雰囲気を残しています。


佐藤家の裏側の駐車場の所からは大名の籠を置いたという御駕籠石(おかごいし)が見えるということで、佐藤さんに許可をいただき、見せてもらいました。親切に案内してくださいました。


ほう…あれですか。覗いてる我々の姿はあやしいの一言ですが。

次に来たのは渡邊家。渡邊さんのお宅です。代々木材を商っていた旧家です。


特に18代渡邊金璙(かねよし)は立派な人物で飢饉の時に宿全体の人々に米や金を施したり、家の前で捨てられているみなしごを育てたりしたといいます。

現在の23代渡邊氏の奥様が、鍵でもって蔵を開けてくださいました。



家の奥には、天保10年(1839)完成の三階建ての文書蔵があります。書類や公式文書や芸術品を後世に伝えるために建てられました。

三階建ての蔵は全国的にも珍しく、しかも四隅の柱が上に行くにつれて狭くなっていく、四方具(しほうよろい)という形式で建てられています。耐震性にすぐれているということです。

蔵は資料舘として一般に公開されています。一般に公開、といっても普通の住宅ですから、渡邊さんが御在宅の時のみの公開です。

その23代渡邊氏の奥様が、蔵を開けてくださって、蔵の中で、所蔵品を前に、詳しく、丁寧に、親切に、解説してくださいました。渡邊家の歴史、京都や江戸から文人墨客の行き来が絶えなかったこと。富士川の流れの変遷について。山辺赤人の歌について。さまざまに語ってくださいました。素晴らしい語り部の方でした。脱帽です。

蔵の所蔵品は歴史的に貴重なもので、東京からも京都からも学者さんが訪ねてくることも多いということです。

富士川河川敷

その後、山辺赤人が「田子の浦ゆ~」の歌を詠んだ、ぱあーーっと視界が開けて富士山が見える地点に向かいました。田子の浦は現在、富士市に地名がありますが、本来の田子の浦は蒲原と由比の中間あたりの海岸地帯だと言われています。


さきほどの渡邊家の渡邊さんに道をきいて、近くの富士山が見える、視界が開けたところに河川敷に行ってみると、確かにぱあーっと視界が開ける所があり、「田子の浦ゆ」田子の浦を通り抜けてという…ああ…これを見たのか山辺赤人はと、感動が実感がこみ上げました。

こんなふうに山辺赤人もうねうねと富士川沿いに通ってきて、ぱあーーっと視界が開いた所で、目に富士山が飛び込んできて、ああ素晴らしい、今目の前の富士山よと、

田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ
富士の高嶺に雪はふりけり

河川敷で、思いっきり声を出してきました。


おっと、長歌のほうもせっかくだから詠みますか。

不尽山(ふじのやま)を望む歌

天地(あめつち)の分れし時ゆ
神さびて 高く貴き
駿河なる 不尽(ふじ)の高嶺を
天(あま)の原 振り放(さ)け見れば
渡る日の影も隠らひ
照る月の 光も見えず
白雲(しらくも)も い行き憚(はばか)り
時じくぞ雪は降りける
語り継ぎ、言ひ継ぎ行かむ
不尽(ふじ)の高嶺は

(巻3・317)

反歌

田児(たご)の浦ゆ 打出(い)でて見れば真白(ましろ)にぞ
不尽(ふじ)の高嶺に雪は降りける

(巻3・318)

本日も左大臣光永がお話ししました。ありがとうございます。
ありがとうございました。

次の旅「三島を歩く

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