武田勝頼 終焉の地を歩く

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本日は武田勝頼 終焉の地を歩きます。

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武田勝頼の最期

天正3年(1575)長篠の合戦で織田・徳川の連合軍に敗れてから、武田氏の家運は急激に衰えていきました。

天正9年(1581)末、武田勝頼は拠点を甲府から韮崎に移し、新府城を築きます。しかし織田信長軍のしつような進撃を受け、苦しい状況でした。


新府城 本丸跡

その上、木曽福島城主・木曽義昌が武田を裏切り、織田につきます。さらに勝頼の弟仁科盛信の守る高遠城(長野県伊那市高遠町)が、織田信忠(信長の嫡男)によって落とされました。もうどうにもなりませんでした。

天正10年(1582)3月3日、勝頼は新府城に火をかけ、小山田信茂のまもる岩殿城(現 山梨県大月市)めざして落ちていきます。在城わずか68日でした。

岩殿城に近い笹子峠にさしかかった時、勝頼は小山田信茂に先行させて、勝頼一行を迎える準備をさせました。しかし、いつまで経っても迎えが来ない。

人質にしていた小山田信茂の母の姿がない。まずいと思った時は、前方から鉄砲を撃ちかけてきました。

「おのれ小山田が裏切りか!」

そこで勝頼一行は討ち死にの覚悟を決め、笹子峠北方の天目山をめざしますが。

天正10年(1582)3月11日、天目山のふもと・田野の里にて、信長方の滝川一益に包囲され、勝頼は側室の北条夫人と、嫡男の信勝とともに自害しました。ここに甲斐武田氏は滅亡したのです。

JR中央本線勝沼ぶどう郷駅からバス停上町下車。あるいは勝沼ICから国道20号線を大月(おおつき)方面へ。柏尾交差点を左折。

日川(にっかわ)にかかる祝橋(いわいばし)のたもと、切り立った高台の上に、勝沼氏館跡があります。

勝沼氏館跡は昭和48年の県立ワインセンター誘致計画にともなう発掘調査で発見された中世の館跡です。

武田信虎の弟・信友にはじまる「勝沼氏」の館跡とみられています。勝沼氏は武田の親類の中で筆頭とされましたが、永禄3年(1560)北条に通じた疑いをもたれ武田信玄に滅ぼされました。

江戸時代に書かれた『甲斐国志』に「勝沼氏ノ館跡」と紹介されていることから、勝沼氏滅亡後も館跡として伝えられていったようです。

現在、館の中心となる内郭(うちくるわ)が公園として整備され、堀・土塁・木橋・建物の礎石などが復元され、二重の堀で囲まれた中世の武士の館のさまがよく観察できます。

大善寺

勝沼氏館跡を後に、国道20号線を東へ向かいます。途中、左に真言宗大善寺があります。

別名ぶどう寺。創建は養老2年(718)行基菩薩が右手にぶどうを持ち左手で印をむすんだ薬師如来像と日光菩薩像・月光菩薩像を刻んで安置したことに始まると伝えられます。

平安時代初期に焼失するも、天禄2年(971)古代甲斐の豪族である三枝守国(さいぐさ もりくに)が再建。平清盛、源頼朝の寺領寄進、北条貞時(9代執権)の薬師堂再建など、代々の為政者の保護を受け、栄えてきました。

書院

はじめに見える建物が書院です。大黒天・弁財天・不動明王を各部屋で祀っています。離れに民宿もあります。一泊二食付き5980円。古刹のゆったりした風情の中すごすのも、いいですね。

書院裏の庭園は滝と築山を組み、池に出島を配します。いい風情です。

山門

山門はどっしりした重厚な構えです。

寛政10年(1798)再建。三間一戸・瓦葺の二重門です。慶応4年(1868)近藤勇率いる甲陽鎮撫隊(元 新選組)300人余が、大善寺に近い柏尾坂で新政府軍を迎え撃ちました。柏尾坂の戦いを描いた錦絵に近藤勇の雄姿のうしろに、大善寺山門が描かれています。

稚児堂

毎年5月8日に大善寺では「藤切会式(ふじきりえしき)」と呼ばれる祭が行われます。役行者が大峰山(奈良県吉野郡)を開く際にあらわれた大蛇を退治した故事に基づきます。

境内の御神木に吊り下げた藤の弦を修験者が切り落とし、参加者がそれを争奪するというもので、

その祭の際、稚児舞が行われるのがこの稚児堂です。

ふもとの景色が見渡せて気分いいです。

本堂・薬師如来像・日光・月光菩薩像

石段をのぼりきった正面が本堂です。別名薬師堂。ゆったりした檜皮葺の建物です。

鎌倉時代の弘安9年(1286)3月16日の銘があり、関東周辺でもっとも古い建物です。

内陣の須弥壇には厨子一基が置かれ、中には本尊の仏師蓮慶作の薬師三尊像がおさめられ、その左右に同じく蓮慶作の十二神将像を配します。三尊像は秘仏であり、ふだんは拝むことができません。

理慶尼の墓

理慶尼は武田信玄のいとこで、出家して大善寺に住みました。理慶尼の書いた『理慶尼記』は別名『武田滅亡記』といい、大善寺に安置されています。

小山田信茂をたよった勝頼一行が、大善寺に滞在し、戦勝祈願をした時の滞在記です。滅びゆく武田の悲哀ただよう作品です。

大善寺を後に国道20号線を東へ。途中、左手に近藤勇の像が立ちます。柏尾(かしお)古戦場跡です。

慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の戦いに新選組は敗れました。敗れた新選組は大坂から船に乗り、江戸に帰還しました。3月1日、近藤勇らは甲陽鎮撫隊と名乗り、東進する新政府軍をはばむため甲府城の接収を命じられ、江戸から甲府へ向かいます。

3月5日、勝沼に入りますが、すでにこの前日、板垣退助率いる新政府軍先鋒隊三千名が甲府城に入っていました。

近藤勇は援軍要請のため土方歳三を江戸に向かわせる一方、3月5日、勝沼に布陣。3月6日正午ごろ合戦が始まりましたが、わずか二時間で甲陽鎮撫隊は江戸に敗走することとなりました。

景徳院

武田勝頼終焉の地・景徳院につきました。

山門の風格あるたたずまいがまず目に入ります。入母屋造・檜皮葺・三間一戸。景徳院は二度の火事で伽藍のほとんどが焼けてしまいました。江戸時代後期に再建されたこの山門だけが往時の姿をとどめています。

天正10年(1582)3月11日、天目山ふもとの田野村にて武田勝頼は自害し、武田氏は滅亡しました。同年7月、徳川家康が甲斐に入り、勝頼の菩提を弔うため、家臣小畑勘兵衛に命じて寺を建立しました。それがこの曹洞宗景徳院です。当初は地名から田野寺とも呼ばれていました。

境内には武田勝頼の墓・霊廟があり、甲勝殿裏手に武田勝頼の墓とおぼしき宝篋印塔、その右に北条夫人(勝頼の側室)の五輪塔、左に嫡男信勝の五輪塔がならびます。

また勝頼・北条夫人・信勝が最期を遂げたという生害石があります。

辞世です。

おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ はれてゆくゑの 西の山の端
勝頼

(おぼろ月もほのかに雲もかすんでいたが、やがて晴れてきて西方浄土に導くかのような西の山の端よ)

黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思ひに消ゆる 露の玉の緒
北条夫人

(黒髪の乱れのように乱れた世であることよ。はてしない思いの末に消えていく露のような私の命)

あだに見よ 誰も嵐の桜花 咲き散るほどの 春の夜の夢
信勝

(人の命はあてにならないものと見よ。誰でもついには死ぬ。山風が桜花を吹き散らすように、はかない春の夜の夢のようなもの)

勝頼37歳、北条夫人19歳、信勝16歳でした。

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