疎水橋「水路閣」と蹴上インクライン

こんにちは。左大臣光永です。だいぶ寒くなってきましたね。いかがお過ごしでしょうか?

私は本日、近くの温泉の「歩行浴」コーナーで歩いてきました。長細い浴槽の真ん中に壁を一枚立てて、カタカナの「ロ」の形のコースを作って、反時計回りにぐるぐる歩くわけです。なかなか、運動になりました。

さて本日は、南禅寺の「水路閣」から蹴上インクラインまで歩き、琵琶湖疏水の歴史をさぐります。

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水路閣

南禅寺・中門を過ぎ、


石川五右衛門の「絶景かな~」で有名な三門を過ぎ、


法堂が見えたところで右に向かうと、


赤レンガづくりの水道橋・水路閣がその姿をあらわします。



全長約93メートル幅4メートル。明治23年(1890年)竣工。ローマの水道橋を模して作られたといいます。

アーチの中を覗くと、ずあーーーっと向こうまでアーチが並んでいるのが圧巻です。たくさんの人が、覗いて、記念撮影をしています。



苔むした赤レンガの建造物が寺の景色の中に自然に溶け込み、景観の一部となっているのが、面白いです。この水路閣の上を現在も、疎水の分流が流れているのです。上ります。


水が流れています。赤レンガの水路閣の上を、細く、水がちゃんと流れているのです。


下流に向かう道はすぐに封鎖されていますが、上流へはずいぶん先まで歩くことができるので、歩きます。


琵琶湖疎水

明治2年(1869年)の東京遷都以来、京都は日に日にすたれ、活力を失いつつありました。

「もう京都はダメなんやろか…」
「やっぱり天皇はんがうつってもうたらアカンなあ…」

そこで第三代京都府知事・北垣国道(きたがきくにみち)は、一つの論文に注目します。

当時20歳の工部大学校(こうぶだいがっこう)の学生・田辺朔郎(たなべさくろう)の卒業論文です。

そこには琵琶湖から京都市内に水路を通し船を行き来させ物資を運ぶ計画が書かれていました。

琵琶湖から京都に水を引く計画は、古くは平清盛・豊臣秀吉の時代からありましたが、技術的な問題が多く、実現には到っていませんでした。しかし時は明治。

「いけるかもしれない…」

北垣国道は田辺朔郎を疎水開削工事の主任技師として招きます。

「明日の京都のために、力を貸してほしい」
「わかりました」

田辺は工部大学を卒業すると、すぐに北垣の招きに応じ、疎水開削工事が始まりました。時に明治18年(1885年)。

「こんなん、なんぼ金があっても無理でっせ」
「キケンや!人が死んだら、あんた責任取れますんか!」

そんな反論を退け、田辺は不屈の意思と技術力で疎水工事を押し進めました。

工事はまず、大津から長等山を貫き藤尾に到る、第一トンネルから始められました。全長2436メートル。当時のトンネル工事としては最長です。

工事は難航が予想されました。そこで田辺は、シャフトと呼ばれる竪穴を使った工事方法を、日本ではじめて採用します。

トンネルの中間点の山の上から竪穴を掘り、竪穴の底から、両方の出口に向けて、掘り進む。それと同時に両方の出口からも掘り進むとうものです。

また、水力発電を導入したのも大きなことでした。

明治24年、アメリカ・コロラド州アスペンの水力発電所を参考に、日本発の水力発電所が蹴上に完成。同年11月から送電されます。

当初は水車を増設することによって発電しようと考えていましたが、水力発電は、水車とは桁違いのパワーであり、京都市発展の大きな原動力となりました。

これらの工事はすべて日本人技術者の手で行われました。当時、重要な工事は外国人技師の設計・監督で行われていた中、これは異例のことでした。

幾多の困難を経て、疎水は明治23年(1890年)大津から鴨川落合までが完成。その後、明治27年(1894年)伏見区堀詰町(ほりづめちょう)までの延長水路約20キロが完成し、琵琶湖と淀川が結ばれます。これにより北陸から近江を経て京・大阪に到る水運が整えられました。

南禅寺の水路閣も、若王子橋から銀閣寺橋に到る「哲学の道」沿いの流れも、疎水の一部です。

疎水は現在も生活用水に、発電に、防火に、工業用水に、京都の生活と産業を支え続けています。


蹴上疏水公園

しばらく道を歩くと、蹴上疏水公園に出ます。

眼下には蹴上発電所の導水管。


復元された蹴上インクラインの軌道。


そして京都の町並みが見渡せます。平安神宮の鳥居が赤く見えるのが、とても印象的です!


田辺朔郎博士の像は、疎水とそして京都市内を眺めて、立っています。若く、理想に燃えた感じです。


田辺朔郎博士像のはす向かいには、琵琶湖疏水工事殉難者碑(びわこそすいこうじじゅんなんしゃのひ)があります。



疎水工事に伴う殉難者17名の魂を慰めるため、田辺朔郎が私費で建てた石碑です。銘は、

「一身殉事萬戸霑恩(一身 事に殉じ/萬戸 恩に霑ほふ)」

あなたたちが一身を投げ打ってこの事業に殉じてくれたからこそ、今、多くの人が潤っています、あなたたちの死は無駄ではありません、といった意味でしょう。

また公園には、導水管の実物が展示してあります。


この管を通して、第二疎水から導いた原水は、水中のゴミや藻を機械で取り除いてから、インクラインから仁王門を経て、鴨川を渡り、御池通を経て、右京区の山ノ内浄水場まで導くのです。

蹴上インクライン

蹴上疎水公園のふもとには、復元された蹴上インクラインがあります。



疎水は琵琶湖から大津・山科を経て蹴上に到りますが、蹴上船泊と南禅寺船泊との間には高度差が36メートルもあるため、そのままでは船の行き来ができませんでした。

そこで、船を乗り降りすることなく、船ごと台車に載せて、動力によってレール上を上り下りする仕組みが作られました。これが蹴上インクライン(傾斜鉄道)です。明治24年(1891年)の竣工です。

明治27年(1894年)伏見区堀詰町までの延長水路約20キロが完成し、琵琶湖と淀川が結ばれたことで、北陸から近江を経て京・大阪に到る水運の経路が整えられました。これにより利用者が増え、たいへん賑わいました。

最盛期は利用者13万人を数えましたが、鉄道の発達にともない利用者が減り、昭和23年(1948年)、廃止されました。

レールも撤去されましたが、昭和52年(1977年)産業遺産として保存するために復元されました。平成8年、国の史跡に指定されています。



復元されたインクライン上には、台車とそれに乗った木造船も復元されています。貨物まで忠実に再現されているのが、心憎いですね。



伏見の酒を、こうやって大津まで届けていたかぁと、しみじみ感慨深いものがあります。

インクラインの傾斜を歩いて、南禅寺方面まで下っていくのが楽しいです。



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本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

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