蹴上インクラインと疎水橋「水路閣」

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こんにちは。左大臣光永です。

本日は蹴上から南禅寺まで歩き、琵琶湖疏水と蹴上インクラインの歴史について語ります。

琵琶湖疏水は明治時代初期、琵琶湖の水を京都に引くために開削された水路です。滋賀県大津から長柄山のトンネルを通って、京都の蹴上船泊から南禅寺船泊へ。鴨川へ。さらに鴨川東岸の延長水路により伏見にまで到りました。

蹴上インクラインはその間、蹴上船泊と南禅寺船泊の高低差が36メートルあるので、船から織りずに船を台車の上にのせて、動力によってレールの上を上下できるようにした仕組みのことです。

↓動画が再生されます↓

ねじりまんぽ

地下鉄東西線 蹴上駅下車。蹴上インクラインの下を通るトンネル「ねじりまんぽ」をくぐります。

ねじりまんぽ
ねじりまんぽ

重さに耐えられるようにレンガを螺旋状に、ねじったように積み上げてあるので、ねじりまんぽといいます。南禅寺界隈の名所の一つです。

扁額には、琵琶湖疏水の発起人となった第三代京都府知事・北垣国道の文字があります。中はヒンヤリ冷たいです。

ねじりまんぽ
ねじりまんぽ

ねじりまんぽをくぐって脇道から、蹴上インクラインに上がれます。

復元された蹴上インクライン
復元された蹴上インクライン

琵琶湖疏水は明治時代初期、琵琶湖の水を京都に引くために建設されました。全行程20キロ以上の途方もない大工事でした。中でも、難所が二つありました。

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琵琶湖疏水 概略
琵琶湖疏水 概略

一つは大津から長柄山を通って藤尾に至る第一隧道の工事。

そしてもう一つは山科から京都盆地にどうやって水をひっぱるかという問題です。

蹴上船泊から南禅寺船泊との間には高度差が36メートルもあるため、そのままでは船の行き来ができませんでした。

そこで、船を乗り降りすることなく、船ごと台車に載せて、動力によってレール上を上り下りする仕組みが作られました。これが蹴上インクライン(傾斜鉄道)です。

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蹴上インクライン
蹴上インクライン

現在の蹴上インクラインは昭和52年(1977年)に産業遺産として復元されたものです。

復元された蹴上インクライン
復元された蹴上インクライン

復元された蹴上インクライン
復元された蹴上インクライン

レールの復元に伴い、台車とそれに乗った木造船も復元されています。貨物まで忠実に再現されているのが、心憎いです。

復元された蹴上インクライン 台車と木造船
復元された蹴上インクライン 台車と木造船

復元された蹴上インクライン 台車と木造船
復元された蹴上インクライン 台車と木造船

こうして南禅寺船泊まで下った船は、水路を通って鴨川の東岸に至るわけです。

↓つまり、こういう流れです↓

蹴上船泊~蹴上インクライン~南禅寺船泊~鴨川
蹴上船泊~蹴上インクライン~南禅寺船泊~鴨川

蹴上船泊
蹴上船泊から…

蹴上インクライン
蹴上インクラインを下り、

南禅寺船泊
南禅寺船泊を経て、

鴨川へ
鴨川へ

蹴上疏水公園 田辺朔郎博士の像

蹴上インクラインを登った先の蹴上疏水公園には、疏水工事の総括責任者・田辺朔郎博士の像が立っています。若く、理想に燃えた感じで京都市内を見下ろしています。

田辺朔郎像
田辺朔郎像

田辺朔郎像
田辺朔郎像

平安神宮の大鳥居が赤く見えるのが気分高まります。

蹴上疏水公園からの眺め
蹴上疏水公園からの眺め

田辺朔郎博士像のはす向かいには、琵琶湖疏水工事殉難者碑(びわこそすいこうじじゅんなんしゃのひ)があります。

琵琶湖疏水工事殉難者碑
琵琶湖疏水工事殉難者碑

疎水工事に伴う殉難者17名の魂を慰めるため、田辺朔郎が私費で建てた石碑です。銘は、

「一身殉事萬戸霑恩(一身 事に殉じ/萬戸 恩に霑(うる)ほふ)」

あなたたちが一身を投げ打ってこの事業に殉じてくれたからこそ、今、多くの人が潤っています、あなたたちの死は無駄ではありません、といった意味でしょう。

公園裏手の小道から、琵琶湖疏水の分流に沿って南禅寺に向かいます。流れがとてもきれいです。道すがら、琵琶湖疏水の歴史について解説していきます。

疏水分線
疏水分線(蹴上から南禅寺へ)

疏水分線
疏水分線(蹴上から南禅寺へ)

明治2年(1869)東京に首都が移ってから、京都は日に日に衰退していきました。

最盛期には江戸・大阪とならび40万人の人口を誇りましたが、明治8年の記録によると22万6000人にまで落ち込んでいました。明治はじめの京都は衰弱し切っていたのです。

明治14年(1881)北垣国道が高知県令から栄転する形で第三代京都知事として京都に赴任してきました。

北垣国道像(夷川船泊)
北垣国道像(夷川船泊)

北垣は但馬藩(兵庫県北部)の出身で、幕末は長州藩に身を寄せ、高杉晋作の奇兵隊にも所属していました。戊辰戦争では会津を攻めて、功績を立てました。

青年時代に志士として駆け回った京都に、知事となって戻ってきた。北垣の胸にはさまざま思いがあったことでしょう。

北垣国道像(夷川船泊)
北垣国道像(夷川船泊)

赴任早々、北垣国道は京都復興事業に着手します。その柱として北垣が掲げたのが、琵琶湖疏水の開削でした。

琵琶湖から京都に水を引く計画は、古くは平清盛・豊臣秀吉の時代からありました。江戸時代もありました。明治に入ってからも何度も嘆願書が出されていました。

平清盛・豊臣秀吉の時代には技術的に不可能でした。しかし時は明治。技術は格段に進んでいます。可能性はありました。

田辺朔郎との出会い

明治16年(1883)北垣国道は政府要人との打ち合わせのために上京しました。そこで工部大学校(後の東京帝大工学部)校長・大鳥圭介より、一人の学生を紹介されます。

田辺朔郎像
田辺朔郎像

田辺朔郎。当時20歳。土木専攻。卒業論文で、琵琶湖疏水の計画と設計について書いていました。

北垣は早速田辺朔郎に会ってみると、色白で長身。いかにも都会っ子の風で礼儀正しく物腰柔らかな若者でした。田辺は琵琶湖疏水に並々ならぬ情熱をもっており、最新の土木技術を貪欲に学んでいました。

北垣は田辺をたいへん気に入ります。

「田辺くん、明日の京都のために力を貸しくれ」
「わかりました」

明治18年(1885)1月29日、北垣国道は内務省に呼び出され、内務卿山県有朋より琵琶湖疏水開削事業の許可証(起工特許書)を下されました。4年間にわたる、根回しと努力のたまものでした。

(ここから全てが始まる。そしてここからが、大変なのだ…)

北垣と側近たちの胸には期待と不安がせめぎ合っていたことでしょう。

第一隧道

工事はまず、大津から長等山(ながらやま)を貫き藤尾(ふじお)に到る、第一隧道から始められます。全長2436メートル。当時のトンネル工事としては最長です。

琵琶湖疏水 概略
琵琶湖疏水 概略

琵琶湖疏水 概略
琵琶湖疏水 概略

そこでシャフトと呼ばれる竪穴を使った工事方法を、日本ではじめて採用します。

トンネルの中間点の山の上から竪穴を掘り、竪穴の底から、両方の出口に向けて、掘り進む。それと同時に両方の出口からも掘り進むとうものです。

シャフト
シャフト

明治19年(1886)4月17日、ようやくシャフトが予定している第一隧道の標高に届きました。

西口の藤尾からはこれに先駆ける3月21日より、東口からは少し遅れて9月20日から開削を進めていました。

西口藤尾方面の工事はスムーズに進みました。西口藤尾に近い山の上から第二シャフトを掘ったので、2本のシャフトにより、工事はずいぶんやりやすくなりました。

第一シャフト・第二シャフト
第一シャフト・第二シャフト

翌明治20年(1887)7月9日、藤尾口側から岩盤をダイナマイトで破壊すると、ぼっかりと穴が空き、向こう側とつながりました。

第一隧道西側の最後の岩盤が取り除かれ、東西に分かれていた鉱夫たちは顔をあわせることとなりました。

「やった!やった!」

鉱夫たちは大喜びで駆け寄せ、涙を流して抱き合いました。田辺朔郎は、後年回想録に書いています。疏水は必ずできる。私が確信したのは、この時であったと…。

そして問題の…蹴上インクラインです。

蹴上船泊から南禅寺船泊との間には高度差が36メートルもあるため、そのままでは船の行き来ができません。

そこで、船を乗り降りすることなく、船ごと台車に載せて、動力によってレール上を上り下りする仕組みが作られました。これが蹴上インクライン(傾斜鉄道)です。

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蹴上インクライン
蹴上インクライン

こうして蹴上船泊から南禅寺船泊まで下った船は、水路を通って鴨川の東岸に至るわけです。

↓つまり、こういう流れです↓

蹴上船泊~蹴上インクライン~南禅寺船泊~鴨川
蹴上船泊~蹴上インクライン~南禅寺船泊~鴨川

蹴上船泊
蹴上船泊から…

蹴上インクライン
蹴上インクラインを下り、

南禅寺船泊
南禅寺船泊を経て、

鴨川へ
鴨川へ

疏水分線

一方、灌漑や防火用の水路は別に引っ張ります。疏水分線です。蹴上船泊から分水して、第四隧道・第五隧道・第六隧道を通り、如意ヶ岳と吉田山の間の平地を北上し、高野川を渡り下鴨を突っ切り加茂川を渡って小川から堀川に至ります。

疏水分線
疏水分線

疏水分線
疏水分線

そしてこの疏水分線を通すために、南禅寺境内にローマの水道橋を模して巨大な「水路閣」が築かれました。

南禅寺水路閣
南禅寺水路閣

南禅寺水路閣
南禅寺水路閣

全長約93メートル幅4メートル。明治23年(1890年)竣工。ローマの水道橋を模して作られたといいます。

アーチの中を覗くと、ずあーーーっと向こうまで奥行きがあるのが圧巻です。たくさんの人が、記念撮影をしています。

苔むした赤レンガの建造物が寺の景色の中に自然に溶け込み、景観の一部となっているのが、面白いです。この水路閣の上を現在も、疎水の分流が流れているのです。

南禅寺水路閣
南禅寺水路閣

赤レンガの水路閣の上を、細く、水がちゃんと流れています。

南禅寺水路閣
南禅寺水路閣

南禅寺水路閣の先は、第四隧道・第五隧道・第六隧道を抜けていきます。

疎水分水、第四隧道へ
疎水分水、第四隧道へ

また、疏水分線のうち若王子~銀閣寺道に至る区画は、哲学者西田幾多郎先生が学生と語らいながら歩いた「哲学の道」として有名です。

哲学の道
哲学の道

明治23年(1890)、工期4年10カ月。距離10キロ以上。未曾有の大工事はこうして終わりました。しかし琵琶湖疏水はまだ完全ではありませんでした。

明治27年(1894年)まで付帯工事として鴨川冷泉(れいぜん)放出口から伏見区堀詰町(ほりづめちょう)までの延長水路約10キロが完成。これは鴨川の左岸に水路(鴨川運河)を設けました。

鴨川運河
鴨川運河

鴨川冷泉放出口
鴨川冷泉放出口

延長疏水
延長疏水

これにより琵琶湖と淀川が結ばれます。北陸から近江を経て京・大阪に到る水運が整えられたのです。

第二疏水

疏水の開通後、京都は勢いを取り戻していきます。産業もさかんになり、年々、人口も増えていきました。明治31年には35万人と記録されています。

しかし増えすぎた人口を、疏水からの水だけでは賄えなくなってきました。

そこで、新しい疏水を建造することが提案されました。しかし予算が無い。時の京都市長西郷菊次郎が駆け回った挙句、フランスからの融資を取り付けることに成功しました。

第二疏水は第一疏水のやや北を並行して通しました。

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琵琶湖疏水 概略
琵琶湖疏水 概略

工事は明治42年11月に始まりま明治45年4月に終わります。第二疏水が第一疏水と決定的に違うのは、その全域が地下に埋まっていることです。三保ケ崎の取入口と蹴上の合流点以外、ほとんど外から見ることはできません。

入り口である大津の三保ケ崎取入口と、出口である蹴上船泊の合流点でのみ、わずかに第二疏水の存在が知れます。

大津 第二疏水 三保ケ崎取入口
大津 第二疏水 三保ケ崎取入口

大津 第二疏水 三保ケ崎取入口
大津 第二疏水 三保ケ崎取入口

蹴上船泊合流点
蹴上船泊合流点

しかし第二疏水はふだん存在を実感されることは少ないながら、第一疏水の二倍の水量を、毎日琵琶湖から京都に現在ももたらしています。

ところで第二疏水の工事では第一疏水の時と決定的に違うことがありました。

電気が使えたことです。

第一疏水完成した翌年の明治24年、アメリカ・コロラド州アスペンの水力発電所を参考に、日本発の水力発電所が蹴上に完成し、同年11月から送電されていました。

蹴上発電所
蹴上発電所

この蹴上発電所から送られる電気で、坑内の照明や排水ポンプを動かすことができました。これにより第二疏水の工事は第一疏水の工事よりもずっとやりやすくなりました。

疏水の盛衰

疏水の利用者は最盛期は利用者13万人を数えました。しかし鉄道の発達にともない利用者が減り、昭和23年(1948年)に廃止されました。

蹴上インクラインのレールも撤去されました。

現在の蹴上インクラインは昭和52年(1977年)に産業遺産として復元されたものです。

復元された蹴上インクライン
復元された蹴上インクライン

こうして輸送手段としての琵琶湖疏水の歴史は幕をおろしました。しかし現在も琵琶湖疏水の水は、生活用水に、発電に、防火に、工業用水に、京都の生活と産業を支え続けています。

次の旅「南禅寺を歩く

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