熊本県 菊池を歩く(二)
本日は、昨日に引き続き、菊池を歩く(二)です。
菊池は肥後最大の豪族・菊池一族の本拠地です。
菊池一族は平安時代から室町時代の後期まで450年間にわたって菊池地方を中心に活躍しました。
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前回ぶん 菊池を歩く(一)はこちら
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南北朝時代の15代菊池武光の時、菊池氏は全盛期を迎えます。
15代菊池武光は後醍醐天皇の皇子・懐良親王を菊池に迎え、これを「征西将軍」として旗印とします。以後、菊池氏は一貫して南朝を支持し、九州の北朝勢力と戦いました。
雲上宮(くものうえぐう)
菊池神社を後に、雲上宮(くものうえぐう)に向かいます。懐良親王の御所の跡といわれる、社です。
うねうねした山道を進みます。菊池神社の神主さまに道をきいて、たどりつくことができました。案内なしでは、まず到着不可能でした。
雲上宮は、後醍醐天皇の皇子・懐良親王と、後村上天皇の皇子・良成親王のご在所の跡です。昭和45年に、両親王を祀って社が建てられました。
足利尊氏と対立した後醍醐天皇は、1336年、吉野に逃れ、南朝を開きます。一方、自分に万一のことがあった時のため、日本各地に自分の皇子たちを送っていきました。
鎌倉には成良(なりよし)親王を。奥州には義良(のりよし)親王(=後村上天皇)を。
そして九州に送られたのが懐良(かねよし)親王です。
懐良親王は瀬戸内海の忽那(くつな)諸島、日向、薩摩を経て、12年の歳月のす末、肥後に到着。菊池氏五代・菊池武光に迎えられます。
「ようこそ菊池へ。
長い旅でお疲れでしょう」
「うむ…世話になるぞ」
懐良親王は菊池一族の居城である守山城背後の山・内裏尾(だいりお)にご在所を置きました。
以後、懐良親王は内裏尾より九州各地の南朝方勢力に指示を出し、あるいは自ら戦場に立って戦います。
懐良親王は「征西将軍」とよばれ、懐良親王のご在所のあった内裏尾は、征西府(せいせいふ)と呼ばれました。
宮さまがいらっしゃった山ですから、この山を「内裏尾」といいます。
ひっそりと社が建っています。うーん…やはり南朝の皇子ですからね。北朝方に命を狙われる危険もあったせいでしょうか。ひっそりお住まいだったのでしょう。
よく見ると、散り敷いている木の葉の陰に、あそこにも、ここにも、竜胆の花が咲いています。ひっそりと、可憐に。
懐良親王の凛としたお人柄と、そのお暮しぶりがしのばれるようでした。
雲上宮を後にやってきたのが、将軍木(しょうぐんぼく)です。県立菊池高校正門の脇に生えています。推定樹齢650年の椋の大木です。
1348年、菊池に迎えられた後醍醐天皇の皇子・征西将軍・懐良親王のお手植えと伝えられ、菊池の地では懐良親王の象徴として崇めたてまつってきました。なんとも生気がみなぎっている感じで、うれしくなります。
将軍木の脇に征西将軍・懐良親王を祀る頓宮があります。
松囃子能場(まつばやしのうば)
そして将軍木の正面には。道路を隔てて松囃子能場(まつばやしのうば)があります。
10月13日の菊池神社の秋祭りでは、内裏尾の雲上宮(くものうえぐう)でお祭りをした後、この松囃子能場で懐良親王に奉納するための御祭囃子御能(おんまつりばやしおのう)を、奉納します。
御祭囃子御能は、15代菊池武光が、後醍醐天皇皇子・懐良親王を菊池にお迎えした際に、正月2日に天下泰平を祈って菊池の本城で催したのが始まりとされます。
「ほう…九州でも能が見られるのか」
「はい。お楽しみいただければ幸いです」
はるばる都から下ってきて心細い懐良親王を、どんなにか、その舞は慰めたことでしょう!
ある時、菊池武光が正月2日に出陣中であったので、戻ってくるのを待って7月15日に延期され、以後、これが恒例となりました(『菊池風土記』)。
明治に入って菊池神社が創建されると、10月13日の秋祭りの初日に行われるようになりました。
懐良親王お手植えと伝えられる「将軍木」。その正面に設置した能舞台で、懐良親王にお御覧いただくわけです。現在まで六百数十年続く菊池の伝統行事です。
将軍木を後に、孔子堂跡に向かいます。
国道133号線からフッと横道にそれた所です。迫間(はざま)川のほとりの、菜の花が咲く、のどかな所です。
菊池氏21代重朝公は、文化好きでした。
菊池の地に孔子と十人の弟子(孔子十哲)の像を立てて、儒教を盛んにしました。当時、日本一の学者と言われた京都南禅寺の桂庵禅師(けいあんぜんじ)もこの地を訪れ、孔子堂において、釈奠(せきてん)の礼という、儒教で最高の礼拝を行いました。
また、桂庵禅師は重朝公の開催する連歌の会に参加し、一晩で一万句を詠みました。これを菊池万句(きくちまんく)と呼びます。
玉祥寺 菊池為邦・菊池重朝公の墓
次に玉祥寺(ぎょくしょうじ)を訪ねます。
玉祥寺山門そばに、菊池氏20代・為邦公の墓、21代・重朝公の墓があります。
20代為邦公は、17歳で家督を継ぎ、肥後の守護に任じられます。文武の名将といわれ、儒教や禅を奨励しました。また明や朝鮮との貿易を行いました。
37歳の若さで嫡男の重朝に家督を譲ります。
跡を継いだ21代重朝公も、父為邦に似て学問好きでした。孔子とその弟子(孔子十哲)を祀った孔子堂を建て、一晩で一万句を詠む連歌のイベント「菊池万句」も催したりしました。
「戸々民村、夜書を誦す」と、横川天隠の賛辞があります。
はじめ為邦公・重朝公の墓がどこにあるかサッパリわからず、住職さんに聞きました。寺のふもとの、塀で囲まれたエリアの奥にあると聞いて…あ、ありますね。
囲まれてるコの字型のエリアの奥にある、右が20代為邦公の墓で、左が21代重朝公の墓です。しっかり手をあわせていきましょう。
最後に、13代菊池武重公の墓を目指します。
れんげ畑のただなかに、13代菊池武重公の墓は、たたずんでいます。
13代菊池武重。
12代菊池武時の嫡男。14代武士・15代武光の兄にあたります。父武時が九州探題を攻撃するさい、武時はじめ息子たちを涙ながらに逃がした「袖ヶ浦の別れ」は有名です。
小川の水音。
ヒバリのさえずり。
そしてひらひらと舞い散る桜。
いい風情です。
この場所にお休みになってる…最高じゃないですか。
この墓も亀趺(きふ)という想像上の動物の上に墓標がある形です。
はじめに見た15代菊池武光公の墓と同じですね。身分の高い人の墓に見られます。(13代武重公・15代武光公・17代武朝公・23代政隆公)
それにしても、菊池の町を歩き回って疑問に思ったことがあります。
なぜ菊池一族の墓はこんなにも飛び飛びなのか。
特に12代菊池武時・13代菊池武重・15代菊池武光はとても仲のよい父子・兄弟なのに、けっこう離れて立っている。なぜ並んでいないのか?とても疑問でした。
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