東海道 菊川を歩く

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さて本日は前回の「小夜の中山を歩く」に続き、「東海道 菊川を歩く」です。

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中納言宗行卿詩碑・日野俊基卿歌碑

小夜の中山を下ると、菊川(きくがわ)の集落です。菊川は東海道の金谷(かなや)宿(24番)と日坂(にっさか)宿(25番)の中間に位置する間宿(あいのしゅく)でした。間宿とは、宿と宿の距離が遠い場合、旅人の中継点として設けられた宿に準ずる村のことです。

集落ほぼ中央の菊川の里会館横に、中納言宗行卿の詩碑と、日野俊基卿の歌碑があります。


承久三年(1221)後鳥羽上皇は執権北条義時の追討を訴え、鎌倉幕府に対して軍事行動を起こしました。しかし、鎌倉方はいち早く後鳥羽上皇の動きを察知。19万騎の大軍で京都に攻め上り、京都は陥落。後鳥羽上皇とその二人の皇子・順徳上皇・土御門上皇は島流しとなりました。承久三年(1221)承久の乱です。

後鳥羽上皇の計画に加わった中納言藤原宗行は捕えられ、鎌倉へ護送される途上、ここ菊川の宿に宿りました。

「ああ…私は殺されるのだ。これが最期だ」

そう悟った中納言宗行は、柱に歌を書きつけました。

昔南陽懸菊水
汲下流而延齢
今東街道菊河
宿西岸而失命

昔は南陽県の菊水
下流に及んで齢を延ぶ
今は東海道の菊河
西岸に宿りて命を失ふ

昔、南陽県(河南省南陽)の菊の水を飲むと長寿を得て、寿命が延びたという。しかし私は今、東海道の菊川の宿の西岸に宿って命を失うのだ。

その後、承久3年(1221年)7月14日、中納言宗行は御殿場にて処刑されました。享年48。

それから約100年後、後醍醐天皇の忠臣・日野俊基卿は1324年、後醍醐天皇の討幕計画「正中の変」に加わったため、鎌倉幕府に捕えられます。しかしこの時は初犯なので許されました。6年後の1331年、後醍醐天皇はふたたび討幕計画を起こします。「元弘の変」です。

この時、日野俊基卿はまたも計画に加わっていました。今度は二度目であるということで、許されませんでした。京都から鎌倉に護送され、鎌倉の葛原丘で斬られます。その途上、菊川の宿にて日野俊基卿がいにしえの中納言宗行を想って詠んだ歌が。

いにしへもかかるためしを菊川の
おなじ流れに身をやしずめん

昔も今の私と同じように、中納言宗行卿は処刑を前にして菊川の宿に宿ったのだ。その同じ菊川の流れに、私は身を沈めよう。

日野俊基卿が鎌倉へ下る際の道行をつづった「俊基朝臣再び関東下向の事」は『太平記』屈指の名文として知られます。東海道や静岡を旅する際は、ぜひその一節なりとも暗記しておいて、思い出したいところです。

隙(ひま)行く駒の足早み、日すでに亭午(ていご)に昇れば、餉(かれひ)参らするほどとて、輿を庭前に舁き止む。轅(ながえ)を叩いて警固の武士を近付け、宿の名を問ひ給ふに、「菊川と申すなり」と答へければ、承久の合戦の時、院宣書きたりし咎に依つて、光親卿(みちつかのきょう)関東へ召し下されしが、この宿にて誅せられし時、

昔南陽懸菊水。汲下流而延齢。今東海道菊河。宿西岸而終命。

と書きたりし、遠き昔の筆の跡、今は我が身の上になり。哀やいとど増さりけん、一首の歌を詠じて、宿の柱にぞ書かれける。

古も かかるためしを 菊川の 同じ流れに 身をや沈めん

中納言宗行卿と日野俊基卿の歌碑のある菊川の里会館から車で約5分。墓場近くの茂みの中に、中納言宗行卿の塚があります。だいぶ道に迷って、何度もぐるぐる回ったので、正確な道はよく覚えていませんが。



文久3年(1863年)水戸藩士 渡邊宮内右衛門源進が建立したものだということです。

現地には「宗行卿之塚移築記念の碑」と「宗行卿之塚」と五輪塔が確認できました。寂しい感じの場所でした。



諏訪原(すわばら)城跡

菊川の集落を後に、大井川の方向に東に向かいます。途中、国道沿いに諏訪原城跡が見えてきました。



天正元年(1573)武田勝頼が普請奉行馬場信春に命じて築いた平山城です。城内に諏訪大明神を祀ったことから「諏訪原城」と名付けられたということです。


堀と曲輪の跡が見事に残っています。人の訪れも稀なので、木々のざわめきと鳥の声に囲まれ、大声で発声練習してきました。声の響きが、とてもいいです!やはり旅先では、これをやらないといけません。


天正3年(1575)徳川家康によって攻め滅ぼされた後は牧野原城と改名され、武田方となった掛川の高天神(たかてんじん)城を攻略するために使われました。

天正9年(1581年)高天神城が陥落、翌年武田家が滅ぶとこの城は戦略上の意味を失います。その後、徳川家康が関東に移ると廃城となりました。

さらに国道を大井川方面に西に進んでいくと、左手に「金谷(かなや)坂の石畳」が見えてきました。


金谷宿と日坂宿の間にある「金谷峠」の旅人の便がよくなるようにと、幕府が命じて石を敷き詰めさせた道であると言われています。


かつては30mの区間が残るのみで他はコンクリート舗装がされていましたが、平成3年(1991)「平成の道普請(みちぶしん)」として「町民一人一石運動」が行われ、延長430mの石畳が復元されたということです。

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