菅原道真公の北野天満宮を歩く

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さて本日は七夕祭りにわく、北野天満宮を歩きます。

北野天満宮は学問の神として知られる菅原道真を祀った神社です。全国の天満宮の総本社です。全国から受験生の参拝が絶えません。境内と梅苑には、菅原道真公《菅公》の愛した梅が2000本植えられています。

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一の鳥居~楼門

バス停北野天満宮前下車。すぐ正面が北野天満宮です。



この時期(8月中旬)「京の七夕」というイベントが行われています。


参道の両脇に並ぶ、ライトアップの灯が、祭りのわくわく感を高めてくれます。


一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居と過ぎて、楼門が見えてきました。鳥居に七夕の飾り物の組み合わせが華やかです。


北野天満宮について

無実の罪で大宰府に流された菅原道真は延喜3年《903》太宰府で非業の死を遂げました。

その後、平安京では異常な出来事が相次ぎます。

飢饉。干ばつ。

そして、道真左遷に関わった人々が次々と謎の死を遂げます。

ついに道真最大のライバル・左大臣藤原時平(ときひら)も39歳の若さで亡くなってしまいました。

延長8年《930》には、清涼殿に雷が落ち、大納言はじめ6名が死ぬという事件が起こります《清涼殿落雷事件》。

醍醐天皇はこの事件にひどくお心を痛められ、ほどなく崩御されます。

「菅公の祟りだ…」

人々は菅原道真の怨霊に恐れおののきました。そんな中、天暦元年《947》京都に住む多治比文子《たじひの あやこ》という巫女に、菅原道真のお告げが下りました。

「我を北野の地に祀れ」

こうして、紙屋川の東、北野の地に菅原道真を祀る社を建てた。これが北野天満宮の始まりとされます。最初は怨霊への恐れ《御霊信仰》から始まったわけですが、天徳三年《959》藤原師輔《もろすけ》により社殿が整備されてからは、文学の神としての性質が加わりました。

天正15年《1587》豊臣秀吉が付近一帯の松原で「北野大茶会」を催したことが有名です。

ただし、この茶会は当初10日くらいの予定でしたが、たった一日で打ち切りとなりました。肥後で、佐々成政の検地に反抗して大規模な一揆が起こったためです。

現代の社殿は慶長12年《1607》、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として造営させたものです。全国の天満宮の総本社であり、福岡の太宰府天満宮、鎌倉の荏柄天神社と並び、日本三大天神とされます。

御手洗足付け灯明神事

この時期《8月中旬》、京都各地で「京の七夕」として神社仏閣や通りがライトアップされています。北野天満宮でも「京の七夕」の一貫として夜間のライトアップが行われ、「御手洗川《みたらしがわ》足付け灯明神事」が行われています。




こんなふうに蝋燭に火をともして、境内の御手洗川を裸足で渡り、渡りきった所で蝋燭をお捧げする、という神事です。昔から、こうやって禊《みそぎ》を行い、ケガレを祓ってきたのかなと。


今風のイベントにアレンジされてはいますが、中世の「禊」の雰囲気は十分に味わえました。

参道~三光門

境内を順路に従って進んでいきます。

どこを見ても七夕の飾り物がヒラヒラして、そこに強烈な日光が反射して、まぶしいです。松と、七夕飾りと、茅葺き屋根の組み合わせ。見事です!かすかに祝詞の声が流れくる。いい感じです。

束帯姿の神人さんたちが境内をさっそうと闊歩している。カッコいいですね!


茅葺き屋根の中門「三光門」が見えてきました。「三光」とは太陽と月と星をあらわしています。


社殿

三光門をくぐると、梅の香りがわあっと鼻を満たします。中央の参道の両脇に、一面梅が干してあるんですね。梅の香りが強烈に漂います。


社殿左手に梅。右手に松。正面が社殿です。しっかり手をあわせていきましょう。


渡辺綱の石灯籠

社殿右手には渡辺綱の石灯籠があります。


渡辺綱は源頼光に仕えた武士で、頼光四天王の一人に数えられます。ある時綱が一条戻橋の所で夜歩いていると、女がいたので話しかけた。家が遠いというのでじゃあ送りますと送っていた所、女が鬼の本性をあらわして

うわーーーー

と空に舞い上がった。鬼は綱をつれて愛宕山の方角に飛んでいきますが、そこで、綱が必死に刃をふるって鬼の腕をぶん切った。すとーーっとと落ちたのが北野天満宮のあたりであった。

「命が助かったのは北野天満宮のご加護」

こうして綱は石灯籠を奉納したということです。

こういう物語があることが、素晴らしいです!京都の神社・寺は、どこを見ても物語が詰まってる!たまらなくワクワクします!

文子天満宮

社殿の裏手にもたくさんの末社があるので見逃せないです。


文子《あやこ》天満宮。


天暦元年《947》、京都に住む多治比文子《たじひの あやこ》という巫女のもとに菅原道真公の霊が下りました。

「我を北野の地に祀れ」

そこで、紙屋川の東・北野の地に菅原道真公を祀ったのが北野天満宮の始まりとされます。その時の巫女が、多治比文子。その多治比文子を祀ったのが、ここ文子天満宮です。

菅公御歌

天満宮左手の小高い丘は、豊臣秀吉が作った御土居《おどい》の跡です。


登り口の所には、百人一首にも採られた、道真公の歌碑があります。


このたびは幣もとりあへず手向山
紅葉の錦神のまにまに

このたびの旅は急なことでしたので、神前にお供えする幣も満足にご用意できませんでしたが、どうか手向山の道祖神よ。この素晴らしい紅葉の錦を、お心のままにお受けください。

宇多上皇が吉野の宮滝に御幸された時に付き添った菅原道真が詠んだ歌です。宇多上皇の信任を一身に受け、道真公の権勢盛んなる時期です。さっそうとした、自信に満ちた詠みっぷりです。

歌にあわせて、歌碑の周囲には紅葉葉が繁っています。紅葉の季節に、また来なくてはと思いました。

道真公の権勢、絶好調の次期に詠まれた歌ですが、ほどなく、右大臣藤原時平から疑いをかけられ、無実の罪を受けて大宰府に流されることとなります。それをふまえて詠むと、いよいよ味わい深い歌です。

御土居

御土居《おどい》は、豊臣秀吉が天正19年《1591》に築いた京都を取り囲む土塁です。また土塁の外側の堀をあわせて「御土居」という場合もあります。

その目的は、外敵の侵入を防ぐため、鴨川の氾濫に備えて、洛中・洛外の範囲をはっきりさせるため等、諸説ありますが、ハッキリしたことはわかりません。とにかく、現在も京都各地に御土居の跡は残り、その一つがこの、北野天満宮脇の御土居跡です。

おどいの大ケヤキ。


苔むして見事な感じです。はるか太宰府に、東風を吹き送り続けているんでしょうか。

眼下には鬱蒼と木々の緑が茂り、紙屋川が流れています。


紙屋川は御土居の西の堺。そして鴨川が東の堺でした。

北野天満宮名物「長五郎餅」

最後に。北野天満宮名物「長五郎餅」を食べていきましょう。


天正15年《1587》11月1日、太閤秀吉はこの地で大規模な神前献茶会を催しました。その席で出された茶菓を一口食して秀吉は、

「うまい!すこぶる典雅な味じゃ。どこの何という菓子か」

「ははっ。この地で菓子屋を営む、河内屋長五郎という者の作った菓子です」

「長五郎。大いに気に入った。今後、長五郎餅と名付けるがよい」

こうして長五郎餅は大人気となり、代々の皇室御用達ともなり、とりわけ小松宮家や山階宮家からのご愛顧を受け、各大名も競って長五郎餅を買い求めた、

以来、創業400年。連綿と今に至るというわけです。


きめ細かい大納言を、なめらかな羽二重餅が包みこみ、太閤秀吉の昔に思いをはせながら食べると…味わいもいっそう増すような。

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