甲府に武田信玄の史跡を訪ねる(三)

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甲斐善光寺から東光寺へ

甲斐善光寺から西にまっすぐのびる道を
所々にブドウ園を見ながら400メートルほど歩くと、

東光寺への道
東光寺への道

東光寺への道
東光寺への道

右手に「法蓋山 東光禅寺」の立派な入口があらわれます。

東光寺
東光寺

臨済宗の古刹で、武田信玄が定めた「甲府五山」の一つです。

境内には「六地蔵」がそこかしこにあります。

東光寺 六地蔵
東光寺 六地蔵

東光寺 六地蔵
東光寺 六地蔵

東光寺 六地蔵
東光寺 六地蔵

一つ一つ、とても個性的な顔のつくりをしていて、
あっ、こいつはあまりマジメにやってないなとか
いや失礼…けっこうどれも、漫画的というか、
親しめる顔つきをなさってますね。

東光寺
東光寺

裏山は墓地があり上り斜面に段々畑状に墓がならんでいます。
そして墓の裏はずあっと壁が切り立っていて、壁の向こうは国道です。

墓地の入り口がどこにあるかわからず、ウロウロしましたが、
墓地に入ってからは諏訪頼重、武田義信の墓は案内板があるので
すぐわかりました。

斜めに向かい合って建っています。

諏訪頼重の墓
諏訪頼重の墓

武田義信の墓
武田義信の墓

諏訪頼重とは

諏訪頼重は信濃諏訪地方の豪族諏訪頼隆の嫡男として生まれます。
父頼隆の死去に伴い家督を継ぐと、武田信虎の娘を妻として迎え、
祖父以来の甲斐との同盟関係を強くしました。

諏訪頼重
諏訪頼重

しかし天文11年(1542年)武田信玄が父信虎を追放し
甲斐の国主となると、甲斐と諏訪氏の関係は破綻。

信玄が信濃に侵攻し諏訪の地を攻撃すると
諏訪頼重は和睦を受けて
高遠城を受渡すも信玄は諏訪頼重を許さず、
甲斐に連行。ここ東光寺に幽閉し、自害させました。享年27。

諏訪頼重の娘(諏訪御料人)は武田信玄の側室となり、
勝頼を生むこととなります。

武田義信とは

一方、武田義信は武田信玄の嫡男で母は三条夫人です。
将軍足利義輝より一字もらい受け(偏諱)、義信と名乗りました。

15歳で甲斐と同盟関係にあった今川義元の娘を
妻として迎えます。

武田義信
武田義信

しかし、永禄3年(1560年)今川義元は桶狭間の戦いで
織田信長と戦い、戦死。

ここから義信の運命が狂い始めます。

今川義元の跡を継いだ今川氏真が愚か者と見ると
武田信玄は駿河への侵攻を主張。

義信にとっては駿河今川家は妻の実家であり
氏真は義理の弟です。当然、反対します。

父上、正気ですか。
今川殿は身内です。身内を攻撃するなど、
とんでもないことです。何を甘いことをぬかすか。
身内とて油断ならぬは戦国の世のならい。
しかし、父上今川殿はわが妻の弟。
だから何じゃ。今川攻めはとうに決まったこと。
くつがえせるものではないと、父と子の意見はどこまでも
並行線をたどります。

しかも信玄は、今川家と敵対関係にあった
織田信長の養女を、息子勝頼の妻として迎えます。
いよいよ今川と対立する構えでした。

「これではいけない。誰かが父上を止めなければ」
「御屋形さま、やりましょう」

ついに義信は、武田家重臣・飯富虎昌とともにクーデーターを画策しますが、
飯富虎昌の弟(山県昌景)がいち早くこれを信玄に告げ、謀反が発覚。

「けしからん。
飯富虎昌を斬れ。
そして太郎を捕えよ」

すぐさま飯富虎昌は処刑されます。

義信は捕えられ、東光寺に幽閉されます。そして
幽閉生活二年目の永禄10年(1567年)義信は自害しました。
病死という説もあります。享年30。

二人の墓

ここ東光寺こそ、諏訪頼重と武田義信の
二人が自害した場所です。二人の墓は
斜めあって立っています。

身内さえも自害に追い込んだ、武田信玄のすさまじさ。
そして若くして自害に追い込まれた二人の怨念がただよっているようで、
そう考えると広々とした境内の景色も、あちこちに見える
六地蔵も、なんとなく凄みを帯びて感じられます。

二人の墓が立っている所からは
甲府の街並みが一望でき、とても見晴がよいです。
その点には救いを感じました。

甲府を見渡す
甲府を見渡す

のびのびと、見渡していらっしゃるのではないかと。

本日で甲府の旅を終わります。