瓶原(みかのはら)・聖武天皇遷都の恭仁宮跡を歩く

■【古典・歴史】メールマガジン

本日は、京都の最南端・奈良との境に位置する「瓶原(みかのはら)」を歩きます。瓶原には聖武天皇が740年に遷都した「恭仁京(くにきょう)」の中心地「恭仁宮(くにのみや)」の跡があります。三方を山に囲まれ、南に木津川がゆったりと流れ、豊かな田園風景が広がる、美しい所です。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

https://roudokus.com/mp3/Mikanohara.mp3

木津川

みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ 中納言兼輔

と、百人一首の歌にも詠まれています。

岡田鴨神社

JR関西本線加茂(かも)駅下車。北口出て国道沿いに歩いていきます。

JR関西本線加茂(かも)駅

恭仁大橋南詰の道を右に。

恭仁大橋南詰

岡田の集落に入っていくと、岡田鴨(おかだかも)神社があります。駅からここまで徒歩15分。

岡田鴨神社

岡田鴨(おかだかも)神社。賀茂建角身命(カモタケツヌミノミコト)を祀ります。賀茂建角身命は神武天皇が熊野から大和へ向かう際、ヤタガラスとなって道案内をした神様です。

岡田鴨神社

『山城国風土記』(逸文)によれば賀茂建角身命(カモタケツヌミノミコト)は神武天皇が大和を平定した後は、大和の葛城(かづらき)山に留まっていました。しかしやがて山城国岡田に移り、そこで加茂氏の氏神として祀られたのがこの岡田鴨神社とされます。

岡田鴨神社

その後、賀茂建角身命(カモタケツヌミノミコト)はさらに北に向かい、洛北賀茂の地に移ってそこに鎮座しました。これが現在の下鴨神社です。だから下鴨神社もここ岡田鴨神社と同じく賀茂建角身命を祭神としています。

ようは賀茂建角身命(カモタケツヌミノミコト)が熊野→大和→山背と南から北へ移動していく途中で、この場所に一度とどまったと。

それで、加茂氏の氏神としてこの地でまつられることになったという話です。

神社はもともと別の位置にあったが、木津川の氾濫によって何度も被害を受けたため、場所を変えています。現在の場所は元明天皇の岡本離宮跡地で、離宮廃止後、天満宮が建てられ、その天満宮の境内に現在の、この、岡田鴨神社が遷されたとされています。

だから今も境内には、向かって右に岡田鴨神社、左に天満宮が並び祀られています。

岡田鴨神社

岡田鴨神社

岡田鴨神社から恭仁大橋南詰まで引き返し、木津川を渡ります。木津川。古くは泉川といいました。

恭仁大橋

木津川

木津川

みかの原 わきて流るるいづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ 中納言兼輔

みかの原を分けて湧き出てくるように流れる泉川。その「いつみ」という言葉のように、貴女をいつ見たのだろうか。まだ見てすらいないのにこんなにも恋焦がれるなんて。百人一首の27番。「泉川」は現在の木津川です。

この歌にちなんでか、「いづみちゃん」というマスコットキャラクターが看板に描かれていました。

例幣使料碑

木津川を渡り、豊かな田園風景の中を案内板に沿って歩いていきます。

ざばざば流れる水路のほとりでシオカラトンボが休んでました。国道下のトンネルを抜けて、しばらく行くと、道端に例幣使料碑(れいへいしりょうひ)が立っています。

例幣使料碑

江戸時代。朝廷から伊勢神宮・日光東照宮に毎年勅使が派遣されました。この勅使のことを例幣使(れいへいし)といいました。例幣使の派遣には膨大な費用がかかりました。そこで、例幣使の費用をまかなうために、ここ瓶原(みかのはら)が特別の御料地とされました。

つまり、瓶原(みかのはら)で収穫する米の収穫をもって、例幣使派遣の費用に充てたというわけです。

この石碑・例幣使料碑は瓶原御料地の境界を示すもので、瓶原のあちこちに立っています。

例幣使料碑の隣に広場があります。

この広場では定期的に朝市が開かれ、いろいろなイベントをやっています。ちょうど盆踊りの前日で、準備をしてるところでした。

広場の一角にあるのが恭仁宮跡(山城国分寺跡)です。地面が一段盛り上がっていて、七重塔の礎石が15個残っています。

恭仁宮跡(山城国分寺跡)

恭仁宮跡(山城国分寺跡)

天平12年(740)12月、聖武天皇は平城京から木津川流域の恭仁京(くにきょう)に遷都しました。

今造(つく)る久邇(くに)の都は山川の
清(さや)けき見ればうべ知らすらし

大伴家持
万葉集 巻6・1037

今造っている恭仁の都は、山川が清らかなのを見れば、なるほど都とするにふさわしい場所だ。

遷都の理由は不明ですが、当時天然痘が流行していたこと、権勢盛んであった藤原四兄弟が死んで、かわって橘諸兄が政権を握るも、橘諸兄のやり方に反発して九州で藤原広嗣が反乱を起こすなど、社会不安がうずまいていました。

聖武天皇はそういう社会不安をかんがみ、遷都によって仕切り直そうとしたのかもしれません。単にノイローゼ気味だったという説もありますが…

恭仁京の範囲は不明ですが、木津川市の加茂地区に左京が、山城地区に右京があったと考えられています。

恭仁京
恭仁京

都の中心地である恭仁宮(くにのみや・くにきゅう)は、左京の北・瓶原(みかのはら)に築かれました。瓶原は三方を山に囲まれ、南に木津川の流れる盆地です。

その瓶原に築かれた恭仁宮は東西約560m、南北約750mの長方形のエリアでした。その中に北から東西二つの内裏、大極殿、朝堂院、朝集院が並びました。

恭仁宮
恭仁宮

内裏は天皇のお住まい、大極殿は天皇が政治を行う場所。朝堂院は役人たちが儀式や仕事を行う場所。朝集院は朝堂院で儀式を行う前の控えの間と考えられています。

恭仁宮も紫香楽宮も内裏とおぼしき建物の遺構が、東西二つみつかっています。なぜ内裏が二つあるのかは謎です。

一方が聖武天皇の御座所、一方が元正太上天皇の御座所という説が有力ですが、まだハッキリしているわけではありません。

周囲は「大垣」という5mの築地塀で囲まれていました。大垣に設けられた門はいまのところ東南部の東面南門しか見つかっていません。

昭和48年からの発掘調査で恭仁宮の姿がしだいにわかってきています。

恭仁宮にいた頃の聖武天皇は精神的に不安定だったようで、しばしば近江の紫香楽宮(しがらきのみや)に行幸し、天平16年(744)には難波京に遷都します。

恭仁京・信楽宮・難波京・平城京
恭仁京・信楽宮・難波京・平城京

結局、恭仁京に都が置かれたのはわずか4年ほどでしたが、その間、墾田永年私財法が制定され、国分寺・国分尼寺建立の詔が出されるなど、重要な決定がなされています。

また、紫香楽宮にいた時に聖武天皇は大仏建立の詔を出しています。

天平18年(746)恭仁宮跡は山背国国分寺として作り替えられました。恭仁宮の大極殿は国分寺の金堂として再利用され、あらたに七重の塔も建てられました。しかし鎌倉時代以降はしだいに衰えて行ったようです。

瓶原大井出用水

恭仁宮跡を後に、その北にある三上山(みかみやま)に向かいます。山の中腹に海住山寺(かいじゅうせんじ)があるので、そこを目的地とします。

途中、美しい田園風景が広がります。トンボがさかんに飛び交います。

あっ、さきほどの盆踊り会場から、歌が響いてきました。

よいとこ、よいとこ、瓶原(みかのはら)…

三上山の前面を囲むように水路が走っています。瓶原大井出用水(みかのはら おおいでようすい)です。

瓶原大井出用水

鎌倉時代中期、海住山寺の住職・慈心上人が整えた農業用水路です。三上山の東を流れる和束(わつか)川の水をひっぱってきたものです。今もあたり一帯の水田をうるおしています。水路沿いに遊歩道が整えられ案内板が立ち、そぞろ歩きしながら歴史を知ることができます。

うねうね曲がるいろは坂を上って、

ようやくたどりつきました。海住山寺です。

海住山寺

海住山寺は瓶原(みかのはら)を見下ろす三上山の中腹にあります。天平7年(735)聖武天皇の勅願で東大寺の良弁僧正(ろうべんそうじょう)により建立された観音寺がその前身です。

海住山寺 本堂

その観音寺は火事で焼けてしまいましたが、鎌倉時代の承元2年(1208)笠置寺(かさぎでら)の解脱上人貞慶(じょうけい)が再興して海住山寺としました。近世まで興福寺の末寺で法相宗でしたが、現在は真言宗です。

本堂にはご本尊の十一面観音像はじめ平安時代や鎌倉時代の仏像が並びます。

本堂向かって右手に文殊堂。

海住山寺 文殊堂

屋根は寄棟造(よせむねづくり)・銅板葺き。鎌倉時代後期の建立。白壁と板扉・連子窓(れんじまど)の色彩が、いいコントラストを生み出していますね。

本堂左手に五重塔。

海住山寺 五重塔

鎌倉時代建保4年(1214)の建立。初層(一階)部分に裳階(もこし)が張り出しているのと、心柱が第二層までで止まっていることに特徴があります。

本堂裏手の石段をのぼった先は、青もみじを通して美しい光に包まれていました。

ここから瓶原の平野と、その向こうの山々が一望できます。

海から遠い山の上にあるのに「海」住山寺という理由がこれでわかるでしょう。瓶原の平野を海に見立てて、その向こうの山々を補陀洛山に見立てているのです。

みかの原わきて流るるいづみ川 いつ見きとてか恋しかるらむ…中納言兼輔の歌をもう一度、二度つぶやいて、感動をかみしめましょう。

本日は、京都の最南端・奈良との境に位置する「瓶原(みかのはら)」を歩きました。聖武天皇が740年に遷都した「恭仁京(くにきょう)」の中心地「恭仁宮(くにのみや)」の跡。瓶原を一望できる海住山寺。ゆったりした木津川の流れ。豊かな田園風景。心癒されます。

こちらもどうぞ

次の旅「笠置町を歩く

■【古典・歴史】メールマガジン