日蓮宗総本山・身延山久遠寺を訪ねる

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本日は身延山久遠寺を訪れます。身延山久遠寺は日蓮宗の総本山。祖師日蓮が晩年の9年間を過ごし、弟子たちの育成と法華経の読誦を行った地に建っています。

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静岡から国道52号線を北上すること約1時間半。うねうねと曲がりくねった山道を進んでいくと、パァーーと見えてきました。身延山の総門です。


門内商店街

総門を通り過ぎると、身延川にかかる太平橋を渡ると、身延山門内商店街です。


左右にお土産屋さんやお食事処が並び、楽し気な雰囲気です。正面にはワアッと身延山が迫り、身延山の前に、久遠寺の三門の屋根がそびえて見えます。


身延山久遠寺・三門です。総ケヤキ造りで日本三大山門の一つに数えられます。金縁の扁額に「身延山」の力強い文字が映えます。


身延山久遠寺は日蓮宗総本山。祖師日蓮が文永11年(1274)以降、晩年の9年間を過ごし、弟子たちの育成と法華経の読誦を行った地に建っています。

鎌倉時代。

疫病や干ばつ。そしてモンゴル襲来の危機が高まる中、日蓮は鎌倉幕府に訴えます。

「こういう悪いことが起こるのは、人々が法華経を信じないからだ。
今こそ法華経を信じよ。そして日蓮を用いよ」

しかし三度訴えても幕府から用いられませんでした。

「三度諫めて聞かれずは、即ち去る」

古い言葉に従って、日蓮は鎌倉を後にし、信徒の南部実長の招きにより身延山に入りました。それが文永11年(1274)。そしてこの年、日蓮がかねて予言していた通り、モンゴルの最初の襲来「文永の役」が起こります。

日蓮は身延の地でひたすら弟子の教化につとめ、法華経の読誦を行い、また執筆活動に励みました。その間、日蓮聖人はここ身延山に釈迦が法華経の教えを説いた、霊山浄土(=霊鷲山)を感じ取られ、この場所こそ自分が永久に住むべき場所だと、久遠寺を創建されました。

しかし。

生活は非常に貧しく、衣類・食料にも事欠きました。また冬の寒さは強烈でした。10月にはもう雪が降り、4月まで若草が生えないというありさまです。その上、56歳の暮れから冷え込みによる下痢を起こし、それが慢性化して、やせ衰えていきました。

さすがの日蓮も、年老い、衰えてきました。つい、涙もろくなる場面もありました。弟子があま海苔を送ってきた時は、故郷安房の小湊を思い出し、ああ…なつかしい故郷、父上、母上と、涙を流す場面もありました。

弘安5年(1282)、病が悪化し、常陸(茨城県)に療養に行こうということになりました。

弟子たちに守られ、9年ふりに身延山を下る日蓮。しかし、旅の途中、武蔵の池上(東京都大田区)で日蓮は病に倒れました。

いづくにて死に候とも墓をば身延山に建てさせ給へ

日蓮はそう遺言しました。

その遺言の通り、遺骨は身延山に納められ、日蓮宗総本山・久遠寺として今日に至っています。

かなり寒く、ダウンもう一枚着こんでくりゃよかった。風邪引くんじゃないかと心配になってきました。しかし…すぐにそんな心配は吹き飛ぶことになります。


菩提悌

短い石の太鼓橋を渡り…


石畳の道を進んでいきます。ホーケキョ、ケキョ、ケキョ。周囲の山々にこだましています。

正面には287段の石段・菩提悌(ぼだいてい)がそびえています。



南無妙法蓮華経になぞらえて、7つの区画に分かれています。菩提悌ふもとの右脇には、日蓮を身延山に招いた南部実長の像があります。

しかし…これを登るんですか…!!

一段一段がけっこう高くて、足に来ます。

「ちょっと~ムリでしょうこれ~」と、周りの人々も声を上げています。さっきは寒い風邪引きそうと思いましたが、そんな心配ぜんぜんいらなかったです。むしろ暑い!汗が吹き出します。

後で聞いたら、これは修行用の石段で、参拝者がふつうに登るものではないということです。なるほど。石段の一段一段の高さも、修行用ときけば納得できます。左右の男坂・女坂を行けばずっとラクチンということでした。

一区画ごとに踊り場があるので、南・無・妙・法・蓮・華・経。唱えながら進みます。それで煩悩が取り払われりる。すーーといいものが入ってくる。ありがたいことです。

上から降りてきた人が、もうちょっとですからね~がんばってくださ~い。ああどうも。あと三区画ですか。そんなやり取りが、いい感じです。

煩悩が取り払われるってのは、よ~くわかりました。キツすぎて。いらんこと考えてる余裕なんか、無くなります。早く頂上にたどりついて、ドカーーとベンチに座りたいという一心で、いやそれすらも煩悩というのか、などと心の中で対話しつつ登っていくと、

着きました。正面に本堂が、


左に五重塔が迎えてくれます。


五重塔は元和5年(1619)に造られたものが平成21年に再建されたものです。芯となる柱には身延山から切り出した樹齢500年の霊木が使われています。

本堂

正面の建物が本堂です。


明治8年(1875)の火事で燃えて、昭和60年5月、再建されたものです。総坪数970坪。間口32メートル(17間半)。奥行き51メートル(28間)。広いです!天井には加山又造画伯による墨龍がクワッと勇ましく描かれています。


本堂右隣には華やかな朱塗りの建物があります。


棲神閣祖師堂(せいしんかく・そしどう)です。日蓮聖人の御尊像を安置してある建物です。11代将軍徳川家斉によって天保7年(1836)建立されました。ポンポンポンポン…何ていうんですか、あの太鼓を叩いて、御祈願を上げていました。山の空気にそれが溶け込んで、いい雰囲気でした。

ロープウェー

では奥の院めざして進んでいきます。歩く気満々でいたんですが……歩くと2時間半かかるということです。ああ…ロープウェーで行きます。


ロープウェー乗り場に至る渡し廊下の右手には、ワァァーーと南天が群生してます。


身延山は南天の名産地としても知られています。しかし実は一つもついてません。鳥が食べちゃったんでしょうか。

甲州盆唄

身延の者は声がよい
よいはずだ ソレ
南天山の水飲む ドッコイ
南天山の水飲む

来ました。ロープウェー乗り場です。髪の毛でいえば逆モヒカンとでもいいましょうか…山の木々が一区画上から下までずばっと削り取られていて、そこがロープウェーの進路になってます。



往復1400円。乗り込みます。しばらくガイドさんの説明とともに身延の山々の景色を楽しみます。


眼下に黄色い花がわぁっと咲いてます。ジンチョウゲ科の三又という花です。枝の先が三又に分かれているので三又です。




ロープウェー降りてしばらく歩くと、見えてきました。



奥の院思親閣の入り口です。

キタ!

左手に、日蓮聖人像です!


胸の前で合掌して、激しい風に吹かれているような。そして一心にお題目を唱えておられる感じです。眉をぎりりとしかめ、厳しい、それでいて懐の深いお人柄が伝わってきます。「立正安国」の文字が力強いです。

日蓮聖人御手植杉

日蓮聖人像右手の石段を登っていきます。


石段の脇に…何ですかこれは?

日蓮聖人御手植杉。


樹齢700年の杉の巨木です。日蓮聖人が登山のさなか、ご両親と師匠たちの追善供養を祈り、また日本国の安全を祈って手植えされたと伝えられます。

しかし…何ですか、杉の真ん中あたりにドカーーと隕石がめりこんだような形。スゴイです!ぜんぶで四本の御手植杉があり、それぞれ風格があります。


石段上りきるとそこが、奥の院思親閣の仁王門です。



日蓮上人が身延にあって、遠く房州小湊のご両親を思われ、また恩師たちに思いを馳せられたということから、親を思う…思親閣です。弘安5年(1282)の日蓮入滅の翌年、弟子の日朗が山頂に一宇の堂宇を建てたのが始まりとされます。

大聖人毎日この峯にのぼり天下の祈祷、仏法流布を祈り給うなりとまたこの峯より房州小湊の浦みえはべるゆえ両親のお墓をおがみ給ふとなり。まことこの峯より田子の入海、三保の松原、しづはた山、清見ヶ関、伊豆、駿河名所のこりなく見えはべり

『身延鑑(みのぶかがみ)』

大きく金文字で「思親閣」…親を思う閣。振り返ると、周囲の山々。ああこの嶺に日蓮聖人が、日々登り、千葉のご両親のこと、恩師の方々のことを想いしのばれたかと思うと、胸に迫るものがあります。

おお…雪がいっぱい残ってますね。ここが高い身延の山中であることを実感させてくれます。

境内正面の建物が、祖師堂です。



しっかりと手を合わせていきましょう。両親や、いろいろな人から受けた恩を思い出すのに、この場所はとてもいいです。

山鳥のほろと鳴くを聞きても、父か母かと疑ひ…と『方丈記』にありますが、日蓮聖人もきっとそういう御気持だったことでしよう。

仁王門の脇には知恩報恩塔があります。知恩報恩…恩を知り、恩に報いる。父母への手紙および写経を永代にわたり納めた塔です。こういうのはいいですね。しみじみ私も、実家の両親のことを思い出しています。両親のみならず、自分に恩を与えてくれた人々を思い出し感謝するきっかけとして、身延山はよいなぁと思いました。


孝と申すは高なり。
天高けれども孝よりは高からず。
また孝とは厚なり。
地厚けれども孝よりは厚からず。

『開目抄』


見晴し台

見晴し台から対面の山々とふもとの景色を見下ろします。ぼんやりと薄青く霞がかかっています。


一月あたりの空気の澄んだ時ならパァーーとよく見張らせるんでしょう。しかしこの、エフェクトがかかった感じも。これはこれでよいかと。

眼下には富士川が雄大にうねって流れています。

鳥の羽音におどろきし
平家の話は昔にて
今は汽車ゆく富士川を
下るは身延の歸り舟

鉄道唱歌

身延名物・身延団子をほおばってから…



ふたたびロープウェーで嶺の下まで下り、今度は日蓮聖人の御廟所を訪ねます。入口付近にはシャクナゲが青々と葉を茂らせ、白梅が咲き誇っています。


シダレザクラが並んでますが、これが咲く頃にはさぞ見事でしょう。我々が訪れたのはサクラにはちょっと早い時期でした。



苔むした霊山(りょうせん)橋を渡ると、

ざばざばざばざば…

ちょろちょろちょろちょろ…


涼し気な水音が鳴り響く中、階段登っていくと、



拝殿が見えてきました。


破風造り檜皮葺きの拝殿は昭和17年に建てられました。扁額の「立正」の力強い金文字は、昭和天皇から賜りました。そして拝殿の向こうに見えるのが、日蓮聖人の御遺骨を納めた御廟塔です。

御廟塔の前までは行けず、拝殿を通して御廟塔を拝む形になります。神社の拝殿と本殿の関係ですね。しっかり手を合わせていきましょう。


日蓮聖人御草庵跡

御廟所の近くにあるのが日蓮聖人御草庵跡です。石の玉垣で囲まれています。


文永11年(1274)日蓮は南部実長の招きで身延山を訪れ、実長の用意したこの庵に住まいました。

昼はひねもす弟子たちの教化、夜は深夜まで法華経の読誦や執筆活動に励むという生活でした。

弘安4年(1281)、十間四面の廂をつけた御堂に作り替えます。これが身延山久遠寺の発祥です。

立ち渡る身のうき雲もはれぬべし
たえぬ御法の鷲の山風

私の体に立ち込めてまとわりついていた悲しい気持や煩悩も晴れてしまったようだ。
絶え間なく仏法が行われている、お釈迦さまが法華経を説法された霊鷲山のような、ここ身延山に吹く山風に吹かれていると。

この御歌は日蓮宗の宗歌になっています。

本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

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