武蔵嵐山を歩く

こんにちは。左大臣光永です。まだまだ暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか?私は明日、東京多摩で『鎌倉と北条氏の興亡』の講演をやりますので、その準備をしています。東京近郊の方はぜひご来場ください。
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さて本日のメルマガは、「武蔵嵐山(むさしらんざん)を歩く」です。

▼音声が再生されます▼

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武蔵嵐山は畠山重忠の居城・菅屋館(すがややかた)跡。木曽義仲の父・源義賢の大蔵屋敷跡、木曽義仲産湯の清水のある鎌形八幡神社、木曽義仲の愛妾・山吹を祭る班渓寺など、木曽義仲関係の見どころの多い所です。


菅屋館跡

東武東上線武蔵嵐山駅で降ります。徒歩20分。



こんもりした森が見えてきました。蝶の里公園。


その一角に菅屋館(すがややかた)跡が、あります。


菅屋館は、鎌倉幕府の有力御家人・畠山重忠が居住していた館です。元久2年(1205)、畠山重忠は一族134騎を率いてここ菅屋館を出発。鎌倉街道を南に、鎌倉を目指しますが、途中、二俣川(横浜あたり)で北条義時軍と合戦となり、一族ともども命を落としました。北条時政の挑発に、やむなく乗っての挙兵でした。


また室町時代の漢詩文集『梅花無尽蔵』には、長亨2年(1488)扇谷上杉氏と山内上杉氏がここ須賀谷原(すがやがはら)で合戦し、戦死者700名が出たと記されています。


本郭・二ノ郭・三ノ郭・西の郭・南の郭があり、それらを取り巻いて空堀や土塁が作られています。空堀はうっそうと草がしげっていますが、ちゃんと堀の形がわかり往時の城の姿を彷彿とさせます。ゆっくり回ると一時間以上はかかる広さです。


畠山重忠像

中央に広々した公園があり、その脇の高台に、畠山重忠像が立ちます。



叢の中にたたずんで、じーとこっちを見据えている感じなので、ビクッと驚きました。なんか生々しくて、今にも動き出しそうで、遠目には、不気味です。しかしよく顔を見ると、いかにも素朴な田舎のオッサン然として親しみが持てるので、安心しました。


畠山重忠は長寛2年(1164)、畠山庄司重能を父に、相模の豪族三浦義明の娘を母に、武蔵国畠山(現大里郡川本町畠山)に生まれました。

治承4年(1180)源頼朝の旗揚げに際しては父重能が平家方についていたため、頼朝を追討する側でした。三浦義明の立てこもる三浦半島衣笠城(横須賀の近く)を攻撃し、母方の祖父である三浦義明を自害に追い込んでいます。しかしその後、頼朝に降参し罪許され、宇治川の合戦や一の谷の合戦で手柄を立てました。

一の谷の合戦で畠山重忠は馬を傷つけるのは忍びないといって、自分の馬「三日月」を背中にしょって崖を駆け下りた話が『源平盛衰記』に記されことに有名です。川本町畠山の畠山重忠公史跡公園には、この時の、馬を背負った畠山重忠の像が立っています。

武力にもすぐれ人柄もよく、頼朝からの信頼篤かった畠山重忠ですが、北条政権下ではしだいに北条氏に疎まれていきました。元久2年(1205)北条時政の策謀でおびき出され、一族134騎でここ菅屋館を出発し鎌倉街道を南下。途中、武蔵国二股川(現横浜市)にて北条義時軍と合戦になり、鬼神のごとき闘いをみせるも、ついに討ち取られました。その知勇兼備なことは、今日まで慕われています。

大蔵館跡

菅谷館跡を後に、源義賢の居城・大蔵館跡(おおくらやかたあと)を目指します。途中、都幾川(ときがわ)にかかる橋を渡ります。水が透き通って、とてもきれいです。



高い位置からも、魚がいっぱい泳いでいるのが見えます。入道雲が水面に映りこんで、目にまぶしかったです。さらに、田園風景の中を歩くこと約40分。


見えてきました。大蔵館跡の碑。そして大蔵神社です。



大蔵館は、源氏の棟梁六条判官為義の次男・帯刀先生(たてはきせんじょう)義賢(よしかた)の居城です。都幾川と鎌倉街道が交差する交通の要衝にありました。館跡の四隅にそれぞれ土塁と空堀の跡が残っており、そこから推定される広さは、東西170-200メートル、南北220メートルということです。

源義賢はここ大蔵館を拠点に勢力を伸ばしましたが、兄である源義朝と勢力争いが絶えませんでした。久寿二年(1155)8月16日、源義朝の嫡男・義平が、叔父である源義賢を襲撃します。

これを「大蔵合戦」と言います。不意をつかれた義賢は討ち取られました。義平は叔父を殺した、叔父殺しということで、以後「悪源太」「鎌倉の悪源太」とよばれることとなります。

さて討たれた義賢には2歳になる次男駒王丸がいましたが、その母小枝御前ともども義平の部下、畠山重能によって発見されてしまいます。

「私はどうなっても構いません!この子だけは!」

ひしと抱き合う母と子を見て、畠山重能、ふびんになってきました。

(いくら戦といっても、こんな幼子と母を殺すなんてあんまりだ)

考えたすえ、畠山重能は当時義賢につかえていた武士斉藤実盛に駒王丸とその母を託すことにしました。

「さあ若殿、もうしばらくの辛抱ですぞ。
奥方さま、お気を確かに」

斎藤別当実盛は木曽の山中に逃げ延びると、幼い駒王丸を木曽の豪族・中原兼遠の手に託します。駒王丸は以後、木曽の山中で成長することとなります。後の木曽義仲です。

大蔵神社

大蔵神社は畑の脇に建つ緑豊かな神社です。



この日はとても暑かったのですが、神社の境内は心地よい風が吹き抜けヒンヤリとしていました。境内にブランコ鉄棒すべり台の遊具があるのも愛嬌でした。

大蔵屋敷はここ大蔵神社の境内を南東の隅として、4-5倍ほどの大きさだったようです。うーーんなるほど、そこへ悪源太が襲ってきたわけですか…大蔵合戦のことは何度かメルマガや講演で語ったことがありますが、現地を訪れたのは初めてです。イメージがより具体的になった感じです。

源義賢の墓

大蔵舘跡の近くには、源義賢の墓があります。



畑中の小路の先に鳥居が立っています。夏草や兵どもが夢の跡の感慨が、こみ上げますね。鳥居の先の祠に、源義賢の墓と伝えられる五輪塔が安置されています。



五輪塔は下から地輪(ちりん)・水輪(すいりん)・火輪(かりん)・風輪(ふうりん)・空輪(くうりん)で構成されますが、この塔は残っているのは水輪と火輪だけで、地輪と空輪は後から修復されたもので風輪は失われてしまったということです。

源義賢(?-1155)。

源氏の棟梁六条判官為義の次男。源義朝の弟。木曽義仲の父として知られます。近衛天皇が東宮時代に義賢は身辺警護にあたる帯刀(たてはき)の長官(先生)に任じられました。その後、帯刀を解任されますが、解任後も一種の称号のように「帯刀先生」と名乗り続けていました。

また、上野国多胡館(群馬県多野郡吉井町)を所領していたこともあるので、「多胡先生(たこせんじょう)」とも呼ばれました。

関東に下った義賢は義兄義朝との対立を深めていきます。久寿2年(1155)、義朝の息子義平が、叔父にあたる義賢の大蔵館を襲い、義賢を討ち取りました。この時、二歳になる義賢の次男・駒王丸は畠山重能の、ついで斎藤別当実盛の手引きで木曽山中に逃れ、木曽の豪族中原兼遠のもとで養育されます。後の旭将軍・木曽義仲です。

鎌形八幡神社

さて、源義賢の墓を後に、元来た道を引き返します。都幾川沿いに歩くこと1時間あまり。すでに飲み物は尽き、喉がカラカラです。何キロ歩いても、自動販売機が一つもありません!駅前でペットボトル二三本買っておくべきでした…


ふたたび都幾川にかかる橋を渡り、


ちょっと進むと、「木曽義仲公」のノボリが揺れています。


鎌形八幡神社です。


苔むした鳥居をくぐり、もう一つある門(こういう門、何ていうんでしょうか?名称がわかりませんが)をくぐり、


古色蒼然たる境内です。


この地は源義賢の下屋敷があったとされます。

境内右手にあるのが、「木曽義仲 産湯の清水」です。一段高くなった土台に石碑があり、その下の穴から竹がのばして、手水に水を引くようになっています。



石段を上ると社殿です。


普通神社の社屋は拝殿があって、その奥に本殿があるんですが、ここは拝殿を兼ねた覆屋(おおいや)の中に本殿がすっぽり包まれています。なるほど。こういう形もあるんですね。

班渓寺

鎌形八幡神社の西隣には、班渓寺があります。


入口に「木曽義仲公 生誕の地」の大きな石碑がそびえます。


曹洞宗の寺院で威徳山班渓寺といいます。木曽義仲の愛妾山吹姫に深く関係した寺院です。


梵鐘にこう書かれているということです。

木曽義仲長男 清水冠者源義高為 阿母(あぼ)威徳院(いとくいん)妙虎(みょうぼ)大師 創建する所なり

山吹姫は義仲の愛妾で、義仲とともに幾多の戦場を戦いました。『平家物語』には「木曽は信濃より巴・山吹とて二人の便女を連れられたり」とあります。

そして義仲と山吹の間に生まれたと言われるのが木曽冠者義高です。

治承4年(1180)以仁王の打倒平家の令旨を受けて、伊豆で源頼朝が旗揚げします。少し遅れて、信濃で木曽義仲も旗揚げしました。その後義仲は北陸道に進出しますが京都攻略を目指しますが、気がかりなのは頼朝との関係でした。頼朝は義仲のことを疑ってかかっていました。

そこで義仲は、11歳の嫡男義高を頼朝の娘大姫に婿入りさせることを提案します。婿入りといってもていのいい人質でした。寿永3年(1184)義仲が討ち死にすると、状況が変わってきます。同年4月、頼朝は義高を殺すために、刺客を差し向けました。

「大変です。父上が義高さまを殺そうとしています!早く逃げてっ」

大姫は義高を女房装束で女装させ、逃がし、海野幸氏が義高に成り代わっていました。しかし、頼朝はすぐにこれよ気づき、堀親家を追っ手としてさしむけます。武蔵国入間川付近で、追いつかれ、義高は討ち取られました。享年12。

「ああ、義高さま、義高さま…」

大姫は義高の死を嘆き悲しむあまり、病気になってしまいました。

「なんということ!大姫が病気になったのは義高を討ったからです!
許せません!」

頼朝の妻政子はそう言って、義高を討った堀親家の家臣を処刑しました。しかし大姫は元気にならず、建久8年(1197)享年20歳で帰らぬ人となりました。

その、清水冠者義高の母が、山吹姫と伝説されます。班渓寺境内には山吹姫の墓と伝えられる五輪塔があります。

というわけで、武蔵嵐山。畠山重忠の菅谷館跡・源義賢の大蔵舘跡。源義賢の墓。木曽義仲産湯の清水のある鎌形八幡神社、義仲の愛妾山吹にまつわる班渓寺と、歩いてきました。

つくづく実感したのは、水の大切さです。ほんとうに武蔵嵐山は、何キロ歩いても自動販売機が全ッッ然、ありません。干からびます。砂漠を歩くと同じ覚悟で、じゅうぶんに水を買い込んでから臨まなければなりません。

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