『徒然草』に描かれた、双ケ丘(ならびがおか)に登る

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本日は、『徒然草』に描かれた、京都府右京区の双ケ丘(ならびがおか)に登ります。

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法金剛院

JR嵯峨野線花園駅下車。

駅のすぐはす向かいが…

法金剛院です。

法金剛院。別名を蓮の寺とも。

平安時代初期に右大臣清原夏野(きよはらのなつの)の山荘を、その没後に寺に改め、双丘寺(そうきょうじ)としたのに始まり、大治5年(1130)、美貌で知られた鳥羽天皇中宮・待賢門院璋子によって再興されました。

庭園

蓮を浮かべた池を中心とした庭園は平安時代のものとして特別名勝に指定されています。

この写真は9月のはじめに撮ったものです。葉っぱが青々して、いい感じでしょう。

本堂です。ご本尊の阿弥陀如来坐像、厨子入十一面観音坐像、僧形文殊坐像が安置されています。

青女の滝

庭園の北に…

青女の滝。

五位山を背景に、平安時代の岩組みの跡を残します。

五位山は法金剛院の背後にある低い山で、仁明天皇があまりに景色が美しいので従五位の位を授けたという伝説により五位山です。

待賢門院堀河の歌碑

長からむ心もしらず黒髪の
乱れて今朝はものをこそ思へ

貴方のお気持ちが長続きするかどうか、私にはわかりません。一夜を過ごしてお別れした朝、黒髪が乱れているように私の思いもとても乱れております。

堀河は待賢門院に仕えた女房で、歌に心得があり、西行法師と交流がありました。主君待賢門院が出家すると、堀河も出家します。出家後は仁和寺近くに住み、かなりの老齢まで生きたようです。

西行法師と堀河

ある月の明るい晩、西行法師が仁和寺のあたりを通りかかります。

「ああ…いい月だ。堀河殿はどうしておられるか。
宮中で歌合せをしたこともなつかしい…」

西行は前々から、堀河を訪ねていく約束をしていましたが、
忙しさに先延ばしになっていました。

このような月の晩こそ、昔を語り合うには最高のはずですが、

「いや、しかし…今宵はやめておこう」

どうしたわけか、西行は仁和寺の前を素通りしていきました。

「えっ、西行さまが、近くまでいらしていたのですか!」
後日、人の噂に、西行法師が仁和寺のそばを通ったことを知りました。

堀河は西行法師に歌を贈ります。

西へ行くしるべと頼む月影の
そらだのめこそ甲斐なかりけれ

西行法師さまのことを、そのお名前の通り、
【西】方浄土へ【行】くための道しるべと頼みにしておりましたのに、
私はふられてしまったんですね。甲斐の無いことです。

西行の返し。

さし入らで雲路をよぎし月かげは
待たぬ心ぞ空に見えける

私があなたのお住まいを訪ねないで通り過ぎたのは、
あなたが私のことを待ってはくれてはいないと思えたからですよ。

主君・待賢門院を慕う歌

久安元年(1145)8月22日。京都洛西・法金剛院(ほうこんごういん)にて
尼になっていた待賢門院が崩御しました。

翌年の6月、堀河は、亡き主君を慕い、法金剛院を訪れます。

庭は荒れ果て、木々の梢は伸び放題。
そこに往時の面影はありませんでした。

ただひぐらしの声だけが響いている。

君こふるなげきのしげき山里は
ただ日ぐらしぞともになきける

(わが君はもういらっしゃらない。それを思うと、嘆きしか出てこない。
この山里に、私とともにないてくれるのは、蜩だけだ)

しみじみした気持に浸りながら、法金剛院を後にします。

もう駐車場のところから双ケ丘が見えているんですが…

ちょっと坂道を登ると、待賢門院璋子の陵…花園西陵(はなぞののにしのみささぎ)があります。

待賢門院璋子。藤原公実の娘で大変な美貌で知られていました。白河法皇の養女となり、鳥羽天皇に嫁ぎ、崇徳、後白河らを生みました。一説に璋子はもともと白河法皇から愛されており、その後、鳥羽天皇に嫁いでからも白河法皇との関係は続いていたと。そして生まれたのが顕仁親王、後の崇徳天皇であったので…

鳥羽は崇徳のことを不倫の子と疑ったようです。祖父白河と璋子の子だろうと。祖父の子は系図上叔父にあたるため、鳥羽天皇は崇徳のことを「叔父子」といって生涯忌み嫌ったといいます。その父子の確執が後の保元の乱の遠因になったと…何度聴いてもキツい話です…

双ケ丘

待賢門院璋子の陵を後に、双ケ丘に向かいます。

双ケ丘(ならびがおか)。

京都府右京区にある三つの丘、北から一の丘、ニの丘、三の丘の総称です。仁和寺のすぐ南にあります。

『徒然草』の作者兼好法師は双ケ丘のふもとに住んでいたと言われます。長泉寺という小さなお寺の門前に石碑が立っています。

三の丘の山頂に出ました。ごく狭いです。

けっこう秘境ですよ。住宅街の中にこんな秘境があるんだなと、嬉しくなります。

『徒然草』に描かれた双ケ丘

『徒然草』には双ケ丘を舞台とした話があります。

仁和寺にとても美しい稚児がいた。法師たちはなんとかこの稚児の気を引こうとして、プレゼントを企画する。しかし、ただ渡したんじゃつまらない。趣向をこらそうということで、細工品を作って、箱に入れて、双ケ丘に埋めておいた。

それから稚児を誘い出していいものがあるよと、双ケ丘に連れてくる。

例の宝を埋めたところの前に立って、さあ霊験あらたかな僧たちよ、祈りましょうと、十分にもったいぶって念仏して、地面を掘り返す。

ところが、埋めておいた宝は、見つからない。アレおかしいなとあちこち掘って、もう掘らない所はないというくらい、掘りまくったけれど、ついに見つからなかった。

埋めるところを見ていた人が掘り返して、盗って行っちゃったんですね。

僧たちはギャアギャアののしりあって、お前のせいだぞ、いやお前がなんて言いながら、帰っていった。

最後のコメントがイカしてます。

あまりに興あらんとする事は、必ずあいなきものなり。

『徒然草』54段

あまりに面白くしようとすると、必ず面白くない結果になるものだ。

これ、わかります。

私、講演やる時にですね、一生懸命笑い話を考えて用意していくと…たいがい、滑ります。そうではなくて、ふつうに真面目な話しを最近こういうことあったんですよと、何の笑わせるつもりもなく喋った時に、思わぬタイミングで、どっと会場から笑いが起こったりする。

あまり考えてここで笑わせてやるぞシメシメなんて準備していくと、シーーン…あれっ?作戦と違うとなる。あまりに面白くしようとすると、必ず面白くない結果になると、徒然草の言葉の通りだなと思います。

それにしても仁和寺は…代々法親王さまが、つまり皇族出身の出家した方が住持を勤められた門跡寺院ですよ。その厳かな仁和寺に対して、兼好法師の筆の、なんと容赦のないことか。そしてどこか愛情に満ちた書きっぷり。微笑ましいです。

などと考えつつ歩いていくと…

ニの丘の山頂です。右手から双ケ丘中学校の元気な声が響いてきます。

清原夏野

さらに進み、

一の丘の山頂近くまで来ると、

清原夏野の墓の跡の碑。

清原夏野は『日本書紀』を編纂した舎人親王の孫・小倉王(おぐらおう)の五男です。桓武天皇の御世に臣籍に降下し清原姓を許されました。桓武・平城・嵯峨・淳和・仁明と五代にわたって朝廷に仕え、右大臣に到りました。政治・経済・文学にすぐれ、民間からも慕われました。

子孫には百人一首歌人の清原深養父、清原元輔、そして清少納言がいます。

ここ双ケ丘には清原夏野の屋敷がありました。そのため清原夏野は双ケ丘大臣、比大臣(ならびだいじん)と呼ばれました。

今日、はじめに訪れた法金剛院は清原夏野の山荘跡を、没後に寺としたものです。

一の丘山頂

一の丘山頂に来ました。

北に仁和寺のニ王門と五重塔が。

西に長くのびた尾根。あれは嵐山でしょうか。烏ケ岳でしょうか。

はるかに高くそびえているのは愛宕山です。あそこに天狗がいるんだなァ。

いい眺めです。

ああ京都は美しいと改めて実感します。

来てよかった。

双ケ丘は別に観光名所でもなく地味な場所ですが、それだけに人が少なく、のびのびした気分を味わえます。住宅街のただ中にこんな密林があることに何より驚きます。仁和寺を訪れた際には、ぜひ双ケ丘にも足をのばして、歩いてみてください。

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