日本橋を歩く

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本日は、日本橋を歩きます。

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松尾芭蕉は寛文12年(1672)年、29歳で江戸に出て宝永8年(1680年)深川に移るまで、8年間を日本橋に過ごしています。当時は越後屋呉服店を中心に、賑わいを見せる江戸一番の繁華街でした。本日はその、面影を訪ねます。

宝井其角住居跡

地下鉄東西線茅場町駅で地上に出ます。


みずほ銀行茅場町出張所の前にあるのが、宝井其角住居跡の碑です。


宝井其角(1661-1707)。松尾芭蕉第一の門人で、蕉門十哲の一人に数えられます。日本橋堀江町の医者・竹下東順の子として生まれますが、母方の榎本姓を名乗り、後にみずから宝井と改名しました。酒を好み、派手を好み、しゃれのきいた軽い調子の句を詠みました。

鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春

我が物と思えば軽し笠の雪

越後屋にきぬさく音や更衣

茅場町に住み、芭蕉没後は江戸座を開き、江戸俳諧の中心となりました。

元禄15年(1702年)12月13日、宝井其角が両国橋にさしかかると、向こうからみすぼらしい笹売がやってきました。

「あっ、お前は!」

それは其角の俳友・大高源五でした。なんと生活に困窮して、こんなことまでやっているのか。さても不愍なこと。そう思いつつ、それには触れず、世間話などした後、

年の瀬や水の流れと人の身は

宝井其角がそう詠むと、

あした待たるるその宝船

大高源五は、こう返しました。はて?私は源悟の生活をあわれんだのだが、それに対して明日は宝船が待っているとは…?宝井其角は句の真意をはかりかねていましたが、

その翌日、大高源五は四十七士の一人として吉良邸に討ち入り、ああ、このことであったか!笹売り姿は、吉良邸の内情をさぐるための密偵をやっていたのだ。其角ははらはらと涙を流したという逸話が、よく知られています。

永代通りを西へ直進。日本橋に出ます。



コレド日本橋アネックス広場の脇に、漱石名作の舞台の碑が立っています。


生粋の江戸っ子である夏目漱石は日本橋をこよなく愛し、多くの作品に日本橋を登場させています。

たとえば『三四郎』には、主人公三四郎が勉強ばかりしているのを見て先輩の与次郎がそんなんじゃいかんと、日本橋を連れまわす場面があります。

…与次郎は三四郎を拉(らっ)して、四丁目から電車に乗って、新橋へ行って、新橋からまた引き返して、日本橋へ来て、そこで降りて、

「どうだ」と聞いた。

次に大通りから細い横町へ曲がって、平(ひら)の家やという看板のある料理屋へ上がって、晩飯を食って酒を飲んだ。そこの下女はみんな京都弁を使う。はなはだ纏綿(てんめん)している。表へ出た与次郎は赤い顔をして、また

「どうだ」と聞いた。

次に本場の寄席へ連れて行ってやると言って、また細い横町へはいって、木原店(きはらだな)という寄席を上がった。ここで小さんという落語家(はなしか)を聞いた…

日本橋

さて日本橋駅から中央通りを神田方面に向かうと、すぐに首都高の高架線が見えてきます。その真下にかかるのが日本橋です。



慶長8年(1603年)徳川家康は江戸開府の際、江戸城近くを流れていた平川をこのあたりまで延長し、東海道をはじめとする五街道の起点として木橋を掛けました。これが初代の日本橋です。橋の下を流れる川は日本橋川と名付けられました。

その後、火災などで架け替えられること18回。現在の日本橋は東京市により明治44年3月に完成しました。ルネサンス様式花こう岩造りの二連アーチ橋。

青銅の獅子は東京市の保護を、


麒麟は繁栄をあらわしています。



四隅にある橋の銘標は最後の将軍徳川慶喜の筆によるものです。





橋の南詰西側にはかつて幕府の高札場(こうさつば)があり、幕府の重要発表などが貼りだされました。現在は高札場を模した日本橋由来の碑が立ちます。


橋の北詰東側には、日本橋魚河岸を記念する乙女像が立っています。


日本橋魚河岸は徳川家康の江戸入府の際、佃島の漁師たちが、将軍家や諸大名に饗する魚の取り扱いを任されました。しかし、余ります。もったいないです。

「もったいないですよ」
「そうだな。では、そのほうらで、勝手に商え」

こうして余りものを売ることを、許されました。

中でも日本橋沿いの魚河岸はたいへんな繁盛で、威勢のいい江戸っ子たちの声が飛び交いました。一日に千両の取引があるとされ、江戸でもっとも活気のある場所でしたが、大正12年(1923年)関東大震災により 築地に移転され、東京都中央卸売市場へと発展していきます。


東京市道路元標

日本橋北詰西側には、東京市道路元標が立っています。


道路元標とは、道路の起点と終点をあらわす標識で、大正8年(1919年)道路法の制定により各市町村に道路元標を一つ設置することが義務づけられました。

東京市道路元標はもと日本橋の中央にあり、東京都電の架線柱として利用されていましたが、昭和47年(1972年)の都電廃止後、現在の位置に移されました。

東京市道路元標の横には日本道路元標があります。字は時の総理大臣佐藤栄作によるものです。


日本橋からすぐの所にそびえるのが三越本店です。



もとは越後屋呉服店といい伊勢松坂出身の三井高利が開いた呉服商が始まりです。越後屋呉服店は当時画期的な現金掛け値無しの店頭販売で売上をのばしました。

お客さんに店先で実際に手に取って商品を選んでもらって、その場で現金で買ってもらう。今では当たり前のことですが当時の呉服商では盆・暮の二回払いが当然でした。

しかしそれでは、半年間現金が入ってこないのと、最悪回収できないリスクを考えて値段を高めに設定する必要がありました。それがまずいと三井高利は目をつけ、現金掛け値無しの店頭販売を行ったのです。

結果、その場で現金が入ってくるので未回収の心配はなくなるので、今までの半額ほどで売ることができるようになりました。

「安いわねえ」

庶民は大喜びです。

また、他の呉服商は反物単位でしか売りませんでしたが、越後屋ではどんな端切れでも売りました。

「越後屋さんは融通がきくわ~」

こうして商売はどんどん大きくなっていきました。

↓詳しくはこちら↓
三井高利」をお聴きください。

漱石の越後屋の碑

三越屋上には漱石の越後屋の碑があります。




漱石の作品にはたびたび越後屋呉服店、三越呉服店が登場します。早稲田大学第十四代総長奥島孝康(おくじまたかやす)氏による説明が刻まれています。

漱石は小学校へ上る前に
黄八丈や縮緬を買いに越後屋へ
連れられて来た。
夕暮れに雨戸を繰る音、店先の
暖簾の色は永く記憶に残った。
虞美人草浴衣は高級人気商品と
して今なお語り継がれている。

平成十八年十一月吉日

早稲田大学第十四代総長
奥島孝康 識

説明版より

三越と中央通りを隔てて東側のむろまち通りは、老舗が軒をつらねる、江戸情緒の残る通りです。




佃煮の日本橋鮒佐の前に、松尾芭蕉の句碑があります。




発句也松尾桃青宿の春

松尾芭蕉は寛文12年(1672)年、29歳で故郷伊賀上野を後にし、江戸日本橋小田原町にすまいました。芭蕉の家の正確な位置は不明ですが、北村季吟のもとで同門であった小沢卜尺(おざわぼくせき)を頼ってその家に落ち着いたようです。

この句は俳諧の宗匠としてデビューした頃の心意気をあらわしています。この日本橋の宿で春を迎えた私・松尾桃青。われらの寄って立つのは、一にも二にも発句なのだ。これから無限の未来が広がっていく、青雲の志にあふれた感じですね!

それより、延宝八年(1680年)に深川に移るまで8年間を芭蕉は日本橋に過ごすこととなります。

越後屋呉服店の前も何度も歩いたでしょう!日本橋の魚河岸で魚を買ったでしょう!ことに越後屋呉服店の創業者三井高利は伊勢出身で芭蕉の伊賀とは近いですから、「あっちは儲かってるなあ。それに比べて俺は…」なんてことも思ったかもしれないですね。

明日は深川を歩きます。お楽しみに!

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