西御門・二階堂を歩く(二)

こんにちは。左大臣光永です。一日中雨のしょぼ降ってましたが、いかがお過ごしだったでしょうか?

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この商品に関連して、しばらく鎌倉の話題をお届けしています。本日は「西御門・二階堂を歩く(二)」です。

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西御門・二階堂は、鶴岡八幡宮の東に広がるエリアです。源頼朝はこのあたりに最初の御所…大蔵(倉)幕府を築きました。その北の端には源頼朝の墓があり、東には頼朝が奥州の中尊寺を意識して築いた永福寺(ようふくじ)の跡、荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)、さらに、後醍醐天皇の皇子大塔宮を祀る鎌倉宮(かまくらぐう)、代々の鎌倉公方の菩提寺であり書院庭園で有名な瑞泉寺など、景色の美しさも、歴史的背景においても、みどころいっぱいのエリアです。

北条義時の法華堂跡

前回からの続きです。鎌倉・西御門の源頼朝の墓を後に、東へ歩いていきます。しばらく行くと左に見える細い道に入り、


石段を登っていきます。


踊場状の広いエリアに出ました。



北条義時の法華堂の跡です。

二代執権・北条義時は幕府草創期から父時政とともに源頼朝を補佐しました。承久の乱では後鳥羽上皇方を破り、以後、鎌倉幕府の権力は全国に及ぶこととなります。

また、1213年の和田合戦においては、北条氏の潜在的な敵であった和田義盛をしつように挑発し、反乱を起こさせ、これを攻め滅ぼしました。父時政と似て、陰謀家の側面もあったようです。

「ワシが死んだら…頼朝公の墓のそばに葬ってくれ…」

そう遺言してかどうだか、貞応3年(1224年)北条義時が亡くなると、頼朝の法華堂のある山のすぐ東の山の上に葬られました。ここが、その北条義時の法華堂跡とされます。

大江広元の墓

奥にある鳥居をくぐり、



長い石段を登り切ると、三つのやぐらが並んでいます。

中央が大江広元の墓、


左が大江広元の息子で毛利氏の祖となった毛利季光の墓、


右が、島津氏の祖となった島津忠久の墓といわれます。


江戸時代に長州藩によって立てられたものです。

大江広元は源頼朝の知恵袋的な人物でした。将軍につぐナンバー2ともいうべき立場でした。

京都の公家出身ですが、頼朝の招きで鎌倉に下り、初代政所別当(まんどころべっとう)となります。政所ははじめ公文所といい、後に政所と名がかわりました。幕府の政治機関のことです。別当は長官のことです。

大江広元は全国に守護・地頭を置く献策を頼朝に行い、鎌倉幕府の影響力を全国規模にするなど、幕府の基礎を築くのに功績がありました。

源氏の政権が滅び北条氏の世になってからも、幕府草創期のメンバーが次々と北条氏に粛清される中、大江広元は北条氏によっても重く用いられ続け、天寿をまっとうしました。

大江広元の四男の毛利季光は1247年に勃発した三浦氏の叛乱「宝治合戦」に加担したため、北条氏に攻められ、自刃しますが、その子孫が流れ流れて、中国のあの毛利氏となるわけです。

一方、島津忠久は大江広元と血縁関係は無いですが、伊豆の流人時代の源頼朝を援助していた比企尼の孫です。比企氏は「比企の乱」で北条氏に滅ぼされ、比企氏の九州の領土も北条氏に取られますが、南北朝時代には島津氏に戻り、あの薩摩の島津氏につながっていくわけです。

幕末に討幕の原動力となったあの薩長のそれぞれの藩主が、いずれも鎌倉にルーツを持っているのは、面白いですね!


ただしここにある大江広元の墓は本来のものではなく、江戸時代に毛利家によって再建ものです。本来の大江広元の墓は鎌倉十二所(じゅうにしょ)の山中にある五輪塔がそれだと言われています。

荏柄天神社

大江広元の墓を後に、東に歩いていくと、


すぐに荏柄天神社の参道にぶつかります。ビャクシンの大木がものすごい感じでクロスしている、その下をくぐると、


二の鳥居です。くぐります。目の前が、荏柄天神社の石段です。



石段右におおいかぶさるような大イチョウが見事です。


荏柄天神社は古くは荏柄山天満宮(じんべいざんてんまんぐう)といわれ、福岡の太宰府天満宮・京都の北野天満宮と並び日本三天満宮の一つに数えられます。


菅公の怨霊伝説

長治元年(1104年)、空がにわかにかき曇り、

ガラガラガラーーー

雷が鳴ったかと思うと、

ひらり。ひらり…

あれっ、空から何か降って来るぞ。なんだ?

すっと手に取ってその紙を見ると、それは、恐ろしい形相をした菅原道真公の絵図でした。

「ひ…ひいい!!」

菅原道真が大宰府で失意のうちに亡くなったのが延喜3年(903年)。それから20年ほどの間に、道真を大宰府送りにした人たちは次々と原因不明の死を遂げました。また宮中の清涼殿に雷が落ちて人死にが出るという事件もありました。時の醍醐天皇もほどなく亡くなりました。

そういうわけで、人々は菅公の祟りとしてこれを恐れ、菅公の怨霊を鎮めるため、天暦元年(947年)京都に北野天満宮が建立されました。

それから160年。まだ菅公の怒りはおさまっていなかったのか!しかも遠い鎌倉の地まで。なんと恐ろしいというその恐れが、この地に天満宮を築かせました。それがこの荏柄天神社です。

後には菅公の怨霊としての性質は薄れ、学問の神様とされていったのは、御存知の通りです。受験シーズンには多くの受験生が押し寄せます。


大蔵幕府の鬼門封じとして

治承4年(1180年)源頼朝が鎌倉に入り大蔵幕府を築きます。幕府…すなわち御所は、二か月で完成しました。

「さて鎌倉に御所はできたが、気になるのは丑寅の鬼門じゃ」

丑寅は東北。陰陽道で鬼門とされる方角です。この、丑寅の方角から鬼や、悪い物が入って来ると考えられていました。京都に延暦寺があり、江戸に寛永寺が日光東照宮があるのも、鬼門封じのためです。そこで、大蔵御所の丑寅を見ると、そこに荏柄天神社があったので、以後、大蔵御所の鬼門の守りとして、崇められることとなりました。

歌ノ橋

風流な話も伝わっています。

建保元年(1213)、三代将軍源実朝の時代、上野国(群馬県)の武士・渋川兼守という者が逮捕されました。前将軍・源頼家の遺児・千寿丸を担ぎ出して現政権を倒そうというクーデーター計画に加担していると、疑われたためです。

「俺は無実だ。謀反なんて、とんでもない。どう言ったら、わかってもらえるんだ。北条のやつらは聞く耳を持たないし…」

そこで渋川兼守は身の潔白を訴える歌十首を詠み、これを荏柄天神社に奉納しました。歌の内容は伝わっていませんが、将軍源実朝がこれを見て、

「うむ…渋川はまこと心優しき男よ。謀反は、間違いだったようだ」

深く感動し、罪許されたという話です。

罪許されたことに感謝した渋川兼守は、荏柄天神社に近い滑川に注ぎ込む二階堂川に、橋をかけました。現在、鎌倉・金沢街道上に残る、「歌ノ橋」がそれだと伝えられます。

菅公と梅

境内には梅がもう咲いていました。いい季節に行ったと思います。


菅原道真公がいよいよ大宰府に流される時、京都の屋敷で子供の頃から親しんできた梅の木を見て詠みました。

東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主無しとて春を忘るな

この歌に基づき、荏柄天神社に限らず天満宮の境内には、梅を植えることになっています。

明日は、後醍醐天皇の皇子・大塔宮を祀る鎌倉宮や、北条貞時が二度とモンゴル襲来が起こらないようにと祈願して寺とした覚園寺(かくおんじ)を訪ねます。お楽しみに。

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以後、北条氏が権力をのばします。五代執権北条時頼、
八代執権北条時宗の時代を経て北条氏嫡流「得宗」家は、
いかに権力を拡大していったのか?

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本日も左大臣光永がお話しました。ありがとうございます。ありがとうございました。