小田原を歩く(一)

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本日は「小田原を歩く(一)」です。

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小田原は北条早雲以来の後北条氏の城下町です。豊臣秀吉によって後北条氏が滅亡した後も徳川の重臣・大久保氏や稲葉氏の居城となり、小田原城は明治3年まで城として機能していました。小田原市内には戦国時代・江戸時代のみならず明治・大正の歴史を彩る史跡や建物が多く残っています。


北条早雲像

JR東海道線小田原駅下車。


お。駅のホームからすでに、小田原城の天守閣が見渡せて、気分が高まります。

天井が高いアーチをなしていて、えらい近代化された駅です。



「小田原」と書かれた大提灯が目立ちまくってます。


西口に北条早雲像があるので、まず行きます。蒲鉾押してますねえ。帰りに買っていこう…

窓の外にもう見えてます。まっすぐ正面、こっち向いて。北条早雲像です。


小田原城攻めの時に牛の角に松明をくくりつけて「火牛の計」を行った姿を、像にしています。火牛が…三頭も付属している…ぜいたくな造りです。フィギュアを作ったら、だいぶ値段が高くなりそうです。

何ていうんですか?キノコの傘みたいな頭巾?あれが特徴的ですね。

北条早雲は後北条氏初代。ただし北条を名乗ったのは二代氏綱からで、本人は伊勢新九郎、後に出家して伊勢宗瑞と名乗りました。備中の出身で、文明元年(1469)年頃駿河に下り、今川家の家督相続に介入。その功績により、駿河国興国寺城の城主となりました(このへんは異説あり)。

明応2年(1493)、今川氏の命令で伊豆に侵攻。堀越公方足利政知の遺児・足利茶々丸を亡ぼし、伊豆一国を手に入れます。ついで小田原に侵攻。小田原城主大森重頼を追放。この時に「火牛の計」をやったと軍記物には描かれています。

この頃関東では扇ヶ谷上杉氏と山内上杉氏が争っていましたが、北条早雲は扇ヶ谷上杉氏に味方し山内上杉氏と戦いました。また永正10年(1513)三浦道寸を攻め滅ぼし、相模全域を手中に収めます。

そのほか北条早雲というと、初の検地をおこなったこと。税率をそれまでの五公五民から四公六民にしたことなどが、よく知られています。

東口に移動します。


まずは「北条氏政・氏輝墓所」の表示にしたがって、歩いていきます。


すると…

まさかの「おしゃれ横丁」。


ここにお墓が…あるんですか。

ホルモン屋や海鮮料理屋の多い中を歩いていくと、

見えてきました。

北条氏政・氏輝の墓です。



北条氏政は後北条氏第四代当主。氏照はその弟で八王子城城主。

天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原城攻めの際、後北条氏最後の当主・北条氏直は降参し、高野山に追放されました。氏直の父氏政と、その弟氏照は、小田原城下の田村安斎(たむらあんざい)邸(現南町)にて自刃しました。そして北条氏の氏寺・伝心庵(でんしんあん)に埋葬されました。

その後、墓は放置されていましたが、稲葉氏が小田原城城主となった時に整備された、ということです。

向かって右から大きな五輪の塔が、氏政夫人の墓。中央が氏政の墓。左が氏輝の墓…いずれも「伝」ですから、ほんとうにそうかわからないですが。そして正面の平たい岩の上で、氏政と氏輝が自刃したと伝えられます。

御堀端通り~学橋

氏政・氏輝の墓を後に、小田原城めざして歩いていきます。

道すがらとても賑やかで、繁栄してます!


…やっぱりありました。こういうの。

北条水軍。まぐろと地魚料理。


海鮮丼食べてから、御堀端通りを小田原城めがけて歩いていきます。しばらく行くと…見えてきました。小田原城のお堀が。


二の丸東堀です。

よく晴れてるからキラキラ輝いて、目にまぶしいです。


こういう石垣を備えた立派なお城になったのは、江戸時代、稲葉氏が入ってからです。北条氏の時代の小田原城はどんなだったでしょうかねえ。砦みたいなもんだったかな。

まず見えてきたのが学橋(まなびばし)。


鳩が飛びゃあいいものを、わざわざ歩いて橋渡ってるのが、かわいらしかったです。通り過ぎます。

まずは左に折れて、三の丸の大手門を見ておきます。三の丸は何も残っていませんが、大手門の跡があります。本来、最初はこの大手門から入って、二の丸、本丸と登城したわけです。その大手門跡に向かいます。

ん?これか。


道端に高い石垣と、その上に鐘つき堂があります。現在も、朝晩6時に鳴らしているということです。けっこう回りアパートに囲まれてるんですけども、この至近距離でゴーーーンとやったら、そうとう響きそうです。


このあたりが江戸時代の大手門の跡です。この大手門を入ると三の丸で、道の左右には小田原藩の重臣たちの屋敷が広がっていました。

馬出門~馬屋曲輪

二の丸東堀に戻りちょっと歩くと馬出門土橋(うまだしもんどばし)です。


この土橋を渡って…二の丸正面の馬出門(うまだしもん)に至ります。三の丸から二の丸に向かう正規の登城ルートに位置する門です。


よくお城に見られる枡形門(ますがたもん)で、外側が石垣と白壁に囲まれた馬出門(うまだしもん)。内側が内冠木門(うちかぶきもん)。これら二つの門がセットになっています。


門内に入ると…おお…広々してます。馬出曲輪(うまだしくるわ)です。木々も多く、サワヤカです。


小田原城がはじめて築かれたのは大森氏が小田原に進出した15世紀中ごろと考えられています。明応4年(1495)に北条早雲が大森藤頼を追放して以後、後北条氏の城となります。

永禄4年(1561)、上杉謙信が、永禄12(1569)、武田信玄が来襲するも、いずれも小田原城を包囲するだけにとどまり、撤退しています。鉄壁の守りであり、落とすことはできなかったんですね。

織田信長の死後、豊臣秀吉は後北条氏に降伏をせまり交渉を続けていました。北条方は交渉を続ける傍ら、城下町を囲む延長9キロにおよぶ総構(そうがまえ)が設置し、秀吉の来襲に備えました。

天正18年(1590)4月、豊臣秀吉は15万の軍勢をもって小田原城を包囲。以後、包囲は三か月にわたります。その間、豊臣秀吉は小田原城を見下ろす笠懸山に石垣の城を築き、小田原城を威嚇します。

「これ以上の抵抗はムリだ…」
「北条の命運も、ここに尽きた」

当主・北条氏直はついに降伏を決めました。ここに小田原城は陥落し、後北条氏100年の歴史は幕を下ろしました。豊臣秀吉による全国統一が成し遂げられ、戦国時代は終わりました。

後北条氏滅亡後の小田原城は、徳川家康の重臣・大久保氏の城となります。その後大久保氏が改易され、いったん廃城となりますが、寛永9年(1632)稲葉氏が城主となり、以後三代稲葉氏の統治が続いた後、ふたたび大久保氏の居城となり、明治維新を迎え、明治3年(1870)廃城となります。

その後、皇室の御用邸が作られますが、それも関東大震災で打撃を受け廃止となり、二の丸一帯の掘も埋め立てられました。

銅門~二の丸

ぐるっとお堀を回り込んで、


住吉橋を渡ると、


銅門(あかがねもん)があります。


江戸時代の小田原城二の丸の表門です。これも二つの門がL字型に配置された枡形門です。


銅門というだけあって、キラッキラしてます。明治5年に解体されましたが、当時の工法に基づき、平成9年に復元されたということです。

くぐります。

わあーーっと空間が開けて、城っぽくなってきました。二の丸です。


お、何か展示物が。

銅門の礎石です。


この石を、地面に埋めて、ほぞ穴に柱を立てた、ということです。

そして銅門の土塀の模型です。


銅門を作るに際して事前に制作されたものです。こういうオリジナルなものが残ってるのは、いいですね。再建されたものも雰囲気があって楽しいんですけども、やっぱり本物が残ってるのは、ああ当時どうであったかと、しのぶよすがとなります。

銅門入ってすぐ右側が、小田原城歴史見聞館です。


特にビデオ展示物が充実してます。書き割りの人形が演技したり、蝋人形で、小田原城攻められてる時のあたふたしている様子が芝居仕立てで演じられていて、とても臨場感があります。

常盤木門~本丸

常盤木橋を渡り、


常盤木門。本丸の正門で、もっとも頑丈に作られました。


この常盤木門をくぐると…本丸です。


東西83間(150メートル)、南北63間(114メートル)の空間で、西の端に天守閣。中央には本丸御殿がありました。本丸御殿は完全に、無くなってます。

天守閣は明治3年の廃城によって解体・撤去されたのを、昭和35年(1960)に再建したものです。


本丸御殿は寛永11年(1633)の徳川家光の上洛に際して造営されたものですが、元禄16(1703)の地震で倒壊し、以後再建されていません。

この日よく晴れてて、青々した空に白い雲をバックに天守閣がよく映えてカッコよかったです。

次回はいよいよ天守閣に登ります。お楽しみに。

本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

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