小田原を歩く(二)
本日は「小田原を歩く(二)」です。
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小田原は北条早雲以来の後北条氏の城下町です。豊臣秀吉によって後北条氏が滅亡した後も徳川の重臣・大久保氏や稲葉氏の居城となり、小田原城は明治3年まで城として機能していました。小田原市内には戦国時代・江戸時代のみならず明治・大正の歴史を彩る史跡や建物が多く残っています。
天守閣
では天守閣に入ります。
天守閣内部は展示室になっていて、小田原城の歴史を知ることができます。
私感動したのがですね、豊臣秀吉から北条氏直への宣戦布告状の複製です。うわーーと気迫が伝わってきます。書いてある内容はよくわからないんですが、字面からとにかく、迫力が伝わってきました。
最上階では外に出られます。
南には真っ青な相模湾。
そして伊豆半島。伊豆半島の先に小さく真鶴半島が突き出して見えます。
伊豆大島もはるか海のかなたに見えるらしいんですけども…私の視力ではムリでした。
東には三浦半島。相模のもののふたちの夢の跡が見渡せます。
北東に小田原駅。カトトカトトカトトカトト…電車がのんびり走る音が聞こえます。
西に箱根の山々。ポコンとしたお椀状の山は左が下双子山(しもふたごやま)と右が上双子山(かみふたごやま)です。
景色を見ていると、このまま大島まで渡りたい気分になってきました。
天守閣の脇には、二宮金次郎をまつった報徳二宮神社があります。
旅館みたいな雰囲気で、カフェもある…この渡し廊下の感じとか、どう見ても山中の温泉旅館の雰囲気です。
銅葺きの大きな屋根で鰹木がドーンと太く突き出しています。立派なもんです。
二宮尊徳といったら薪しょってる人。小学校の校庭のはしっこに必ず銅像がある人。というイメージだと思いますが、
二宮尊徳。金次郎は江戸時代後期、相模足柄に生まれます。幼い頃父母を亡くし、災害によって家は没落しますが、自力で復興。その経験をもとに天地人に報いる、報徳思想に目覚めます。文政5年(1822)、小田原藩に招かれ、関東の諸藩領・幕府領や日光神領の復興をまかされました。
南曲輪・御茶壺橋・御茶壺曲輪
そして小田原城南側にあるのが、南曲輪と
御茶壺橋です。
この御茶壺橋を渡った所がお茶壺曲輪。
江戸時代には京都の宇治から江戸城までお茶を運ぶ「茶壺道中」が行われていました。その途中、ここ小田原城・御茶壺曲輪で御茶の運搬に使う御茶壺が安置されました。
茶壺をおさめる御茶壺蔵が、この曲輪に設けられていました。
翌日、秀吉が城を作って小田原城を威嚇したという石垣山に登ってみました。
JR早川駅で降りて、石垣山一夜城公園を目指します。歩いて40分くらいです。
まずコースの左手に見えてきたのが、海蔵寺です。石段を登って、つきました。海蔵寺。
本堂の右手にミカンがたわわに実ってます。おいしそう。
後北条氏の前に小田原城をおさめていた大森氏が、嘉吉元年(1441)建立させた曹洞宗の寺院です。開山は大森氏の一族・安叟宗楞(あんそう そうりょう)。
堀秀政の墓
離れの墓地に、堀秀政(ほり ひでまさ)の墓があります。
堀秀政は豊臣秀吉の小田原城攻めに参加した秀吉方の武将です。
堀秀政は天文22年(1553)美濃の生まれ。最初、織田信長に仕え、伊賀攻めの際、近江長浜城主に任じられます。織田信長が本能寺の変(1582)で討たれた後は秀吉に仕え越前加賀18万石の大名となります。天正18年(1590)の秀吉の小田原城攻めに大将として参加し、小田原城の西南・石垣山城の前衛として陣を敷いたが、包囲を続けるさなか、38歳で、陣中で没しました。
相模湾がよく見渡せる。いい景色の所にお休みになってます。
登っていく道すがら、「石垣山に参陣した武将たち」といって看板が立ってます。これはいいですね。勉強になります。
小田原城の対面に石垣城を築いたということだけども、どこに小田原城が…あ、ありますね。JRの線路のむこうに、小田原城の天守閣がそびえて見えます。
なるほど。ほんと、真正面じゃないですか。
これは威圧感あります。えげつないことしますね秀吉は。
伊達政宗、宇喜多秀家、徳川家康…
徳川家康登場のところで、やっと、あと1キロ切りました。豊臣秀次。あと710メートル。
自販とかまったく無いから、水持ってきてなかったら死にます。
千利休…この人小田原までついてきたんですね。
振り向くと…うおっ。足に来ます。雄大な相模湾が見えるけども、足がすくむので、もう振り返らない。
しばらく行くと、よくこれまで頑張ったねと祝福するごとく、おかめ桜が。
豊臣秀吉。150メートル。
ようやく見えてきました。
石垣山一夜城歴史公園。
はあはあ…やっとたどりついた。
石垣。でかいです。
もともとこの山は笠懸山と呼ばれていました。天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原城を包囲するために総石垣の城を築いたので、石垣山と呼ばれるようになりました。
山頂にある城は俗に「石垣山一夜城」といわれます。
櫓の前に紙をたらして、周囲の森林を伐採して、一夜にして城があらわれたように見せた。何だあれは。秀吉という男は一夜にして城が築けるのか。もう駄目だ。あんなん相手に戦えるかと、北条氏は絶望感にかられたと言われていますが、
それはあくまで伝説上のことで、実際には、天正18年(1590)4月から6月まで約80日間。のべ4万人を動員して建てられました。
しかし改めて見るとすごい執念ですね。ここまでして北条を潰さないといけなかったんでしょうか。
石垣をぐるーーっと回れる道があるんですが、だいぶ…暗きより暗き道にぞ入りにけるという感じになってきたので、ここらで切り上げて帰ります。
ミカンを食べる
無人販売機で買ったミカンを石垣山の頂上で食べました。硬いんですよ皮が。これ大丈夫かな。まだ熟れてないんじゃないかな。そう思ってむいて食べてみたら、あっ…自然な甘さ。
自然な甘さなんですよ。
最近のミカンて人工的な甘さがついてるじゃないですか。しかも水っぽくて。そうではなくて、とても自然な、わざとらしくない水気と甘さでした。理想的なミカンの味だなと思いました。