鎌倉 扇ヶ谷を歩く(一)

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本日は「鎌倉 扇ヶ谷を歩く(一)」です。

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扇ヶ谷は鎌倉駅の西北、源氏山の山すそ一帯に広がるエリアです。源頼朝の5代前の先祖・源頼義が屋敷を構え、頼義の子・八幡太郎義家が後三年の役に出陣するに際し源氏山で戦勝祈願をしたといわれます。

また頼朝の父・義朝も、この地に住まいました。というわけで源氏にゆかりが深く、源氏関係の史跡がとても多いエリアです。また四季を通じてさまざまな花が咲き、景色も素晴らしいです。歴史散策にも、ハイキングにも、楽しめるコースです。

前回の「鶴岡八幡宮を歩く」もあわせて、お聴きください。
https://sirdaizine.com/travel/Tsurugaoka.html

佐助稲荷神社

JR横須賀線鎌倉役西口でおります。


駅前の喫茶店でモーニングサービスを食べてから、向かいます。いざ、佐助山へ。

佐助トンネルを抜け、


閑静な住宅街の中を歩いていくと、


だんだん道が上り坂になり、見えてきました。

佐助稲荷神社の参道です。


奉納鳥居のトンネルが、はるか上まで続いています。伏見稲荷を思い出しますね~。石段をおっちらおっちら歩いていきます。


登り切ると、そこが、拝殿です。


源頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に流されていた時、日夜、平家打倒を念じ祈願していました。そんなある日、頼朝の夢枕に老人が立ちます。

「頼朝よ、時は来た。平家打倒に、立ち上がるのじゃ。
決行の吉日は、某月某日某刻…」

「そういうあなたはどなたですか?」

「我は隠れ里の稲荷…」

はっと、そこで目が覚めました。

その後、実際に頼朝は打倒平家の旗揚げをし、鎌倉に幕府を開きました。

「これもあの時の隠れ里稲荷のおかげである」

そういって頼朝は畠山重忠に命じて佐助山隠れ里の霊地に社を建てて祀りました。頼朝は子供の頃、左兵衛佐(さひょうえのすけ)だったので「佐殿(すけどの)」と呼ばれていましたが、その「佐殿」を「助けた」ということで、「佐助稲荷神社」と名付けられました。

拝殿の裏手にあるのが、本殿です。


お稲荷さまの焼き物がズラアーーーッと奉納してあります。なんか、ものすごい感じです。

拝殿左手には、霊狐泉という湧水があります。



ここ佐助山は古くからふもとの田畑を潤す水源でした。豊かな水が湧き出ていたのです。そのため、周囲には水にまつわる伝説が多いです。

次に向かうのも、水に深く関係した霊地です。

切り立った崖にはさまれた山道を登っていきます。左を御覧ください。


石碑と鳥居が見えてきました。銭洗弁財天宇賀福神社の入り口です。


鳥居の向うは岩石の洞窟になっています。


洞窟を抜けると、そこが、銭洗弁財天宇賀福神社の境内です。



銭洗弁財天 宇賀福神社の由来を言うと、巳の年である文治元年(1185年)、巳の月、巳の日に、頼朝の夢枕に宇賀福神が立ちました。

「西北にある泉の湧き水で神仏を供養すれば、天下は太平になるであろう」

はっ、とそこで目が覚めました。

「さがせ!件の湧き水を」

すぐに頼朝は大倉御所西北一帯に人をやって探させた所、この地に、湧き水があったので、その湧き水をもって宇賀福神を供養した所、天下は平安になったということです。

その後、北条時頼はこの泉で銭を洗うと福銭になって帰って来ると言って人々にすすめました。

いつしか、奥宮の洞窟の水を銭洗い水とよぶようになり、ここでお金を洗うと何倍にもなって帰ってくるということから、現在、ザルにお金を入れて洗う人が絶えません。入口でザルを貸してくれるので、ぜひやってみてください。



また、銭洗い弁財天とは関係ないですが、お金を洗うというと、鎌倉にはこんな伝説があります。

昔、青砥藤綱(あおとふじつな)という質素倹約の武士がありました。夜中、滑川にかかる東勝寺橋の所で、川に十文の金を落としてしまいました。

「必ず、見つけ出せ」

青砥藤綱は家来に命じて、松明をつけて、落とした十文を探させました。その松明代が五十文かかりました。世間の人は笑いました。「十文をさがすのに五十文をかけた。なんとうバカだろう」しかし、青砥藤綱は言いました。

「商人の手に渡った五十文と、今みつけた十文。どちらも人の手にあり、国全体としては一文も失われていない。だが十文を川に落としてしまえば、その十文は失われてしまい、それきりだ。だから、探させたのだ」

このように青砥藤綱は質素倹約で公の立場から常に物を考えたので、執権北条時頼に重く用いられたということです。

日野俊基の墓・葛原岡神社

山道をうねうねと進んでいきます。途中、分岐点があり、右に向かうと源氏山公園。左に向かうと葛原岡神社です。まずは左に向かいます。


葛原岡神社は後醍醐天皇の忠実な家臣・日野俊基卿を祀って、明治20年(1887年)に建立された神社です。後醍醐天皇の忠実な家臣ですから、もちろん討幕派です。鎌倉幕府は潰してしまえという考えです。

日野俊基卿は後醍醐天皇の討幕計画に乗って、正中元年(1324年)、反乱計画に連座していました。しかしこの計画は内部告発によって、未然に発覚。日野俊基は捕えられてしまいます。しかし、この時は初犯ということで、許されました。

それから7年後の元弘元年(1331年)。ふたたび後醍醐天皇は討幕を企てました。日野俊基はまたも計画に乗っていました。これもすぐに発覚し、日野俊基は六波羅探題に捕えられました。今度は再犯だということで、許されませんでした。

日野俊基は車に乗せられ、京都から鎌倉へ護送され、ここ葛原ヶ岡の地で斬られました。

秋を待たで葛原岡に消ゆる身の
露のうらみや世に残るらむ

最期の無念を、歌に託し、日野俊基卿は斬られました。

『太平記』「俊基朝臣再び関東下向の事」は、日野俊基卿が京都から鎌倉へ護送される道のりをつづった名文です。各地の名所の地名を採り入れた七五調のリズムある文章です。昔暗記させられたという方もあるのではないでしょうか。

落花の雪に踏み迷う、片野の春の桜狩り、紅葉の錦きて帰る、嵐の山の秋の暮れ、一夜を明かす程だにも、旅寝となれば物憂きに、恩愛(おんあい)の契り淺からぬ、我が故郷(ふるさと)の妻子(つまこ)をば、行方も知らず思いおき、年久しくも住みなれし、九重の帝都をば、今を限りと顧みて、思わぬ旅に出でたまう、心の中(うち)ぞ哀れなる。

葛原岡神社参道左手に、日野俊基の墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。



葛原岡神社は、現在なぜか縁結びの神さまということになっており、ハート型の絵馬がいっぱいぶら下がってました。





さて葛原岡神社の参道を戻って、今度は源氏山公園に向かいます。


源氏山公園のある「源氏山」の地は、源義家が、奥州で勃発した清原氏の内紛・後三年の役に出陣する際、戦勝祈願をして、山頂に源氏の白旗を立てました。そのため、源氏山のほか、旗立山(はたたてやま)・御旗山(みはたやま)などと呼ばれます。

見えてきました。源頼朝像です。



貴族的でやや下ぶくれの面立ちですね。そして若々しい印象を受けました。頼朝が旗揚げしたのは34歳。当時としてはかなりの年齢ですが、この頼朝像は、もっと若いように私には思えました。

ひょろーーーひょろひょろ…

時折聞こえるトンビの声がいい雰囲気ですが、お弁当を広げていると襲撃されることもあるそうなので、注意が必要です。

化粧坂切通し

源頼朝像の近くには、化粧坂切通しがあります。


坂の名の由来は、ここで平家の武将の首を洗って首実検したからとも、坂の付近に遊女がいたからとも伝えられています。


また、「曾我兄弟の仇討ち」で有名な曾我時致(そがときむね)、「宇治川先陣争い」で有名な梶原景季(かじわらかげすえ)の二人が、「化粧坂下の遊女」をめぐって三角関係にあった、なんて話も伝わっています(『曾我物語』)。

鎌倉時代末期、後深草上皇にお仕えした女房・後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう)は、出家後、西行法師にあこがれ東国へ旅立ちました。化粧坂を越え、鎌倉に入る時の感慨を、日記『とはずがたり』に、こう記しています。

化粧坂といふ山を越へて、鎌倉の方を見れば、東山(ひんがしやま)にて京を見るには引き違(たが)へて、階(きざはし)などのやうに重々(ぢゅうぢゅう)に、袋の中に物を入れたるやうに住まひたる。あな物わびしとやうやう見えて、心とどまりぬべき心地もせず

元弘三年(1333年)、新田義貞はここ化粧坂や稲村ケ崎から鎌倉に攻め入りました。特にここ化粧坂は主力部隊が突入し、激戦地となりました。

それにしても…

この急な坂をほんとに馬で登れたんでしょうか?


がらがらと転げ落ちそうです。曲垣平九郎が愛宕神社の階段を馬に乗って登ったという話も、思い出してしまいました。


観光ツアーとおぼしき女性の一団が、キャーキャー言いながら下りていくのが、微笑ましかったです。

次回は、那須野の九尾の狐伝説で有名な源翁禅師の開いた海蔵寺や、北条政子、源実朝の墓のある寿福寺、藤原定家の孫・冷泉為相(れいぜいためすけ)の墓のある浄光明寺などを歩きます。お楽しみに。

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