鎌倉 扇ヶ谷を歩く(二)

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本日は「鎌倉 扇ヶ谷を歩く(二)」です。

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扇ヶ谷は鎌倉駅の西北、源氏山の山すそ一帯に広がるエリアです。源頼朝の5代前の先祖・源頼義が屋敷を構え、頼義の子・八幡太郎義家が後三年の役に出陣するに際し源氏山で戦勝祈願をしたといわれます。

また頼朝の父・義朝も、この地に住まいました。というわけで源氏にゆかりが深く、源氏関係の史跡がとても多いエリアです。また四季を通じてさまざまな花が咲き、景色も素晴らしいです。歴史散策にも、ハイキングにも、楽しめるコースです。

前回の「扇ヶ谷を歩く(一)」もあわせて、お聴きください。
https://sirdaizine.com/travel/Ogigayatsu1.html

景清土牢(かげきよつちろう)

前回からの続きです。化粧坂を下り、閑静な住宅街の中の坂道を下りて行きます。ここで、右をごらんください。


異様な岩がありますね。景清土牢(かげきよつちろう)です。

平景清は、平家一門に随い、屋島・壇ノ浦で勇名を馳せました。父は藤原忠清。藤原性ですが、俗に平景清と呼ばれます。また「強い」という意味の「悪」をつけて、「悪七兵衛景清」とも呼ばれます。

特に、屋島の合戦で逃げていく敵の背後から兜のしころを素手でひっぺがした「景清のしころ引き」は有名です。「しころ」とはかぶとの後ろにスカート状に広がり後ろ首を保護している部分です。

壇ノ浦で平家一門が次々と入水する中、景清は泳ぎが得意だったので生き延びました。

「滅びし平家の恨み、けして忘れぬ。目指すは頼朝の首!」

建久6年(1195年)東大寺の大仏再建供養に参列するため頼朝が上洛すると、

「頼朝、覚悟」
「なにっ」

だっだっだっだっだーー

「賊を、捕えよ」

「神妙にしろ!」

どたっ、

「無念…」

取り押さえられた景清は、鎌倉に護送されました。和田義盛、後に八田知家に預けられますが、自ら土牢にこもって食事を断ち、餓死したと伝えられます。

うねうねと曲がる坂道を登っていくと、


見えてきました。臨済宗の寺院・海蔵寺です。



鎌倉時代、ここに大きな寺院があったようですが、鎌倉幕府滅亡とともに衰退します。そして室町時代、鎌倉公方足利氏満の命令で、上杉氏定が源翁禅師を招いて臨済宗の寺院として再建したのが、ここ海蔵寺です。


玄翁禅師と謡曲『殺生石』

玄翁禅師は謡曲『殺生石』で有名です。

鳥羽上皇の時代、宮中に玉藻の前という美女があらわれ、上皇をたぶらかしていました。陰陽師安倍泰成が、見たところ、玉藻の前の正体は、金色に輝く毛に全身を覆われ、尾が九つに分かれた、妖怪・九尾の狐でした。

ケーーン

正体を見破られた九尾の狐は一声上げて、はるか那須野の地に飛び立ちますが、三浦義明らが矢を放ち、これを那須野の地に仕留めます。しかし、九尾の狐は死してなお、殺生石という大石になり、毒ガスを発生し、近づく者を次々と殺しました。

室町時代、玄翁禅師は那須野の地を訪れ、殺生石の上に杖を振り下ろすと、

ガチーーン

殺生石は粉々に砕け、九尾の狐の魂も救われたということです。この時の玄翁禅師の杖が鉄製で、先が金づちのように曲がっていたことから、かなづちのことを源翁と呼ぶようになったということです。

啼薬師

また源翁禅師と海蔵寺について、こんな話が伝わっています。

ある晩、源翁禅師が寝ていると、

ほんぎゃ、ほんぎゃ…

「ぬ?赤ん坊の声…?」

不審に思って外に出ると、それは土の中から聞こえてくるのでした。何なのだ?掘ってみると、薬師如来の頭部が出てきました。

「ああ…なんとありがたい」

そこで新たに薬師如来座像を作り、その胎内に、掘り出した薬師如来の頭部を収めました。ここ海蔵寺の仏殿にある薬師如来座像がそれです。


「啼薬師」とか「児護薬師」とよばれます。胸のところに扉があり、中に源翁禅師が掘り出した薬師如来の頭部が収められています。御開帳は60年に1度です。

底抜けの井

海蔵寺門前には、底抜けの井があります。



鎌倉幕府の有力御家人・安達泰盛の娘・千代能は北条顕時に嫁いでいましたが、弘安8年(1285年)、安達一族は霜月騒動と呼ばれる事件により反逆者とされ、北条氏によって滅ぼされます。

千代能は北条氏に嫁いでいるといっても、実家である安達氏が北条氏に反逆したわけで、ただではすまされませんでした。

夫北条顕時より離縁され、出家して尼となりました。かつては多くの侍女にかしづかれ、何不自由ない暮らしをしていたのに、濃き墨染の袖をまとい、仏に仕える身となりました。

ある月の明るい晩。千代能が桶で水を汲んでいると…

ざばっ

桶の底が抜けて、水が流れ落ちてしまいました。

「はっ」

千代能がいただく桶の底ぬけて水たまらねば月もやどらず

この時、千代能はすーーっと心が晴れて、悩みが消えたという…底抜けの井。海蔵寺門前にある、これがその、底抜けの井です。鎌倉十井の一つに数えられています。

十六の井

また海蔵寺の少し離れには、十六の井があります。切通しを抜けて、おもむきのある道を歩いていくと、



やぐらがあり、


そのやぐらの中に、十六個の井戸の跡があります。たこ焼きのホットプレートみたいですね!詳細は不明です。


阿仏尼の墓

今度は元来た道を引き返し、山を下ります。JR横須賀線の線路が見えてきました。右に折れます。線路に沿ってしばらく進むと、右手にやぐらがあります。


阿仏尼の墓です。

阿仏尼は鎌倉時代の女流文学者・歌人。『十六夜日記』の作者として有名です。『十六夜日記』は京都から鎌倉までの旅と、鎌倉滞在中の歌のやり取りなどをつづったものです。

どういう旅か?

お母さんが、息子のためにがんばるんです。阿仏尼の夫は、かの藤原定家の息子・藤原為家(ふじわらのためいえ)です。


その為家が亡くなり、阿仏尼の息子為相(ためすけ)が播磨国細川荘の土地を相続することになりました。

ところが阿仏尼は側室です。側室の子が相続するだと?許せん!ということで正妻の子、為氏(ためうじ)がなんやかんや言ってきます。ちょっと待て。親父がどう遺言したってその土地の権利は俺のもんだ。俺は嫡男だぞ、みたいに。

で、お母さんは立ち上がります。何言ってんのよあんた、私の息子に譲るって遺言で言ってんじゃないの。話ついてることをゴチャゴチャ言うんじゃないわよ。ハッ倒すわよと。まあ上品な尼さんですから、もっと上品に言ったと思いますけども。

で、そんなにゴネるなら裁判でハッキリさせましょうということで、鎌倉幕府に裁いてもらうため阿仏尼、単身京都から鎌倉へ向かうのです。60歳にして、息子のためにがんばるお母さん。パワフルです。

裁判しに行ったはずなのに『十六夜日記』には裁判のことは全く描かれておらず、むしろ道中の名所名所を華麗な文体でつづるのと鎌倉での歌のやり取りがメインになってます。風流さを前面に押し出しています。阿仏尼は歌人として有名だったのです。

裁判とか言いながら、けっこう旅そのものを楽しんでいたのかもしれませんね。

阿仏尼の墓はJR横須賀線の線路と向かい合っており、北鎌倉と鎌倉の間で車窓から見えますので、行かないまでも、窓から見て、ああ…アブツニさんの墓かあと思ってみてください。

次回は、扇ヶ谷を歩く(三)。鎌倉唯一の現存する尼寺・英勝寺・北条政子の墓のある寿福寺・藤原定家の孫・冷泉為相の墓のある浄光明寺を歩きます。お楽しみに。

本日も左大臣光永がお話しました。ありがとうございます。ありがとうございました。

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