大原を歩く(寂光院・三千院・勝林院ほか)

■【古典・歴史】メールマガジン

本日は京都市左京区の大原を訪ねます。

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大原は古くから平安貴族の隠棲の地であり、数多くの歌に詠まれています。のどかな田園風景の中、そこかしこに清水が流れ、山里の風情が漂います。柴漬け発祥の地でもあります。

ことに大原寂光院は平清盛の娘・建礼門院徳子が平家一門の菩提を弔った寺であり、後白河法皇が徳子を訪ねていく『平家物語』「大原御幸」は屈指の名文として知られています。

寂光院への道

京都駅から大原行きのバスに乗り、約1時間。バス停大原下車。

国道をはさんで西側に寂光院、東側に三千院や勝林院があります。

まずは寂光院を目指します。

大原 寂光院への道
大原 寂光院への道

途中、のんびりした風情ある田園風景が広がり、ちろちろと清水の音が響き最高の気分です。

大原 寂光院への道
大原 寂光院への道

大原 寂光院への道
大原 寂光院への道

大原 寂光院への道
大原 寂光院への道

大原 寂光院への道
大原 寂光院への道

大原といえばなんといっても『平家物語』「大原御幸」です。壇ノ浦の合戦の後、寂光院で平家一門の菩提を弔う建礼門院徳子。そこへ後白河法皇が訪ねてくるという話です。『平家物語』屈指の名文です。

かかりし程に、文治二年の春の比(ころ)、法皇、建礼門院大原の閑居の御住(おんすま)ひ、御覧ぜられまほしうおぼしめされけれども、二月(きさらぎ)三月(やよひ)の程は、風はげしく余寒もいまだつきせず、嶺の白雪消えやらで、谷のつららもうちとけず。春過ぎ夏きたッて、北祭も過ぎしかば、法皇夜をこめて大原の奥へぞ御幸なる。

(中略)

遠山(とほやま)にかかる白雲は、散りにし花の形見なり。青葉に見ゆる梢には、春の名残ぞ惜しまるる。比(ころ)は卯月廿日(はつか)余の事なれば、夏草のしげみが末を分けいらせ給ふに、はじめたる御幸なれば、御覧じなれたるかたもなし。人跡たえたる程も、おぼしめし知られて哀れなり。

■北祭 賀茂祭=葵祭のこと。

寂光院

平家物語を唱えつつ歩いていくと、

大原 寂光院への道
大原 寂光院への道

大原 寂光院への道
大原 寂光院への道

寂光院につきました。

大原 寂光院
大原 寂光院

寂光院は、推古天皇2年(594)、聖徳太子が父用明天皇の菩提を弔うために建立したと伝えられます。

大原 寂光院
大原 寂光院

大原 寂光院
大原 寂光院

壇ノ浦の戦いで平家一門が滅んだ後、生き残った平徳子(平清盛の娘)が、わが子安徳天皇はじめ平家一門の菩提を弔うためにここ寂光院にこもったことで有名です。文治2年(1186)後白河法皇が徳子を訪ねました。その様子は『平家物語』の最終幕をかざる「大原御幸」に描かれています。

西の山のふもとに、一宇の御堂あり。即ち寂光院是(これ)なり。ふるう作りなせる前水(せんすい)、木立、よしある様の所なり。「甍(いらか)やぶれては霧不断の香をたき、枢(とぼそ)おちては月常住の灯火をかかぐ」とも、かやうの所をや申すべき。

正面に本堂、

大原 寂光院 本堂
大原 寂光院 本堂

右に書院。

大原 寂光院 書院
大原 寂光院 書院

境内の池には清水が流れ込み、水音が常に絶えません。




水際の桜

池のほとりに後白河法皇の歌にまつわる「汀(みぎわ)の桜」があります。

大原 寂光院 汀の桜
大原 寂光院 汀の桜

庭の若草しげりあひ、青柳糸を乱りつつ、池の蘋(うきくさ)浪にただよひ、錦をさらすかとあやまたる。中島の松にかかれる藤なみの、うら紫にさける色、青葉まじりの遅桜、初花よりもめづらしく、岸のやまぶき咲き乱れ、八重たつ雲のたえまより、山郭公(やまほととぎす)の一声も、君の御幸(みゆき)を待ちがほなり。法皇是を叡覧あッて、かうぞおぼしめしつづけける。

池水に みぎはのさくら 散りしきて なみの花こそ さかりなりけれ  

大原 寂光院 千年の姫小松
大原 寂光院 千年の姫小松

大原女の起源

大原で頭の上にかごを乗せて柴漬けを売り歩く「大原女(おはらめ・おおはらめ)」は、建礼門院徳子とともに寂光院にこもった阿波内侍(あわのないし)のふだんの服装を、大原の女たちが真似たのが始まりと言われています。

大原 寂光院 大原女発祥の碑
大原 寂光院 大原女発祥の碑

寂光院放火事件

このように、豊かな物語のあふれた寂光院ですが、平成12年(2000)に放火されました。本堂と御本尊の地蔵菩薩立像も燃えてしまいました。現在の本堂とご本尊は平成17年(2005)に再建されたものです。犯人はいまだ捕まらないまま、すでに時効が成立しています。

建礼門院御庵室跡

寂光院の西隣りには、建礼門院御庵室跡があります。

建礼門院御庵室跡
建礼門院御庵室跡

建礼門院御庵室跡
建礼門院御庵室跡

右手にあるご使用の清水は今もこんこんと水をたたえています。

建礼門院 ご使用の清水
建礼門院 ご使用の清水

建礼門院徳子・平徳子(1155-1213)。平清盛の次女。母は平時子。承安元年(1171)後白河法皇の猶子となり、高倉天皇のもとに入内。翌承安二年、中宮となります。治承2年(1178)言仁親王、誕生。治承4年(1180)、言仁親王が3歳で安徳天皇として即位。養和元年(1181)、徳子は「建礼門院」の号を下されます。

建礼門院徳子
建礼門院徳子

この頃源平の合戦が始まり、寿永2年(1183)平家一門は安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ち。元暦2年(1185)3月、壇ノ浦で源義経軍に滅ぼされ、徳子の母二位尼時子が幼い安徳天皇を抱いて入水。建礼門院徳子も海に身を投げるも源氏方に救出され、同年5月、東山の長楽寺にて出家。この時徳子29歳。大原に移り、以後、平家一門の菩提を弔いつつ余生を送りました。

寂光院の東隣には長い石段の上に、建礼門院の陵があります。



建礼門院大原西陵(けんれいもんいん おおはらにしの みささぎ)です。

建礼門院大原西陵
建礼門院大原西陵

ひっそり静謐な空気に満ちています。


朧の清水

寂光院を後に、バス停大原まで引き返しますが、来た時とは一本となりのルートを取ります。道すがら、のんびりした田園風景の中にあらわれるのが朧の清水です。

朧の清水
朧の清水

朧の清水
朧の清水

出家した建礼門院が、京都から大原に移ってきた時、この清水のあたりで日が暮れた。折しも朧月が出ており、建礼門院の姿が清水に映し出される。そのあまりにやつれ果てていることに、建礼門院は涙を流したと伝えられます。


バス停大原まで戻り、国道の東側に渡ります。三千院の参道です。

大原 三千院 参道
大原 三千院 参道

大原 三千院 参道
大原 三千院 参道

三千院をはさんで南に呂川(ろせん)・北に律川(りつせん)という小川が流れます。

呂川
呂川

声明の二つの声調「呂」と「律」にちなみます。調子はずれのことを「呂律が回らない」と言う言葉の語源です。


呂川と律川はやがて合流して国道の西側(寂光院側)で高野川に流れ込みます。呂川沿いには柴漬けやお土産物の店がならび、参道の楽しさが満ちています。

三千院

三千院前の桜の馬場に来ました。風情あるお土産屋がならび、旅の気分が高まります。


大原 三千院 桜の馬場
大原 三千院 桜の馬場

三千院は伝教大師最澄が比叡山根本中堂を建てた時、比叡山東塔南谷の梨の大木の下にお堂を建てたのが始まりです。

大原 三千院 御殿門
大原 三千院 御殿門

応徳3年(1086)、東坂本梶井(大津市坂本)にお堂を建てて、堀河天皇皇子・最雲法親王が住持となりました。以後、代々皇室が住持を務める門跡寺院となり、梶井宮・梨本門跡といわれました。

明治以降、現在の地に移され三千院と呼ばれます。

客殿・聚碧園(しゅうへきえん)

まずは客殿です。

大原 三千院 客殿
大原 三千院 客殿

縁側から池泉廻遊式の庭園・聚碧園が見渡せます。

大原 三千院 聚碧園
大原 三千院 聚碧園

江戸時代の茶人・金森宗和による造営とされます。

宸殿

客殿から廊下づたいに宸殿へ。


有清園

宸殿を出ると有清園。

大原 三千院  有清園
大原 三千院  有清園

大原 三千院  有清園
大原 三千院  有清園

往生極楽院を中心とした庭園です。一面にびっしりしいたスギゴケが目にまぶしいです。

往生極楽院

往生極楽院。

大原 三千院  往生極楽院
大原 三千院  往生極楽院

大原 三千院  往生極楽院
大原 三千院  往生極楽院

平安時代末期の建物です。御本尊の阿弥陀三尊坐像の背が高いので、天井を突き抜けないように、舟底形に折り上げていることに特徴があります。

阿弥陀如来を中心に左右の観音坐像・勢至菩薩は日本式の「大和座り」に特徴があります。ちょっと腰を上げて前にせり出した感じです。

金色不動堂

紫陽花苑の中に金色不動堂。御本尊金色不動明王を安置。

大原 三千院  金色不動堂
大原 三千院  金色不動堂

観音堂

さらに階段を登って観音堂に至ります。

大原 三千院 観音堂
大原 三千院 観音堂

ここが三千院で一番高い位置です。身の丈三メートルの観音立像を安置。観音堂脇にずらりと並ぶ小観音像もありがたい感じです。

大原 三千院  小観音
大原 三千院 小観音

観音堂左脇には補陀落浄土をあらわした慈眼の庭が広がります。

大原 三千院 慈眼の庭
大原 三千院 慈眼の庭

三千院を後に、おみやげもの屋さんの賑わいの中歩いていきます。


律川にかかった橋のたもとに、熊谷次郎直実ゆかりの鉈捨藪。

鉈捨藪
鉈捨藪

文治2年(1186)法然上人が勝林院で南都北嶺の碩学と問答しました。「大原問答」です。

「ひたすら念仏を唱えよ」と言う法然に対して、興福寺・延暦寺の碩学たちはそんなバカなとさまざまな議論を仕掛けます。

熊谷次郎直実は法然のもとで出家して、蓮生と名乗っていましたが、おのれ比叡山興福寺のヤツラ、法然さまに何かしたらただじゃおかねえと、袖に鉈をひそませていました。

ところが、最初は法然に反感を持っていた南都北嶺の僧たちも、法然の穏やかな人柄と言うことの確かさに打たれ、

ついには皆で念仏を唱え、大原の山々に念仏がこだましました。

その様子を見て熊谷は持っていた鉈を藪の中に捨てたということです。

勝林院

律川を渡ると件の勝林院は目の前です。


律川
律川


勝林院
勝林院

勝林院。慈覚大師創建と伝えられるます。文治2年(1186)法然上人がここ勝林院で南都北嶺の碩学と問答した「大原問答」は有名です。

勝林院
勝林院

本堂には御本尊の阿弥陀如来坐像を安置します。大原問答の時、手から光を放って念仏が衆生を救う証拠を示したことから、「証拠の阿弥陀」とも言われています。

三千院近くには他にも見るべき寺寺がいくつもありますが、今回は優先して見ておきたいものがあったので、そっちへ急ぎました。

惟喬親王の墓です。

三千院や勝林院のある大原の中心部を離れ、国道を15分ほど南下します。バス停野村別れから徒歩10分。



のんびりした田園風景の中歩いていくと、


惟喬親王の墓・小野御霊神社
惟喬親王の墓・小野御霊神社

惟喬親王の墓と、惟喬親王を祀る小野御霊神社があります。

惟喬親王の墓
惟喬親王の墓

惟喬親王の墓
惟喬親王の墓

惟喬親王は文徳天皇の第一皇子。父天皇の寵愛篤く将来は必ず皇太子にと期待されていましたが、四男の惟仁親王が母方の実家・藤原氏の強い後押しで皇太子に立ち、清和天皇として即位しました。

皇位継承にもれた惟喬親王はご出家され、ここ大原小野の里に隠棲しました。


隠棲した惟喬親王の庵を、かつてお使えしていた在原業平が雪の中訪ねていく場面が『伊勢物語』に描かれています。

正月(むつき)におがみたてまつらむとて、小野にまうでたるに、比叡の山のふもとなれば、雪いと高し。しひて御室(みむろ)にまうでておがみたてまつるに、つれづれといともの悲しくておはしましければ、やや久しくさぶらひて、いにしへのことなど思ひいで聞えけり。さてもさぶらひてしがなと思へど、おほやけごとどもありければ、えさぶらはで、夕暮にかへるとて、

忘れては 夢かとぞ思ふ おもひきや
雪ふみわけて 君を見むとは

とてなむ泣く泣く来にける。

小野の里
小野の里

今回たどったコース

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