岡山城を歩く

こんにちは。左大臣光永です。

最近、市バスの窓がキュウクツだなあと思います。タテヨコに柱で区切ってある上に、ちょうど視線の位置に広告があって、邪魔です。その点、新幹線やリムジンバスの窓は広々して、夜の景色もつややかで、したたるように見えて、よいです。

講演録音「菅原道真の生涯」cd版、在庫わずかとなりました。お申し込みはお早めにどうぞ。
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菅原道真の出生から、少年時代・青年時代・宇多天皇に重く用いられ、右大臣にまで至るも、無実の罪を着せられ、大宰府に流され、死後、怨霊として恐れられ、やがて学問の神様に至るまで語っています。

2019年6月に京都で行った講義の録音です。

在庫あとわずかです。お申し込みはお早めにどうぞ。

本日は岡山城を歩きます。

岡山城は岡山駅からバスで10分。旭川に面した平城です。豊臣五大老の一人・宇喜多秀家が造営し、その後、小早川秀秋を経て、31万5200石の居城となり、明治維新まで続きました。

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岡山駅前

JR岡山駅下車。

駅前広場に桃太郎像と、

「青春感謝」の像が立ちます。

学ランにマントを羽織り、高下駄をはいて、バンカラな姿です。明治三十三年岡山市に創設され昭和二十五年廃校となった第六高等学校を記念して、同窓会有志によって建てられたものです。当時はこういう姿でさっそうと岡山市内を闊歩していたのでしょうね。

岡山後楽園

駅前から藤原団地行きのバスに乗り、バス停後楽園前下車。

旭川にかかる鶴見橋東詰の路傍に、「宵待草」の竹久夢二の歌碑が立ちます。

バス停の前が岡山後楽園の入り口です。

岡山後楽園は江戸時代を代表する大名庭園の一つです。岡山藩二代藩主・池田綱政(つなまさ)が、家臣の津田長忠(つだ ながただ)に命じて貞享4年(1687)着工。元禄13年(1700)完成したと言われます。

茨城県水戸市の偕楽園・石川県金沢市の兼六園とならび、日本三名園に数えられます。

「城の後ろにある園」という意味で「後園」と呼ばれていましたが、「※先憂後楽」の精神から造園されたものであるとして、明治4年(1871)、「後楽園」と改められました。

※先憂後楽 「天下の憂えに先んじて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ」。『范仲淹(はんちゅうえん)』「岳陽楼記(がくようろうのき)」より。すぐれた為政者は天下の人々が心配するより先に心配し、あらかじめ対策を立てる。そして天下の人が楽しむのを見届けてから、ようやく安心して自分も楽しむの意。東京小石川後楽園も、この言葉から。

岡山後楽園の一番の特徴は苔でなく芝生を大量に使っていることです。この地が砂質地盤で湿度が足りなかったため、芝生を使ったそうです。結果、明るくのびのびした印象になっています。

池や築山や建物が道や水路で結ばれ、歩きながら景色の変化を楽しめるよう工夫された、回遊式庭園です。

園内に馬場や弓場があって武道を奨励していたり、井田があって農業振興をすすめていたり、歴代藩主の思いがあらわれています。

明治17年(1884)岡山県に譲渡され、一般公開されました。昭和9年(1934)の水害、昭和20年(1945)の戦災で被害を受けましたが、江戸時代の絵図に基づいて復旧されています。

延養亭

歴代藩主の居館です。園内の景色が一望でき、客人の接待などもここで行われました。後楽園の中心的建物です。昭和20年の戦災で焼けましたが、昭和35年に往時のままに復元されました。

沢の池

園内中央の池です。

左から島茶屋のある中の島、釣殿のある御野島(みのしま)、白砂青松の美しい砂利島(じゃりしま)と三つの島があります。景色に変化がついて、面白いです。

唯心山

園内北側にそびえる築山です。

池田綱政の子、継政の時に築かれ、平面的だった園内に立体的な景観が加わりました。山腹には唯心堂があり、山頂からは園内を一望できます。気分いいです。

岡山城跡

表書院

岡山後楽園を後に、旭川にかかる桟橋をわたり、

岡山城本丸前に出ます。巨大な石垣がとても印象的です。

復元された廊下門をくぐり、

階段を登ると、表書院跡です。

建物は残っていませんが、部屋の間取りが示してあります。

表書院の一角に地下におりられるようになっており、400年前の宇喜多秀家時代の石垣が展示してあります。江戸時代に城を改築した時に埋め込まれてしまったものです。

岡山城の歴史

岡山城の前身は大永年間(1521-28)に領主金光(かねみつ)氏が築いた石山城です。

元亀元年(1570)、備前国邑久(おく)郡(現、瀬戸内市)の豪族・宇喜多直家が、金光宗高(かねみつ むねたか)を滅ぼし、天正元年(1573)頃までに石山城を改修し、入城しました。

宇喜多直家の改修した石山城は、現在の天守より西に300mほどの位置(市民会館や放送局のあたり)にありました。

宇喜多直家の息子、秀家は豊臣秀吉政権下で大いに用いられました。備前・美作・備中のうちに57万4000石の大大名となり、参議従三位に到り「備前大納言」と呼ばれました。そうなると石山城では手狭になったため、石山城の拡張工事をすることとなりました。

父直家の「石山城」をそのまま取り込む形で、石山の東「岡山」に旭川の流れを付け替え、それによって生じた土砂を低い丘の上に盛って、その上に新しい本丸を築きました。これは秀吉の指図とも言われています。

天正18年(1590)から普請が始まり、朝鮮出兵を経て、慶長2年(1597)天守が落成したことで完成をみました。

慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で宇喜多秀家は西軍についたため改易となります。かわって小早川秀秋が岡山城主となります。しかし慶長7年(1602)秀秋が若くして死に、小早川家は断絶しました。以後、池田氏31万5200石の居城となり、明治維新まで続きました。

明治2年(1869)国の所有となりましたが、管理維持が難しく、天守・月見櫓・西の丸西手櫓(にしのまるにしてやぐら)・石山門の4つを残して破却されました。これらは国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)の空襲で天守・石山門は焼失してしまいました。

現在の天守は昭和41年(1966)外観復元されたものです。同時に、不明門(あかずのもん)・廊下門・六十一雁木上門(ろくじゅういちがんぎうえもん)・周囲の堀などが外観復元されました。月見櫓・西の丸西手門のみが往時のままに現存する建物で、現在、重要文化財に指定されています。

月見櫓

本丸北西隅に月見櫓があります。

池田忠雄時代に建てられたもので、本丸唯一の、往時のままに現存する建物です。食料・物資の貯蔵などの軍事目的のほか、月見の宴の際、楼台としても使われたので月見櫓とよばれました。

天守

復元された不明門(あかずのもん)をくぐり、

坂道をのぼると、天守の礎石が移されています。

岡山城の天守は昭和20年(1945)空襲で焼け、昭和41年(1966)に鉄筋コンクリート製の天守が外観復元されました。それで、もとの天守の礎石をこちらに移してあります。

天守です。黒いです。強烈なインパクトです。

二重ニ階の入母屋造の上に、一重一階の入母屋造を重ね、さらに二重二階建の望楼を重ねた、三段構造です。さらに二重二階の塩蔵を付櫓として従えます。織田信長の安土城天主を模して築かれたとも言われます。

※下見板に黒漆が塗られていたため、陽の光が当たると烏の濡羽のように光ることから別名を「烏城(うじょう)」といいます。

※下見板 建物の外壁に、お互いに少しずつ重なり合うようり取り付けた板。

天守台が不等辺五角形であることが大きな特徴です。地形にあわせたのでしょうが、秀吉時代の大坂城本丸にも不等変多角形の曲輪が見られます。宇喜多秀家は秀吉に深く寵愛されたので、曲輪の形も秀吉の影響を受けたとも言われています。

昭和20年(1945)の空襲で焼失し、昭和41年(1966)外観復元されたものです。内部は歴史資料館になっています。

夢二郷土美術館

岡山城そばの蓬莱橋をわたってすぐに、レンガ造の夢二郷土美術館があります。

岡山県出身で明治・大正に活躍した画家・詩人の竹久夢二のコレクションを集めた美術館です。約3000点の作品・資料のうち、約100点が常設展示されています。なお竹久夢ニの生家跡は瀬戸内市にあり、復元されて、「夢二郷土美術館分館」となっています。

告知

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菅原道真の出生から、少年時代・青年時代・宇多天皇に重く用いられ、右大臣にまで至るも、無実の罪を着せられ、大宰府に流され、死後、怨霊として恐れられ、やがて学問の神様に至るまで語っています。

2019年6月に京都で行った講義の録音です。