大坂冬の陣の跡地を歩く

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こんにちは。左大臣光永です。焼き鳥屋で食べた後、串を竹筒に入れるじゃないですか。あれは、どういうことなんだろう?と思ってましたが、直接串を下げると店の人が手にケガをするから、あえて分けるのでしょうか。もしそうなら、優しい風習だと思います。

今日明日、二回にわたって大坂冬の陣の跡地を歩きます。

慶長8年(1603)征夷大将軍に就任した徳川家康は、天下統一の最後の総仕上げとして慶長19年(1614)20年(1615)の大坂冬の陣・大坂夏の陣で大坂城を攻撃。淀殿と秀頼は自害し、豊臣家は滅亡しました。今回は二度の大坂の陣のうち、慶長19年(1614)大坂冬の陣にしぼって、戦いの流れを解説しながら、その跡地を紹介していきます。

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大坂冬の陣 概要

慶長8年(1603)3月、家康は征夷大将軍に就任。二年後の慶長10年(1605)4月、征夷大将軍を息子の秀忠にゆずり、江戸幕府の礎をかためました。


徳川家康像(駿府城公園内 静岡)


二条城 二の丸御殿

家康の次なる課題は豊臣家の扱いでした。豊臣家はいまだ豊富な資金を持ち、越後金山や佐渡金山・銀山からの収入もありました。そしてそれらの資金をもとに大坂城に各地の浪人を集めていました。


大坂(大阪)城 天守(復元)

家康は豊臣家の財産を浪費させるため、秀吉の供養と称して方広寺はじめ各地に寺社をつくることをすすめました。信心深い淀殿は家康の誘いに乗りました。

方広寺の大仏殿造営は、秀吉供養の集大成となるはずの事業でした。その大仏殿落慶供養式が迫っていた慶長19年(1614)7月。家康は突如、大坂方に難癖をつけます。


方広寺の釣鐘

釣鐘に書かれた銘文に、問題がある。

「国家安康」これは家康の文字を二つに切り裂く呪いの言葉だ。

「君臣豊楽」これは豊臣家だけが栄えればいいと言っているのだ。


方広寺の釣鐘

よって落慶供養は延期せよと。これを受けて大坂方は穏健派の片桐且元(かたぎり かつもと)を弁解のため駿府に向かわせます。


駿府城巽櫓(復元)

しかし20日間の駿府滞在中、片桐且元は一度も家康との面会を許されぬまま、大坂に戻ってきました。

そこで片桐且元は3つの案を自ら考えて淀殿・秀頼に提案しました。

一、秀頼を江戸に参勤させる
一、淀殿を人質として江戸に差し出す
一、豊臣家は国替えして大坂城から出る

「どれか一つお選びください」

「な、な、こんなものが飲めるか!!」

10月1日、片桐且元は罷免されます。

さて片桐且元は大坂方の家臣ですが、形式上徳川の家臣でもあったので、それを勝手に追放したことが、徳川方にとって開戦の口実となりました。

片桐且元が大坂城を去ったまさにその慶長19年(1614)10月1日、徳川家康は大坂城に対する攻撃を命じます。これに対し大坂方は関ヶ原で浪人した者たちを集めて抵抗させました。

11月26日未明の鴫野・今福の戦いをはじめ、大坂城周辺各地で徳川方 対 大坂方の戦いが行われました。


豊臣秀頼像(玉造稲荷神社 大阪市中央区玉造)

しかし徳川方の大砲が大坂城に撃ち込まれると、淀殿はじめ大坂方首脳部は戦意を失い、12月20日、講和が成立しました。

では大坂冬の陣の各戦いについて述べていきます。

大坂城東北約2キロの鴫野(しぎの)・今福(いまふく)では大坂方の井上頼次(いのうえ よりつぐ)・小早川左兵衛(こばやかわさへえ)・竹田兵庫(たけだ ひょうご)らが2000の軍勢で守備していました。慶長19年(1614)11月26日未明、徳川方・佐竹義宣・上杉景勝6500の軍勢が攻撃をしかけます。

激しい銃撃戦となり、その合間に堤の上で合戦が行われました。29日まで戦況は一進一退しますが、大坂の木村重成や後藤又兵衛が加勢に駆けつけ、ついに徳川方の侵入を防ぎ切りました。

若宮八幡宮 大坂冬の陣 佐竹義宣本陣跡

では行ってみましょう。

大坂冬の陣の史跡はほとんどが大阪城周辺に集中しているため、廻りやすいです。おすすめは1日乗車券「エンジョイエコカード」です。地下鉄・バスが一日乗り放題で800円です。

大阪メトロ今里筋線(いまざとすじせん) 蒲生(がもう)四丁目駅下車。大阪の人は「がもよん」と呼ぶそうですが、私はその音を直に聴いたことは、ないです。

徒歩6分。若宮八幡宮(大阪市城東区蒲生4-3-16)。住宅街の中にある小さな神社です。

大坂冬の陣で徳川方・佐竹義宣が陣を置いた跡とされます。「大坂冬の陣 佐竹義宣本陣跡」の碑が立っています。

今福・蒲生の戦い跡

若宮八幡宮から徒歩6分。三郷橋稲荷(さんごうばしいなり)神社のかたわらに大坂冬の陣古戦場「今福・蒲生の戦い跡」の碑が立っています。

皇大神宮

さらに徒歩9分。皇大神宮があります。平安時代末期の創建で天照大神を祀ります。境内は鴫野・今福の戦いの舞台となった今福堤跡とされます。

八剱神社

皇大神宮を後に、寝屋川にかかる極楽橋をわたり、徒歩13分で八剱神社につきます。

大坂冬の陣ではこの八剱神社の鎮座する鴫野村に徳川方・上杉景勝が陣を置きました。境内に上杉景勝像があります。

慶長20年(1615)大坂夏の陣で大坂城は落城しました。五年後の元和6年(1620)二代将軍秀忠のもと、大坂城は徳川の城として作りかえられました。これを徳川大坂城といいます。

その、徳川大坂城築城の際、鴫野の地は水運にめぐまれているので、各地から集められた石材の集積所となりました。

境内に残る刻印つきの石は、大坂城に見られるものと特徴が似ており、徳川大坂城築城の際のものと見られています。

鴫野古戦場跡

八剱神社のすぐ西隣。城東小学校敷地内に「鴫野古戦場跡」の碑が立ちます。通りからフェンスごしに見えます。

博労淵・木津川口の戦い

大坂城西南約4キロの博労淵には大坂方の砦がありました。薄田兼相(すすきだ かねすけ)・米村六兵衛(よねむら ろくべえ)・平子主膳(ひらこしゅぜん)らが700の軍勢で守備していました。

慶長19年(1614)11月29日、徳川方の蜂須賀至鎮(はちすか よししげ)が5000の軍勢で攻撃をしかけます。この時、大坂方の守備隊長・薄田兼相は昨夜から遊女屋に泊まり込み、留守にしていました。

慎重に進めッ!蜂須賀至鎮が木津川口付近を軍勢を進ませると、敵はターン、ターーン!荻(おぎ)の茂みの中から狙撃してきます。

うぬぬ、この茂みをどうにかせんと話にならん。そこで蜂須賀至鎮は家康の本営に、荻を刈る一部隊を派遣してくれと要請します。家康はこの要請を容れ、石川忠総(いしかわ ただふさ)に命じて荻を刈り取らせました。

進めッ!遅れを取るな!蜂須賀至鎮と石川忠総は先陣争いをしましたが、満潮のためうまく進むことができず、九鬼守隆の手助けでようやく木津川を渡り、砦に突入します。

蜂須賀至鎮隊は上博労淵を攻め、石川忠総隊は下博労淵を攻め、大坂方の櫓を次々と落としていきました。

伯楽橋

大阪メトロ千日前線(せんにちまえせん)西長堀(にしながほり)駅 下車。徒歩7分。木津川にかかる伯楽橋(はくらくばし)あたりが、もとの博労淵です。石碑などは無いようです。

土佐稲荷神社

伯楽橋の近くの土佐稲荷神社は、土佐藩邸の跡地です。

狛狐が元気よくはしゃいでます。微笑ましいです。

岩崎弥太郎はこの地で会社を起こし、日頃よりこの土佐稲荷神社を篤く敬ったといいます。境内に岩崎弥太郎の旧居跡の碑があります。

明日は「大坂冬の陣の跡地を歩く(ニ)」真田丸周辺です。お楽しみに。

聴いて・わかる。日本の歴史~飛鳥・奈良
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第一部「飛鳥時代篇」は、蘇我馬子や聖徳太子の時代から乙巳の変・大化の改新を経て、壬申の乱まで。

第二部「奈良時代篇」は、長屋王の変・聖武天皇の大仏建立・鑑真和尚の来日・藤原仲麻呂の乱・桓武天皇の即位から長岡京遷都の直前まで。

語り継ぐ 日本神話
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上巻「神代(かみよ)篇」下巻「人代(ひとよ)篇」。

日本の神話を、『古事記』に基づき、現代の言葉でわかりやすく語った、「語り」による「聴く」日本神話です。

ダウンロード版・CD-ROM版の両方をご用意しています。

「おくのほそ道」現代語訳つき朗読
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月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。

『おくのほそ道』全章の原文と現代語訳による朗読とテキストpdfを含むのCD-ROMに、メール講座「よくわかる『おくのほそ道』」の配信を加えたものです。

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