大坂冬の陣の跡地を歩く(ニ)

こんにちは。左大臣光永です。先日、北野天満宮で「曲水の宴」があったので、行ってきました。平安王朝絵巻の中にまぎれこんだような、優雅なひとときでした。くわしくは後ほど。

本日は、「大坂冬の陣の跡地を歩く(ニ)真田丸周辺」です。

慶長8年(1603)征夷大将軍に就任した徳川家康は、天下統一の最後の総仕上げとして慶長19年(1614)20年(1615)の大坂冬の陣・大坂夏の陣で大坂城を攻撃。淀殿と秀頼は自害し、豊臣家は滅亡しました。今回は二度の大坂の陣のうち、慶長19年(1614)大坂冬の陣にしぼって、戦いの流れを解説しながら、その跡地を紹介しています。

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「大坂冬の陣の跡地を歩く(一)」はこちら
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真田丸の奮戦

信州上田城主・真田昌幸と信繁の父子は関ヶ原の合戦で西軍に与し、戦後、高野山に流されました。

その後、ふもとの九度山(くどやま。和歌山県九度山町)に移されましたが、父真田昌幸は慶長16年(1611)6月に亡くなりました。

慶長19年(1614)10月、大坂冬の陣が始まると真田信繁は豊臣秀頼の招きに応じて大坂城にかけつけました。

信繁が見た所、大坂城の最大の欠点、それは南の守りが弱いことでした。真田信繁はそこを指摘し、大坂方にはたらきかけ、大坂城の南東の一角に出城を築きます。これが真田丸です。

真田丸からは大坂城の総構えを見下ろせ、また南側には篠山(しのやま)という小高い丘がありました。防御や偵察に適していました。

慶長19年(1614)12月4日午前2時、東軍の前田利常隊の右先鋒・本多政重・山崎長門らが篠山に駆け上りますか、誰もいない。そこで左先鋒・山崎閑斉はと真田丸の堀際まで進む。

そのまま戦いもなく朝を迎えます。朝になると真田丸の兵がさんざんからかって挑発する。おのれブチ殺してやると城壁をよじ登ろうとすると、ターーン、ターーーンさんざんに銃撃され、ぎゃあ、ぐぎゃあと転がり落ちていく。

前田隊の第二陣まで壊滅し、井伊直孝隊・松平忠直隊でも250人の戦死者が出ました。徳川方は真田丸攻略をあきらめ、撤退していきました。

三光神社

大阪メトロ長堀鶴見緑地線(ながほりつるみりょくちせん)・玉造(たまつくり)駅、もしくは大阪環状線・玉造駅下車。徒歩1分。三光神社(さんこうじんじゃ)。18代反正(はんぜい)天皇の時代の創建と伝えられます。

かつてはこの三光神社のある宰相山が、真田丸と信じられていました。

境内に真田信繁(幸村)像と、

「真田の抜け穴」があります。

抜け穴は大坂城につながっていたといいます。実際の真田丸は、これより西へ4分の、明星(めいせい)中学校・高等学校の敷地内で遺構が見つかりました。

大鳥居の手前に一本足の旧鳥居があります。

第二次世界大戦中の空襲によって破損したものです。戦争の惨禍を今に伝えています。

真田丸顕彰碑・真田丸跡

三光神社から西へ徒歩4分。心眼寺坂(しんがんじざか)の中腹に真田丸顕彰碑が立ちます。

真田信繁が大坂方に味方するに至ったいきさつ、そして真田丸のことが簡潔に説明してあります。真田丸の跡は目の前の明星(めいせい)中学校・高等学校の敷地内です。

心眼寺

真田丸顕彰碑のすぐ東隣が心眼寺。

境内に真田丸出城跡の碑、

真田信繁の墓があります。

お賽銭が六文銭の形で捧げてあるのが、いい感じです。

玉造稲荷神社

ふたたび大阪メトロ玉造駅まで戻ります。東西に走る長堀通。

このあたりが大坂城の総構えの南の端だったようです。ここから北に向かって歩いていきます。大阪城へ近づいていくわけです。途中、玉造稲荷神社があります。

11代垂仁天皇の時代の創設とされます。聖徳太子が物部氏と仏教受け入れをめぐって争った時、戦勝祈願をしたこと。戦乱後、聖徳太子みずから観音堂を建立したことが伝えられます。

豊臣氏・徳川氏ともに大坂城の鎮守神として祀りました。江戸時代に入っても玉作神社は篤く信仰されました。代々の大坂城代が赴任する際には玉造神社に参って、定紋の提灯を奉納しました。

境内には見どころが多いです。

利休井。かつてここ玉造神社近くに千利休の屋敷があり、井戸があったことをしのんで、平成18年に建てられました。

豊臣秀頼像。

下膨れで貴族的な面立ち。いかにも運動不足そうな…肖像画に見る秀頼のイメージそのものです。

豊臣秀頼奉納の鳥居。慶長8年(1603)3月の奉納。

秀頼公胞衣塚(よなづか)大明神。

文禄2年(1593)豊臣秀頼誕生の時、母淀殿の胞衣(よな)…胎盤・胎児を包んでいた膜などを大坂城三の丸に埋めたと伝えられます。それがいろいろあって、玉造神社境内に遷されたものです。

石火矢(大砲)

大坂冬の陣の戦況は一進一退しました。豊臣方も、徳川方も疲労がたまってきました。そこで秀忠は思い切った積極戦術に切り替えようと家康に提案します。しかし家康は受け入れません。慎重に、大坂方の士気をくじく戦術を考えていました。

慶長19年(1614)12月16日、大砲300門を用意し、砲術の得意な者に撃たせました。大砲は大坂堺や近江国友の鉄砲鍛冶に造らせたものや、イギリス・オランダから輸入した大型砲もありました。

砲撃は12月16日から19日まで毎日行いました。ドゴーン…ドゴーン…多くは城まで届きませんでしたが、その中の一発が偶然にも天守に命中。

「ぎゃああああああああああ」

この砲撃で淀殿つきの侍女七・八人が死亡しました。

「な、何という…もうこんな怖いのは嫌じゃ!
講和!講和を!」

淀殿の気持は一気に講和へと傾きました。

この時の砲声は京都まで聞こえたそうです。当時の公家の日記に書かれています。公家の間では、砲声を聴く会がもよおされました。大坂城から聴こえる砲声で、一首詠んだりもしたでしょうか。

大坂城 天守

大坂城のある上町(うえまち)台地北部は、かつて石山本願寺の寺内町(じないちょう)として栄えました。

天正8年(1580)、石山本願寺が織田信長に降参した後は信長に接収されます。その後、一説によると信長も大阪に城を築こうとしたようですが、信長の大阪城構想について詳しいことはわかっていません。

天正10年(1582)本能寺の変で信長が討たれると、翌天正11年(1583)豊臣秀吉が賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を破って信長の後継者の坐に躍り出ます。

そこで秀吉は石山本願寺の跡地に城の造営を開始。天正14年(1586)五層の天守と総構(そうがまえ。大きく城全体を囲む堀)を持つ城が完成しました。

以後、秀吉・秀頼二代にわたる居城となるも、元和元年(1615)大阪夏の陣で落城。天守も焼失しました。大坂城は徳川の城として接収され、二代徳川秀忠の時に徳川の城として再建されました(徳川大坂城)。

しかしその徳川大坂城の天守も寛文5年(1665)の落雷で焼失しました。今の天守は昭和6年(1931)大阪市民の寄付で再建された三代目です。

復元にあたっては福岡藩主黒田家伝来の『大阪夏の陣屏風』が参考とされました。

内部は博物館になっており、二階から七階まで、大阪城の歴史がとことん学べます。

本町橋口の戦い

話をふたたび慶長19年(1614)大坂冬の陣にもどします。

大坂城西南約1.5キロの本町橋口(ほんまちばしぐち)には、徳川方の蜂須賀至鎮(はちすか よししげ)配下の中村重勝(なかむら しげかつ)隊が野営していました。

12月17日、大阪方の塙団右衛門直之(ばんだんえもん なおゆき)、長岡正近、御宿勘兵衛政友(みしゅくかんべえ まさとも)らが夜襲をしかけます。油断していた中村重勝隊は全滅。死者は100人を越えました。これにより塙団右衛門直之は大坂城内で有名になります。

本町橋

大阪メトロ中央線・堺筋本町駅下車。徒歩6分。本町橋です。

このあたりで塙団右衛門が徳川方に奇襲をしかけたと。本町橋は東横堀川(ひがしよこぼりがわ)の開削とともに豊臣秀吉の大坂城築城の際、架けられました。江戸時代に入ってからも大坂城と船場(せんば)をむすぶ重要な橋であり、橋の北東側には大坂西町奉行所が置かれていました。

二回にわたって大坂冬の陣の跡地を歩きました。いかがだったでしょうか。大坂冬の陣の跡地は大坂城周辺に集中しているので、まわるのはラクです。ガイドブック片手に歩いてみるのはいかがでしょうか。

次回から「鑑真和上」についてお送りします。お楽しみに。

北野天満宮の「曲水の宴」に行ってきました

先日、北野天満宮で「曲水の宴」があったので、行ってきました。平安王朝絵巻の中にまぎれこんだような、優雅なひとときでした。

北野天満宮ではこのような手順でした。

八人の歌人が、男性は狩衣、女性は小袿(こうちぎ)といった平安装束をまとって、遣水のほとりにすわる。歌人たちは歌題を確認。白拍子が中央の舞台で菅原道真公の歌(東風吹かば)を朗詠し、舞う。

水干を着た童子が遣水の上流で盃にお神酒を注ぎ、羽觴(うしょう。おしどりをかたどったお盆)に入れて、上流から次々と流す。

琴の音が響く中、歌人たちは歌題にしたがって歌を作る。

歌ができたら短冊に書く。書き終わったら盃を採り上げてお神酒をいただく。すべての歌ができたら短冊を集めて朗詠し、神前に奉納する、という流れでした。

盃が石などに引っかかった時は童子さんが棒の先でうまく流していました。いちばん小さな童子さんは四歳で、時々転びかけたり、微笑ましいことでした。

曲水の宴については藤原道長の日記『御堂関白記』に詳しく書かれているため、細かい作法まで知ることができます。北野天満宮では今後も『御堂関白記』等の史料にのっとり、平安時代の曲水の宴を、完全再現することをめざしていくようです。楽しみです。

発売中

聴いて・わかる。日本の歴史~飛鳥・奈良
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第一部「飛鳥時代篇」は、蘇我馬子や聖徳太子の時代から乙巳の変・大化の改新を経て、壬申の乱まで。

第二部「奈良時代篇」は、長屋王の変・聖武天皇の大仏建立・鑑真和尚の来日・藤原仲麻呂の乱・桓武天皇の即位から長岡京遷都の直前まで。

語り継ぐ 日本神話
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上巻「神代(かみよ)篇」下巻「人代(ひとよ)篇」。

日本の神話を、『古事記』に基づき、現代の言葉でわかりやすく語った、「語り」による「聴く」日本神話です。

ダウンロード版・CD-ROM版の両方をご用意しています。

「おくのほそ道」現代語訳つき朗読
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月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。

『おくのほそ道』全章の原文と現代語訳による朗読とテキストpdfを含むのCD-ROMに、メール講座「よくわかる『おくのほそ道』」の配信を加えたものです。