大阪城を歩く(一) 大手門~ニの丸

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こんにちは。左大臣光永です。三連休、いかがお過ごしでしょうか?

私は今日、東京目白に行ってきます。学習院大学のサークルのOB会があるのです。三ヶ月ぶりの目白です。今からワクワクしています。

さて、本日のメルマガは、

「大阪城を歩く(一) 大手門~ニの丸」です。

大阪城といえば豊臣秀吉。

豊臣秀吉といえば大阪城。

そういうイメージが強いですが…大阪城は豊臣時代だけでは、ありません。

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秀吉以前には大坂城の場所には石山本願寺がありました。石山本願寺が織田信長との11年間にわたる石山合戦に敗れると本願寺は大坂から追放され、広大な坊舎と寺内町は焼失してしまいました。

本能寺の変で信長が討たれると、羽柴秀吉はいち早く主導権を握り、柴田勝家を北陸に破って信長の正式な後継者の立場に躍り出ます。また秀吉は柴田勝家を破るのに前後して大坂に城を築き始めました。

3年かけて秀吉の大坂城は完成し、以後、秀吉・秀頼二代にわたる豊臣家の城として機能しました。

大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡すると、大坂城は徳川に接収され、江戸時代を通して徳川の城として江戸幕府の西国支配の拠点となりました。そして幕末。鳥羽・伏見の戦いで大坂城はほぼ城の全域が燃えてしまいます。明治以降は陸軍の用地とされました。そして昭和6年、秀吉時代、徳川時代と通算三代目の天守が市民の寄付によって再建されました。

このように石山本願寺時代、豊臣時代、徳川時代、明治から現代まで、長い期間をまたいで大坂城を見ていくことで、日本の歴史に対する理解が深まり、楽しさが増すはずです。

地下鉄中央線 谷町四丁目駅もしくは地下鉄谷町線 天満橋駅で下車。徒歩5分-10分ほど。


大手門

見えてきました。


大阪城の大手門です。


寛永5年(1628)徳川幕府により大坂城が再建された時に、この大手門も建てられました。大手とは、城の正面のことです。

見えてきました。


多聞櫓

大手門をくぐると、枡形とよばれる四角いエリアがあり、大手門と向かい合った二面は石垣で、その石垣の上には多聞櫓(たもんやぐら)があります。


多門櫓とは石垣の上に長く続く櫓のことです。


これらの石垣工事を行ったのは築城の名人として有名な加藤清正の嫡男・加藤忠広です。加藤忠広公の名がここで出て来るのは私は熊本出身として嬉しい限りです。

千貫櫓と乾櫓

すぐ左に見えるのが千貫櫓と戌亥櫓。



千貫櫓の名のゆらいは石山本願寺時代、織田信長の軍勢が石山本願寺勢を攻めていた。ところが、櫓からたくみに矢を射てくるので、織田勢は苦戦しました。そこで織田方の兵士たちか「銭を千貫払っても手に入れたい」といったことから千貫櫓と名付けられました。。

乾櫓は西の丸の乾…北西にあることから乾櫓といいます。

大坂城の歴史

大坂城のある上町(うえまち)台地北部は、かつて石山本願寺の寺内町として栄えました。

天正8年(1580)、石山本願寺が織田信長に降参した後は信長に接収されます。その後、一説によると信長も大坂に城を築こうとしたようですが、信長の大坂城構想について詳しいことはわかっていません。

天正10年(1582)本能寺の変で信長が討たれると、翌天正11年(1583)豊臣秀吉が賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を破って信長の後継者の坐に躍り出ます。

そこで秀吉は石山本願寺の跡地に城の造営を開始。天正14年(1586)五層の天守と総構(そうがまえ。大きく城全体を囲む堀)を持つ城が完成しました。

以後、秀吉・秀頼二代にわたる居城となるも、元和元年(1615)大坂夏の陣で落城。徳川の城として接収され、天守を含むほぼ全域が徳川の城として作り変えられます。

これを徳川大坂城といい、それ以前の石山本願寺時代・秀吉時代の大坂城がどうであったかは、ほとんどわからなくなってしまいました(秀吉時代の遺構は現在発掘が進んでいる)。

徳川の城としてはまず松平忠明が入り、元和5年(1619)幕府直轄となり、大坂城代(おおさかじょうだい)とよばれる代官が置かれました。

徳川再建の五層の天守は寛文5年(1665)の落雷で焼失。ついで慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いで主要な建物のほとんどが焼失していまいました。

明治維新後、大坂城跡は陸軍用地となりますが、昭和6年(1931)市民の熱意により天守が再建されます。太平洋戦争で大坂一帯は空爆を受けるも、天守は被害を免れました。戦後、大坂城一帯は緑豊かな史跡公園として整備され、現在も大阪市民と観光客の憩いの場となっています。

西の丸庭園

多門櫓くぐってすぐ左に曲がると、西の丸庭園です。



もうだいぶ紅葉してます。


遠足でしょうか…園児たちが遊び戯れていて微笑ましいです。


ここ西の丸公園は大坂城西の丸が昭和40年に芝生庭園として開放されたものです。


大坂城西の丸には秀吉時代には側室京極竜子の御殿があり、秀吉没後は秀吉正室おね(北政所)の屋敷が、ついで徳川家康の屋敷が置かれ。江戸時代には大坂城の最高責任者である「大坂城代」の屋敷が置かれました。

大坂城代屋敷跡
大坂城代屋敷跡

焔硝蔵

西の丸庭園北部には焔硝蔵(えんしょうぐら)があります。


鉄砲・大砲に使う火薬を保管した蔵です。どっしりした石造りの蔵です。


六番櫓

西の丸公園から出て分岐点まで戻り、南に進みます。遠足の幼稚園生たちが元気に通り過ぎていきます。

見えてきました。

六番櫓(ろくばんやぐら)です。


寛永5年(1628)建造。大坂城南外堀に面して、かつては東から順に一番櫓から七番櫓まで七棟の櫓が建っていました。しかし戊辰戦争と第2次世界大戦で焼失し、現在残っているのはこの六番櫓と、この後行きます一番櫓のみです。


ニの丸

三度分岐点に立ち戻ります。緑の屋根が印象的な修道館を右手、


内堀を左に見ながら進んでいきます。このあたりがニの丸です。



すぐに内堀にかかった橋が見えてきます。


この橋を渡れば本丸ですが、その前に、豊國(とよくに)神社に参拝していきましょう。

豊國神社

豊臣秀吉・秀頼・秀次を祀った神社です。


明治のはじめ中之島に創建され、昭和36年(1961)に大阪城内の今の位置に遷されました。

境内に入ると豊臣秀吉像が迎えてくれます。




戦争中の金属供出で撤去されましたが、戦後、オリジナルに忠実に再建されました。

逆光でいまいち残念な写り具合となりましたが、多くの人がなるほどこれぞ秀吉だとイメージする、典型的な秀吉顔だと思います(彫刻家 中村晋也氏による)。



一番櫓

豊國神社の東隣が一番櫓です。


これも六番櫓と同じく寛永5年(1628)建造。大坂城南外堀に面して、かつては東から順に一番櫓から七番櫓まで七棟の櫓が建っていました。しかし戊辰戦争と第2次世界大戦で焼失し、現在残っているのはこの一番櫓と、さっき見ました六番櫓のみです。

では二の丸を後に本丸に向かいます。


大阪城を歩く(ニ)」に続きます。

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