大阪城を歩く(ニ)本丸~天守閣

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こんにちは。左大臣光永です。久々に東京に来てます。

昨夜は学習院大学OB会で同輩後輩たちと飲んで、楽しかったです。歩き慣れた目白も池袋も、旅人として訪れると、また違う情緒がありますね。

さて本日は「大阪城を歩く(ニ)本丸~天守閣」。
前回からのつづきです。

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桜門

二の丸を後に本丸に向かいます。


内堀にかかった石橋を渡ると桜門。


徳川幕府が大坂城を再建した時に建てられた門です。門の右側の巨石を竜石、左側の巨石を虎石といい、あわせて竜虎石。カッコいいですね。雨がふると竜と虎の姿が浮かび上がったということです。

蛸石

桜門をくぐると、

真正面に蛸石(たこいし)。


大坂城で一番大きな巨石です。高さ5.5m、幅11.7m。広さは畳36枚分。蛸石という名前の由来は雨が降ると石の表面に蛸の姿が浮かび上がるから。快晴だったので残念ながら蛸はよくわかりませんでした。

120キロ離れた瀬戸内海の犬島から運んできたといいます。「えっどうやって」と思いますよね。天守閣内で上映されているビデオで詳しく解説してます。

本丸

本丸です。広々してます。


右手にはミライザ大阪城(旧大阪市立博物館)。


ショップやレストランが入った建物です。左手に日本庭園。なんか真田のコスプレした人たちがステージやってますね!


天守閣

そして本丸正面にそびえるのが天守閣です。


秀吉の築いた天守閣は大坂夏の陣(1615)で焼失し、二代徳川秀忠の時に徳川の城として再建されました。しかしそれも寛文5年(1665)の落雷で焼失しました。今の天守閣は昭和6年(1931)大阪市民の寄付で再建された三代目です。復元にあたっては福岡藩主黒田家伝来の『大坂夏の陣屏風』が参考とされました。


内部は博物館になっており、二階から七階まで、大坂城の歴史がとことん学べます。


石山本願寺時代、秀吉時代、徳川時代の大坂城についての解説や、

パノラマビジョンによって秀吉の生涯を再現した「からくり太閤記」、

大坂夏の陣のハイライト、真田幸村隊と松平忠直隊が激突するシーンのミニチュアなど、


楽しい展示が多く、子供たちも喜んでました。

八階は展望台です。

東には森林公園と、はるか彼方に生駒山が。


南には大阪城全景が、はるかに通天閣が、さらにはるかに金剛山が見渡せます。


山里丸

では天守から出て、天守北側の通路を進んでいきます。


山里丸。


ここ山里丸は秀吉時代、樹木を生い茂らせ、山里の風情を出した風雅な空間でした。秀吉が千利休に茶を立てさせ、みずからも茶を立てました。正妻の高台院が、側室の淀殿が桜の宴に興じた場所でもあります。しかし誰が予想しえたでありましょうか。そんな風雅な山里丸が、豊臣家滅亡の舞台となろうとは!

淀殿・秀頼自刃の碑

山里丸の一画に「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」の碑が立ちます。


元和元年(1615)5月7日夕刻、大坂城の天守は炎上しました。

大坂城は前の大坂冬の陣の講和条件によりすべての濠を埋められており、まったく防御力を失っていました。徳川方の猛攻に耐えられるものではありませんでした。ついに徳川方への内通者が城内から火を放ちました。

5月8日、秀頼の妻千姫は家臣の導きで脱出します。秀頼と淀殿は天守閣の下の倉に隠れていましたが、8日の朝、自害しました。秀頼は享年23。淀殿は49歳くらいと思われます。こうして大坂夏の陣は終わり、豊臣氏は滅亡しました。

極楽寺橋

内堀にかかった極楽寺橋を渡ります。


正面の木々がだいぶ紅葉してます。

内堀には御座船が浮かび、優雅な雰囲気です。


青屋門

極楽寺橋を渡って内堀沿いの道を歩いていくと、左に見えてくるのが青屋門です。


ここは天守から見て東北の鬼門に当たるため、特に大切な門です。普段は閉じられていた開かずの門でした。第二次世界大戦で破壊され、現在の青屋門は昭和44年(1969)再建されたものです。

門の向こうに見えるイチョウが見事です。



去年の今頃は東京の佃島でイチョウを見ていたなあとしみじみ思い出していると…

あらっ、よく見たら落ち葉で文字を書いてある。


HAPPY HALLOWEEN

と読めます。なかなか凝ったことしてますね。


梅林(市正曲輪)

本丸の東側、内堀と外堀にはさまれたエリアには、梅林が広がります。


うっすらと紅葉して、いい色合いです。


このあたりは豊臣秀頼の重臣・片桐且元(かたぎり かつもと)の屋敷跡と伝えられます。片桐且元は東市正(ひがしのいちのかみ)という役職だったので、この一画を「市正曲輪(いちのかみくるわ)」とも称します。


片桐且元は大坂冬の陣の直前、大坂方の代表として駿府の徳川家康との交渉を試みました。しかし且元は家康に面会すら叶わず、虚しく大坂に戻ってきました。


大坂城では淀殿や強硬派の大野治長(おおのはるなが)らが、片桐且元のやり方は生ぬるい、おおかた家康と通じているのだろうといって、片桐且元を大坂城から追放しました。

しかし片桐且元は豊臣家の家臣であると同時に徳川家康の家臣でもあるので、それを勝手に追放するとはけしからんと、徳川方が開戦に踏み切る大義名分を与えてしまいました。こうして始まったのが大坂冬の陣です。

蓮如上人袈裟がけの松

さらに進んでいくと、


蓮如上人袈裟がけの松が見えてきます。



浄土真宗本願寺の第八世・蓮如上人が晩年に大坂を訪れ、坊舎を築いた時、本願寺の繁栄を願って松の木に袈裟をかけた。これはその松の切り株と伝えられます。


松のそばに猫がいました。毛づくろいの最中で、とてもかわいかったです。


蓮如上人は大坂を晩年の隠居場所にするつもりだったようですが、蓮如没後の享禄5年(1532)、山科本願寺が日蓮衆徒と近江の六角定頼の連合軍に焼き討ちにされたため、山科から大坂に本山が移ってきて石山本願寺となりました。

以後、石山本願寺は大いに勢いを増します。寺内町が発達し「摂州第一の名城」と讃えられました。戦国時代には11代顕如の下、一向一揆の総元締めとして、名だたる戦国大名たちにも劣らぬ一大勢力となりました。

元亀元年(1570)から天正8年(1580)の11年間にわたる織田信長との石山合戦の末に、石山本願寺は信長に降伏。講和条件により大坂を離れて紀州鷺宮(さぎのもり)・貝塚・天満(てんま)を経て、天正19年(1591)京都に移りました。

石山合戦の末期に織田信長との講和を説いた顕如の派閥と、徹底抗戦を主張した教如の派閥の対立はその後も長く引きずり、慶長7年(1602)、西本願寺・東本願寺に分裂して、今に至ります。

二回にわたって大阪城を歩きました。大阪城は説明板といい展示物といい、とてもわかりやすく親切です。大阪城の歴史を楽しみながら学ぶことができます。また子供さんが楽しめる展示物やイベントも多いので、ご家族連れもおすすめです。大阪に立ち寄った際には、ぜひ大阪城に行ってみてください。

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