逢坂の関跡を歩く

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こんにちは。左大臣光永です。

年の瀬も迫り、すっかり冷え込んできましたが、いかがお過ごしでしょうか?

私は先日、琵琶湖の西・高島という所に行ってきました。継体天皇にまつわる史跡が多く、また儒学者の中江藤樹の出身地でもあり、得るところが多かったです。楽しいひとときでした。

案内してくださったYご夫妻さま、ありがとうございました!

さて先日再発売しました『百人一首 全首・全歌人 徹底詳細解説cd-rom』
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すでに多くのお買上げをいただいております。ありがとうございます。
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さて本日は、「逢坂の関跡を歩く」です。

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これやこの行くも帰るも別れては
知るも知らぬも逢坂の関


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これこそが、行く人も帰る人も、何度も別れてはまた逢う、知る人も知らない人も、ここで逢う。その名も逢坂の関なのだ。

京都と大津を結ぶ逢坂山は古くから交通の要衝でした。ここに築かれた逢坂の関は、平安時代には既にすたれましていましたが、すたれた後も逢坂の関の名は歌枕として残り、歌や文学作品に詠まれ続けました。

逢坂の関のたもとには百人一首でおなじみの琵琶法師「蝉丸」が住んだという伝説があります。現在、逢坂関跡の周辺には蝉丸を祀る社が3つあります。

蝉丸神社・関蝉丸神社上社(せきせみまるじんじゃ かみしゃ)・関蝉丸神社下社(せきせみまるじんじゃ しもしゃ)です。本日はその3つとも、訪ねて歩きます。

蝉丸神社

京阪(けいはん)電鉄京津(けいしん)線 大谷(おおたに)駅下車。


大谷駅という、その名の通り、V字型の谷の底にある駅です。

駅のスグ北側に、蝉丸神社。


うなぎの「かねよ」がすぐそばにあり、


警備員が休憩中でしょうか。神社の境内で弁当食べてて、のんびりした空気でした。


嵯峨天皇の弘仁13年(822)小野岑守が、旅人の守り神である猿田彦神を山上の上社に、豊玉姫命を麓の下社に祀りました。その後、逢坂関の近くに住んだ伝説的な琵琶法師「蝉丸」を上社・下社に合祀しました。


ここ蝉丸神社は、それら関蝉丸神社上社・下社の分社(分霊を祀る神社)として建立された社です。また、上社・下社・蝉丸神社の三社を総称して「蝉丸神社」という場合もあります。


蝉丸は琵琶の名人なので、蝉丸神社は音曲・芸能の神社として信仰されてきました。


名神高速道路の音が響く中にも、木々に囲まれ、神々しい雰囲気が漂ってます。

蝉丸

これやこの行くも帰るも別れては
知るも知らぬも逢坂の関

これこそが、行く人も帰る人も、何度も別れてはまた逢う、知る人も知らない人も、ここで逢う。その名も逢坂の関なのだ。

蝉丸は逢坂関の近くに住んだという盲目の琵琶法師で、その出自も経歴も謎に包まれています。『平家物語』では醍醐天皇第四皇子という話になっていますが定かなことではありません。

百人一首に採られたこの歌のほか、勅撰和歌集に全四首を採られています。

『今昔物語』には管弦の名人源博雅が蝉丸の庵に三年間通って曲を立ち聞きし、ついに「流泉」「啄木」の秘曲を会得した逸話が記されます(『今昔物語集』巻第24 第23話)。

車石

蝉丸神社の脇に車石があります。


車石は車の往来がしやすいように、東海道の大津~京都まで約12キロにわたって敷設された石です。この上を牛車が通ったわけです。牛車の轍の跡が、往年の逢坂の関の賑わいを物語っています。

蝉丸神社のそばには「逢坂の関跡」の石碑があります。


逢坂の関は近江(滋賀県)と山城(京都)との境にある逢坂山の南の峠に設けられた古代の関所です。伊勢の鈴鹿関、美濃の不破関と並んで、三故関と称されます。


大化の改新翌年の詔で設置されたと見られていますが、詳しいことはわかりません。

平安京遷都の翌年795年、関は廃止されますが、その後も歌枕として残り続けました。「逢う」という言葉と掛詞にされることが多いです。

関蝉丸(せきせみまる)神社上社(かみしゃ)

東海道(国道1号線)を大津に向けて歩いていきます。車がビャンビャン飛ばしてきて怖いです!しかも歩道が無いし!


しばらく歩くと左手に関蝉丸神社上社の石段が見えてきました。



朱塗りの竹の鳥居に「蝉丸」と書かれた扁額が印象的です。どうやら石の鳥居は折れてしまったようです。竹の鳥居は臨時のもののようです。

拝殿からさらに上ると本殿。


東海道から分岐する西近江路(国道161号線)に入ります。もうだいぶ麓まで下りてきました。


左手に京阪電鉄の線路をはさんで関蝉丸神社下社があります。


もともとはこの関蝉丸神社下社がはじめで、後に関蝉丸神社上社と対になって関の守護神・道祖神として信仰されたようです。最初に訪ねた蝉丸神社は関蝉丸神社の分社(分霊を祀る神社)です。


入り口近くに旅人の喉の乾きを癒やした関清水跡と、紀貫之の歌碑があります。


逢坂の関の清水にかげみえて
今やひくらむ望月の駒

拾遺和歌集・170・紀貫之

「望月の駒」は長野県佐久郡の放牧場の馬。そこの馬を毎年8月23日に「駒迎え」といって朝廷に迎える際、逢坂の関で受け取りました。

歌の意味は、逢坂の関の清水に秋の名月が映り込んで、ちょうど今ごろ、望月の駒が逢坂関のあたりを駒迎えのために引かれている頃だろうかと想像している歌です。

社の裏手には小野小町の住んだ跡の小町塚がある…と聞いていましたが、残念ながら私には見つけることができませんでした。次回の課題とします。

もう大津の町中まで下りてきました。大津には三井寺・近江神宮・天智天皇の近江大津京跡・壬辰の乱で敗れた弘文天皇陵など、見どころだらけです。改めて別の回に。

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