小野篁ゆかりの六道珍皇寺とその周辺を訪ねる

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こんにちは。左大臣光永です。あなたはこのお正月、夢を見ましたか?

私は見ました、先日、へんな夢を。
題して「アカマツ病の流行」です。

アカマツを見たり、触らないではいられないという病気です。テレビで中継してるんです。ここ東京神楽坂では、アカマツの前に、長蛇の列ができています!そしてなぜか熊本弁で、「あ~アカマツば見たか~」「アカマツば触りたか~」なんて言ってました…

さて本日は京都・東山に、小野篁ゆかりの六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ・ろくどうちんこうじ)・六波羅蜜寺・安井金比羅宮を訪ねます。

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六道珍皇寺

松原通~六道珍皇寺

京阪本線清水五条(きよみずごじょう)駅から松原通りに入り、清水寺方面に向けて歩いていきます。


このあたりは平家一門の館のあった六波羅の跡地です。その名残はほとんどありませんが、「ハッピー六原」という商店街があります。ううーん…平家一門の夢の跡がハッピー六原…感慨深いものがあります。



左に見えてきました。六道珍皇寺です。


六道珍皇寺は建仁寺の塔頭で、「六道さん」の愛称でしたしまれています。このあたりは平安京の葬送地・鳥部野の入り口にあることから、六道の辻…この世とあの世の境とみなされていました。

平安時代初期の官僚であり文人である小野篁は、六道珍皇寺の本堂裏の井戸から夜な夜な地獄世界に降り立ち、閻魔大王の助手をしていたと伝えられます。

境内には小野篁像、閻魔像、迎え鐘、小野篁が地獄へ行き来するのに使ったという井戸の跡があります。

毎年8月7日から10までの4日間は、「迎え鐘」をついて先祖の霊を迎える、「六道まいり」が行われます。

閻魔・篁堂

中に入ります。境内は、ごくこぢんまりとしています。



本堂右手に見えるのが、「閻魔・篁堂」です。


右手に笏を持ち、衣冠束帯姿の等身大の小野篁立像と、小野篁作と伝えられる閻魔大王坐像が安置されています。

小野篁像の顔は下ぶくれで、眉をしかめ、いかにも不満をかかえた、ひねくれ者の感じです。あーあ…イヤんなっちゃうよ。ぶつぶつ…そんなつぶやきも、聞こえてきそうです。

小野篁は平安時代前期の役人であり学者であり歌人である人物です。嵯峨、淳和、仁明三代の天皇に仕えました。

遣隋使で知られる小野妹子の子孫であり、孫に書家の小野道風(おののみちかぜ、とうふう)がいます。美人の代名詞である小野小町も篁の孫と父とも言われます。

しかしこの小野篁。あやしい伝説の多い人物です。昼間は宮廷に役人として仕えながら、夜は京都六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)の裏手にある井戸から冥途世界に下り、閻魔大王に仕えていたといいます。

わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと
人には告げよ海人の釣船 参議篁

百人一首11番に小野篁の歌は採られています。

「あの人は大海原に広がる島々をめざして漕ぎ出していったよ」都にいる愛しい人にこう告げてくれ。漁師の釣舟よ。

小野篁は優秀な才能を認められ、嵯峨上皇より遣唐副使に任じられます。

しかし破損した船に乗せられそうになったことに腹を立て、大使藤原常嗣(ふじわらのつねづく)と対立。病気といつわって乗船を拒否します。

「やってられない。今更危険を犯して中国にわたったって
学ぶことなんかあるか。もう阿倍仲麻呂の時代とは違うんだぞ…」

ふてくされて家で寝ていました。ヘソを曲げた小野篁はさらに遣唐使を批判した「西道謡(さいどうよう)」という長編の詩を作り発表します。

「うむむ…篁、いい加減にせいよ」

こうして篁は嵯峨上皇の怒りを買い、隠岐の島へ配流となります。

この歌は難波で、いよいよ大海に乗り出す際に都に残してきた大切な人(恋人?)のことを思って詠んだ歌です。

これから島流しになろうというのに、しみったれた感じはなく、むしろ雄大な詠みっぷりです。自分を励ますためにそのように詠んでいるのかもしれませんが…。

篁はその文才を惜しまれ、2年後には島流しを許されて中央政界に復帰。参議にまで登りました。

迎え鐘

閻魔・篁堂の隣には、迎え鐘があります。


普通、鐘というと鐘つき堂の中に外から見える形で姿をさらしていますが、この鐘は鐘つき堂の中にとじこめられていて、中を見ることはできません。

綱一本で外界とつながっており、外から綱をひっぱって、ごーーんと鳴らすのです。深く、こもった音がします。


この音が十万億土の冥土まで響き渡り、お盆に、死者をこの世に迎えるのです。

篁冥土通いの井戸

本堂です。


本堂右手には、篁冥土通いの井戸があります。

小野篁が地獄と行き来する際に使ったという井戸です。格子窓から覗くことができます。



草木も眠る丑三つ時。

木の間にもれる月明かりを頼りにざっざっざと歩いてくる者があります。うらさびしい深夜の寺の境内におよそそぐわない立派な衣冠束帯姿で歩いてくるこの人物こそ、小野篁です。

きょろきょろ。

「よし。だれも見てはいないな…てやっ!」

井戸の入り口から、高野槇(コウヤマキ)のツルをつたって、するするするするーーと篁は冥途世界まで降りていきます。

こうして閻魔大王の下で一晩中、裁判の助手をつとめ、朝になると、朝になると化野(あだしの)の福生寺(ふくせいじ)の井戸、もしくは蓮台野の千本閻魔堂の井戸から地上に戻ってきたといいます。

この入口と出口が違うとこなんか、いかにも「秘密の通路」ぽくてワクワクしませんか?)

また、こんなエピソードも伝わっています。

西三条大臣とよばれた藤原良相(ふじわらのよしみ)が病を得て、亡くなりました。亡くなった藤原良相は閻魔大王の前に引っ立てられますが、大王の横に顔なじみの小野篁の姿がありました。

「なっ…篁!なぜそんなところに!!」

篁は、閻魔大王に言います。

「この方は正直でよい人物です。許してあげてください」

「はっ!!」

目を開くと、藤原良相は生き返っていました。

その後、宮中で藤原良相は小野篁を呼びとめ、

「篁殿、あの、そのあの時は、イヤまったく…」

しかし篁は指をちっちっちとやって、

「あなたが以前私のことを弁護してくれたから、
その恩返しをしたまでの話です。このことは誰にも話さないように…」

以後、藤原良相はいよいよ篁を恐れ、一目置くようになったということです。

六道珍皇寺のそばには、六波羅蜜寺があります。口から六つの仏像を出す空也上人像や、伝平清盛像は、教科書でおなじみですね。


天暦5年(951年)空也上人が手ずから刻んだ十一面観音立像(りゅうぞう)を本尊として西光寺を創建しました。その後、弟子の中信が、地名の「六原」と仏教語の「六波羅蜜」を掛け合わせて寺の名としました。

「六波羅蜜」とは、仏教で自分を磨くための六つの修練のことです。

平氏館跡・六波羅探題跡碑

境内から本堂へ向かう途中に、「此付近平氏六波羅第跡 六波羅探題府」と刻まれた石碑が建ちます。


この地は平家一門の館があった場所であり、承久の乱の後に鎌倉幕府の京都出先機関・六波羅探題が置かれました。

本堂

本堂前には本尊の十一面観音立像のレプリカが立っています。本物は本堂に安置されています。12年に一度、辰年の11月から12月にかけての33日間のみ公開されています。次回公開は8年後の2024年11月です。



宝物館

本堂脇の宝物館には、教科書で有名な空也像、伝平清盛像、運慶・湛慶像、弘法大師像などがあります。六波羅蜜寺一番の見所です。

特に、運慶・湛慶の父子の像は感動的でした。父運慶は、いかにもたたき上げの職人という野性味のある感じです。スケベそうです。対して息子湛慶はふくよかで育ちがよさそうです。豊かな暮らししてるなあという、小学校の校長先生のような印象がありました。

父運慶と子湛慶の像が並んでいるので、その人柄の違いがハッキリ見て取れ、父と子の会話まで聞こえてきそうでした。人物像は、面白いですね。仏像はあまりに理想化されすぎて、ツルンとした感じもするのですが、人物像は、欠点もあり、不平不満もある、生の人間くささが出ている感じで、私は好きです。

安井金比羅宮

今度は松原通りから東大路通りに出て、八坂神社方面にしばらく歩きます。すぐ左に見えてくるのが、絵馬堂や縁切り・縁結び碑(いし)で有名な安井金比羅宮(やすいこんぴらぐう)の参道です。



安井金比羅宮は崇徳上皇・大物主神・源頼政を祀ります。保元の乱で敗れた崇徳上皇の御魂を慰めるため、建治年間(1275-1277)後白河法皇の勅願により建立された光明院観勝寺が、その始まりと伝えられます。

その後、光明院観勝寺は応仁の乱で荒廃しますが、寺の跡に太秦安井(右京区)にあった蓮華光院を移築、さらに讃岐の金比羅宮(ことひらぐう)を勧請し、金比羅宮で祀られていた大物主神と源頼政、そして崇徳上皇を祀ったことから、安井の金比羅さんの名で知られるようになりました。


縁切り・縁結び碑

境内には「縁切り・縁結び碑(いし)」と呼ばれる巨大な石が立ちます。


ここに「形代(かたしろ)」という身代わりのお札を貼り付けて、表側から裏側に穴を通ると悪縁が切れ、裏側から表側に戻ってくると良縁が結ばれるということです。年末ということもあり、長い行列ができていました。

私もやってみましたが、おおぜいの人に見守られるので、けっこう照れました。


次回は、蹴上インクラインを歩きます。

本日も左大臣光永がお話しました。ありがとうございます。ありがとうございました。

本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

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