京都 蘆山寺 紫式部ゆかりの寺を歩く

こんにちは。左大臣光永です。週の半ば、いかがお過ごしでしょうか?
台風が猛威をふるって心配ですね。こんな時期ではありますが、
現在、祇園祭前の京都に滞在中です。

バスに乗ると、たくさんの京都の地名が聴けて、耳がしあわせです。
というわけで、

本日は、京都御所のすぐ東、蘆山寺を訪ねます。
紫式部の邸宅跡と伝えられる寺で、毎年節分に行われる
「鬼法楽」で有名です。この時期は、庭にキキョウが咲いて、見事です。

▼音声が再生されます▼

蘆山寺
蘆山寺

蘆山寺
蘆山寺

紫式部の歌

めぐり逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に
雲隠れにし 夜半の月かな

境内には紫式部とその娘・賢子(かたいこ)の百人一首の歌碑があります。いいですね。歌碑は。これだけで気分が高まり、風景に、ドラマが添えられます。旅のわくわく感が増します。

蘆山寺 紫式部・第弐三位の歌碑
蘆山寺 紫式部・第弐三位の歌碑

(意味)
たまに姿を現したかと思うとその姿を見定める暇さえ与えず、
すぐに雲に隠れてしまう月のように、
あなたは久しぶりに来てくれたというのに 
もう帰ってしまうんですね。
あなたが確かに昔なじみのあなただと、見定める暇もないうちに…

久し振りに幼馴染が、紫式部を訪ねてきてくれたのです。
まあどうしてたの。ずいぶん顔見せなかったじゃないの。
それが、旦那がうるさくってねえ。

久し振りの女同士のおしゃべりは、大いに盛り上がります。

(ああ…もっともっと、夜を徹して語り合いたい!)

わくわくする紫式部。しかし!
友人はやおら立ち上がり、

「じゃあ私はそろそろ」
「えっ、今来たばかりじゃないの。
もっとゆっくりしていけばいいのに…」

「ごめんなさいね。そうもいかなくて…」
「そうなの…まあ、それじゃあ仕方ないわね…」

友人は月と競い合うように、そそくさと帰っていく友人の、
その後ろ姿を見送る紫式部。

(もうちょっと話したかったのに…。
でもそんなこと言ったら面倒な女と思われるかも…)

そこで紫式部 詠みました。

めぐり逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に
雲隠れにし 夜半の月かな

式部の内気で、可愛い感じがよく出ていると思います。

かわいいと言えば、これは蘆山寺ではないですが、
大津の石山寺にある紫式部像がめちゃくちゃ可愛いです。
数ある紫式部像の中でも、最高のものだと思います。
背後からひょっこり顔を出しているのが娘の賢子(かたいこ)です。

石山寺 紫式部像
石山寺 紫式部像

続いて、式部の娘第である第弐三位(藤原賢子)の歌碑です。

第弐三位の歌

有馬山 猪名の篠原 風吹けば
いでそよ人を 忘れやはする

有馬山から猪名の笹原に風が吹き渡ると、笹はそよそよとそよぎます。さあ、まさにそれですよ。そんなふうに、いつも貴方のことを心にかけている私です。どうして忘れることなどありましょう。

この歌は、賢子のもとに以前は通っていてなかなか通わなくなった男が、逆に「あなたの心変わりが心配です」なんて文を送ってきました。その時、まあ失礼しちゃうわ。心変わりしたのは貴方でしょう。私はこんなに、あなたを思っているのですよ、という歌です。

「有馬山」は摂津の国・有馬郡(現在の兵庫県神戸市北区有馬町)の山。「猪名」は有馬山の東北を流れる猪名川周辺の地名で笹原がありました。「有馬山」と「猪名」でセットで詠まれることが多いです。

有馬山の猪名の笹原にそよそよと風が吹いているわけです。「いで」は「さあ」というくらいの意味の掛け声で、「そよ」は「そうですよ」という肯定の意味と、風の「そよそよ」という音を掛詞にしています。

有馬山の猪名の笹原に、そよそよと風が吹いている。さあ、そうですよ。そんなふうに、「人」…あなたのことを、「忘れやはする」忘れるもんですか。ちゃんと、あなたのことを意識してますよ。忘れてませんよ、という歌です。

有馬山 猪名の篠原 風吹けば
いでそよ人を 忘れやはする

説明すると技巧がまさっていてうるさい感じもしますが、声に出して詠むと、「いなのささはら」や「いでそよ」といった言葉の運びが気持ちよく、リズムのある歌です。

作者大弐三位(だいにのさんみ)は藤原宣孝と紫式部との間に生まれた娘です。本名賢子(かたこ・かたいこ・けんし)。太宰府大弐高階成章(だざいのだいに たかはしのなりあきら)の結婚し、後一条天皇の乳母となり三位の位を賜りました。このため夫の官位名とあわせて大弐三位と呼ばれました。

式部の曽祖父・藤原兼輔

この地に紫式部の曽祖父藤原兼輔が邸宅を築きました。兼輔が築いた邸宅は鴨川の西の堤防に接しているため「堤邸」と呼ばれ、兼輔は「堤中納言」と呼ばれていました。

(ちなみに有名な古典『堤中納言物語』とは何の関係もありません)その後、息子の為頼、その弟為時へと堤邸は伝えられました。

そして為時の娘紫式部は曽祖父兼輔以来の、この堤邸で生涯の大半を過し、夫宣孝との結婚生活を営み、一人娘賢子(かたいこ)を育て、『源氏物語』を執筆したと伝えられます。曽祖父以来の、文学的素養の上に立っているわけですね!

源氏の庭

さて、中庭に向かいます。蘆山寺中庭は紫式部にちなみ、「源氏の庭」と呼ばれています。

蘆山寺源氏の庭
蘆山寺源氏の庭

白砂の上に所々島のように苔が覆い、6月から9月にかけてはキキョウが靜かに花開いています。庭の中央には「紫式部邸宅址」と彫られた石碑が立ちます。縁側に腰掛けて、ぶらぶら足を投げ出して、見学するのは、いい気分です。

蘆山寺源氏の庭 紫式部邸宅址
蘆山寺源氏の庭 紫式部邸宅址

ああ…ここで、少女時代の紫式部が、お父さんの藤原為時から、漢文の講義を受けていたかもなあ、などと。

しかしこの、大勢の人間が縁側に腰掛けている姿は、釣堀のようにも見え、後ろからちょっと離れて客観的に見ると、妙な感じです。

石庭で有名な嵯峨野の龍安寺も、縁側にそれはたくさんの人が足をぶらぶらして釣り糸をたれており、笑えました。釣れますか、いやまあ釣れますかって釣堀ですから。釣れるとか釣れないって話でもないですな。そんな会話も聞こえてきそうな。

蘆山寺縁起

だいぶ遅くなりましたが、蘆山寺の縁起です。

蘆山寺は、正式には廬山天台講寺(ろざんてんだいこうじ)といい、天台系圓浄宗(えんじょうしゅう)の大本山です。洛陽三十三所観音霊場第33番札所(ふだしょ)に数えられます。

「天台系」なので、天台宗を母体としながらも、独自の発達を遂げた独立した宗教です。

平安時代初期の天慶年間(938年~947年)、第18代天台座主良源(りょうげん)によって京都の北・船岡山に築かれた與願金剛院(よがんこんごういん)を前身とします。

寛元三年(1245年)、法然の弟子住心房覚瑜(じゅうしんぼうかくゆ)が出雲に廬山寺を開きました。

そして南北朝時代、與願金剛院と廬山寺を兼ねた明導照源上人(みょうどうしょうげんしょうにん)が二つの寺が統合し、その名も廬山天台講寺(ろざんてんだいこうじ)としました。

室町時代に応仁の乱、元亀3年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちにより難を受け、天正元年(1573年)豊臣秀吉の都市計画によって現在の位置(京都御所東)に移されました。

その後、相次ぐ火災により堂宇が焼失したため、光格天皇(1771-1840)が仙洞御所(上皇・法皇の御所)を一部を移築され、現在に到ります。

鬼法楽

また廬山寺は、毎年2月3日の節分に行われる追儺式鬼法楽(通称鬼おどり)で有名です。松明と宝剣を持った赤鬼・大斧を持った青鬼・大槌を持った黒鬼が暴れ狂うのを、護摩の修法と邪気払いの法弓によって退散させるという筋です。

村上天皇の御世、当山開祖元三大師良源(がんざんだいしりょうげん)が宮中で三百日の護摩経を行っていました。

むんむんむんむん…

ひたすらに護摩をたき経を唱える元三大師良源。

「そこまでだ」
「今や朝廷はわれらのもの」
「正義は、滅びた」

「何やつ!」

「我は貪欲」
「我は瞋恚(しんい)」
「我は愚痴」

すなわち人間の三つの悪欲をあらわす、
赤鬼・青鬼・黒鬼の姿でした。

瞋恚(しんい)とは、怒りや恨みのことです。

「うぬぬ…悪しき者どもめ。
お前たちの好きにはさせん!ぬんぬんぬぬんぬんきえーーーっ」

やっちまえ。

やらせぬ!

苦闘の末、元三大師良源は三匹の鬼を退散させました。

この故事にちなみ、毎年節分の日に人間を害する三つの毒である鬼を追い払う行事が行われます。鬼法楽の鬼の着ぐるみは、かなりぶあつく、冬といえども暑そうです。中の人が脱水症状を起こさないか、ちょっと心配になります。

スマホ対応しました

というわけで…現在、当左大臣プロジェクトでは全サイトのスマートフォン対応を進めているところです。これまでパソコンでしか音声が聴けなかった音声が、スマホからも聴けるようになっています。

百人一首も全首、スマホから聴けるようになりましたので、スマホでアクセスされている方は、ぜひお試しください。
http://sirdaizine.com/Downloads/Ogura100/Ogura100_sm00.html

次回は、『徒然草』の吉田兼好ゆかりの
吉田神社を訪ねます。

本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。