関ヶ原古戦場を歩く(三)大谷吉継陣跡~松尾山・小早川秀秋 陣跡~本多忠勝 陣跡

こんにちは。左大臣光永です。

京野菜を毎日食べまくってます。住宅街の、町家の軒先とかで売ってるのが、お土産屋さんで売ってるのより安いです。それでいて味は濃厚です!シャッキシャキです。わりと虫食いだらけで売ってるのも、生きてるって感じで、よいです。

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本日は、「関ヶ原古戦場を歩く(三)」大谷吉継陣跡~松尾山・小早川秀秋 陣跡~本多忠勝 陣跡まで歩きます。

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関ヶ原古戦場を歩く(一)
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関ヶ原古戦場を歩く(ニ)
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平塚為広 碑

前回のつづきです。

宇喜多秀家 陣跡を後に、

藤古川ダムにかかった橋をわたり、

つきあたりで左に折れ、道沿いに進んでいきます。見えてきました。平塚為広 碑。

平塚為広 碑

平塚為広は大谷吉継の盟友。美濃垂井1万2000石の領主。合戦当日、病に冒されていた大谷吉継にかわり、戦闘を指揮しました。藤堂高虎隊・京極高知隊の攻撃を退けるも、小早川秀秋の裏切りにより一気に形勢不利となり、奮戦の末、藤川台で討ち死にしました。

大谷吉継 陣跡

大谷吉継 陣跡と墓は鬱蒼とした山の中です。

大谷吉継 陣跡

大谷吉継。早くから秀吉に仕え石田三成らとともに各種奉行を務めました。小田原征伐、朝鮮出兵(文禄の役)も石田三成とともに参加。船や物資の手配に見事な活躍をしました。

「大谷吉継に100万の兵を与えて采配をふるわせてみたい」とは秀吉の弁です。

しかし文禄の役の後、吉継は病が重くなり隠居します。吉継の病とは「悪疾」「悪瘡」などと史料にあり、ハンセン病と考えられています。

慶長5年(1600)家康が上杉討伐に会津に向かうと、大谷吉継は上杉討伐に加わるため、兵を率いて敦賀から近江垂水まで進みました。そこで、古くからの友人である石田三成に佐和山城に招かれます。

「家康が上杉討伐で上方から離れている。この機に兵を挙げようと思う」

それを聞いて吉継は、

「お前には人望が無い。知恵はあるが胆力に欠ける。どうしてもやるなら毛利輝元を大将に立てよ」

吉継はなお数日考えた結果、三成に味方することを決めたとされます。越前敦賀城主であった吉継はすでに越前から侵攻しつつあった前田利長の軍勢を退けるも、家康が上杉攻めを切り上げて西上しているという三成の報告を受け、急遽、美濃に向かいました。

9月3日。関ヶ原西南・松尾山に向かい合う山中村に布陣。手前には与力である脇坂・朽木・小川・赤座らが布陣しました。

9月15日。関ヶ原合戦の当日。吉継は合戦が始まっても陣所を動かず、戦いは養子の大学助と家来の平塚為広に任せていました。

吉継ははじめから小早川が裏切ることを予想し、松尾山に目を光らせていました。

ここからふもとの景色が見渡せます。むこうに松尾山が見えます。ベンチがあるので一休みできて、よいです。

大谷吉継 墓

大谷吉継 陣跡のすぐ北側に大谷吉継 墓。

大谷吉継 墓

正午過ぎ、案の定小早川が背くと、大谷隊は松尾山に兵を繰り出し、小早川勢を数度にわたって押し返します。しかし、その機に乗じて藤堂高虎隊・京極高知隊が攻撃を仕掛けてくる。のみならず、吉継の与力であった朽木・赤座・小川・脇坂らがいっせいに背きます。

「左様か」

大谷吉継は家臣の湯浅五郎から報告を受けると、すべてが終わったことを悟り、自刃しました。湯浅五郎はその首をはね、土に埋めた上で討死。吉継の首は見つかりませんでした。

大谷吉継の墓と、湯浅五郎の墓は並んで立っています。

脇坂安治 陣跡

これより松尾山を目指します。

東海道新幹線の下をくぐり、名神高速道路の下をくぐります。

途中、振り返ると伊吹山が見えます。

伊吹山

うっすらと雪化粧したその姿。気分高まります。松尾山の正面に脇坂安治 陣跡。

脇坂安治 陣跡

脇坂安治は早くから秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍に数えられ数々の戦功を立てました。関ヶ原合戦の時は淡路洲本(すもと)3万3千石の大名でした。大谷吉継の与力として吉継隊の右手に布陣しましたが、東軍藤堂高虎からの調略を受けていました。寝返るチャンスを狙っていたようです。小早川秀秋が寝返ると、ここぞと脇坂も続きます。朽木隊・小川隊・赤座隊とともに大谷吉継隊に襲いかかり、壊滅させました。

松尾山・小早川秀秋 陣跡

松尾山麓から山頂まで40分。ひたすら歩きます。

小早川秀秋。

秀吉の正室・北政所の兄・木下家定の五男。はじめ豊臣秀吉の猶子になり、秀吉の正室おねが可愛がられました。

しかし秀吉の側室淀殿が秀頼を生むと、秀吉の愛情も薄れ、小早川隆景の養子に出されます。隆景が死ぬと、筑前・筑後二国と肥前の一部計37万石を手に入れました。

最初の朝鮮出兵…文禄の役の時は九州名護屋城の留守を任されただけでしたが、次の慶長の役では大将として海を渡りました。しかし、大将の立場を忘れた軽率な振る舞いを戦後秀吉に非難され、越前北庄15万石に減封転封されました。秀吉の死後、家康のはからいで旧領に復帰。そのため、小早川秀秋は家康に頭が上がらなくなりました。

関ヶ原の前哨戦・伏見城の戦いでは東軍の味方をして伏見城に入ろうとしました。しかし、城を守る鳥居元忠に拒まれ、やむをえず石田三成の西軍に加わって伏見城を攻めました。

関ヶ原合戦当日、小早川秀秋は1万5000の大軍を率いて松尾山山頂に布陣していましたが、家康の調略を受けており、正午過ぎについに裏切り、東軍の勝利を決定的なものにしたことは有名です。

小早川秀秋がなかなか寝返らないのにシビレを切らした家康が、ふもとから銃撃した。びびった小早川は裏切りを決めた…という話がありますが、疑問視されています。

ふもとから鉄砲撃っても、絶対ここまで届きませんし、音が聞こえてもそれが家康の鉄砲とはわからないはずです。

『関ヶ原合戦屏風』などに松尾山は小高い丘として描いてありますが、丘どころじゃない。松尾山は高く険しいんです。高さを抜きにしても、主戦場である関ヶ原盆地中央からはだいぶ離れています。鉄砲撃って威嚇したという話はあやしいと思います。

小早川秀秋は関ヶ原合戦直後の佐和山城攻めで家康から先鋒を命じられています。関ヶ原・佐和山攻めの功績により、秀秋は旧宇喜多秀家領の岡山55万石に加増転封されますが、二年後の慶長7年(1602)21歳で早世しました。

大谷吉継の怨霊に取り殺されたとかいう話もありますが、実際には酒の飲み過ぎだったようです。

福島正則 陣跡

松尾山を下ります。藤古川を渡り、住宅街の中を歩いていくと、春日神社と福島正則 陣跡があります。

福島正則 陣跡

福島正則は幼い頃から秀吉に仕えました。毛利攻めではあちこちの戦で活躍。明智光秀を討った山崎の戦い、柴田勝家を討った賤ヶ岳の合戦でも活躍。

とくに賤ヶ岳では「賤ヶ岳七本槍」一番として加藤清正らと共に武名を上げました。これらの功績により伊予今治(いまばり)11万石の領主となります。

朝鮮出兵のあたりから石田三成とそりがあわなくなります。天正13年(1585年)、豊臣秀次が自害すると、その居城であった清州城の城主とされました。

秀吉死後、家康支持に回ります。

慶長5年(1600)家康が会津討伐に向かっているスキをついて石田三成が挙兵。その知らせを受けて家康は関東から引き返しますが、その時、下野小山の地で、まっさきに家康支持を表明したのが福島正則だったといいます(小山評定。ただし近年疑問が持たれている)。

関ヶ原合戦の前哨戦となった岐阜城攻めでも功績を立てます。

関ヶ原の合戦当日は東軍最左翼に布陣し、開戦直後、西軍の宇喜多秀家隊を銃撃。その後も宇喜多秀家隊を主な敵として戦いました。

合戦後、安芸・備後の二国を与えられ、広島城主となります。しかし二代将軍秀忠の時代に入ると、広島城を勝手に改築した罪であるといって、領土を没収され、信濃にわずかな領地を与えられ、失意のうちに没しました。

碑は春日神社の境内にあります。境内には、『関ヶ原合戦屏風』にも描かれた樹齢800年の「月見の宮大杉」がたたずみます。見事な枝ぶりです。

月見の宮大杉

藤堂高虎・京極高知 陣跡

次の藤堂高虎・京極高知 陣跡は、関ヶ原中学校の敷地内にあります。入っていいのかなあと不安になりますが、いいんです。

藤堂高虎・京極高知 陣跡

藤堂高虎は秀吉の弟・秀長に見出され秀吉によって大名に取り立てられましたが、秀吉没後は家康に接近しました。

京極高知は京極高次の弟。兄高次は近江の大名。浅井三姉妹の次女・初を妻として迎えたことで有名です。関ヶ原の合戦に先駆け、大津城にこもって西軍方1万5000の攻撃を受けて奮戦しました。

関ヶ原合戦では東軍最左翼・福島正則隊の右後方に布陣していました。合戦が始まるや西軍方・大谷吉継隊の平塚為広らと戦い、やがて小早川秀秋の裏切りにより大谷吉継隊が切り崩されると、これを攻め落としました。

関ヶ原中学校の生徒さんが、こんにちは、こんにちはと気さくに挨拶してきます。そういう教育方針なんでしょう。普段馴れないことなので、焦りました。しかし笑顔でこんにちはを返しました。

西首塚

合戦終了後、家康は陣場野で首実検を行い、敵味方の遺体を東西二箇所に分けて葬りました。東首塚に対し、こちらは西首塚です。

西首塚

西首塚

東軍・西軍の死体を埋めたとも、首と胴に分けて埋めたとも、説が分かれます。国道21号線沿いにあり、びゃんびゃん車が飛ばしてくるので、怖いです。

西首塚

本多忠勝 陣跡

本多忠勝 陣跡は民家に囲まれた小さな空地にあります。「入っていいの?」と気が引けますが、いいんです。

本多忠勝 陣跡

本多忠勝。幼くして家康に仕え、13歳で初陣。生涯57回戦って、一回も傷を負うことがありませんでした。「徳川四天王」の一人に数えられます。

家康と武田信玄が争った三方ヶ原合戦の前哨戦・一言坂の戦い、家康と豊臣秀吉が争った小牧・長久手の戦いでは、味方の逃げ道をつくるために最後まで戦場に踏みとどまって戦いました。

名槍「蜻蛉切」は、槍の穂先に止まったトンボがまっぷたつに切れたことから。

本多忠勝の武勇は敵味方問わず、讃えられました。「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭と本多平八(武田家臣・小杉左近)」「花も実も兼ね備えた武将(織田信長)」「日本第一、古今独歩の勇士(豊臣秀吉)」

…武勇だけではありません。関ヶ原の合戦では西軍方に書状を送り、東軍につくように工作しました。

合戦当日は松平忠吉隊・井伊直政隊とともに西軍の島津隊・小西隊などと戦いました。合戦終了後、福島正則が本多忠勝の武勇を褒めると、「采配がよかったのではない。敵が弱すぎただけだ」と言ったとか。

関ヶ原の功績により、戦後、伊勢桑名に10万石を与えられました。

死の数日前、小刀で自分の持ち物に名前を彫っていると、手元があやまって指先を切ってしまった。そこで「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな」とつぶやいたという逸話は有名です。

三日間にわたって関ヶ原古戦場を歩きました。東軍・西軍の各陣跡に石碑が立ち、のぼりが翻り、案内板も親切なので道に迷うことがありません。歩きながら関ヶ原合戦当日の様子を追体験することができます。また景色もとても綺麗です。ぜひ歩いてみてください。

本多忠勝 陣跡

次回は「関ヶ原を歩く(四)」徳川家康 最初陣跡から吉川広家 陣跡までです。お楽しみに。

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聴いて・わかる。日本の歴史~崩れゆく江戸幕府
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八代将軍徳川吉宗、田沼意次時代、松平定信時代、11代将軍徳川家斉の大御所時代を経て、天保14年(1843)に水野忠邦が失脚するまで。江戸幕府後半約130年間の歴史の流れを32話に分けて解説した音声つきdvd-romです。詳しくはリンク先まで。

■10/27 京都講演「声に出して読む 小倉百人一首」
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第四回。33番紀友則から48番源重之まで。会場の皆様とご一緒に声を出して歌を読み、解説していきます。百人一首の歌のまつわる名所・旧跡も紹介していきますので観光のヒントにもなります。