関ヶ原古戦場を歩く(四)徳川家康 最初陣後~吉川広家 陣跡

こんにちは。左大臣光永です。

先日、久しぶりにビジネスホテルに泊まりました。どうやったらここまで部屋をピカピカにできるのか、感心しました。テレビの裏や、換気扇の内側などまで。よく掃除してありプロ根性を感じました。

■耳で聴く 歴史解説音声
「下剋上と戦国時代の幕開け」「天下統一への道」
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■10/27 京都講演「声に出して読む 小倉百人一首」
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本日は、「関ヶ原古戦場を歩く(四)」徳川家康 最初陣後~吉川広家 陣跡まで歩きます。

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前回まで 関ヶ原古戦場を歩く(一)~(三)
http://sirdaizine.com/travel/Sekigahara1.html
http://sirdaizine.com/travel/Sekigahara2.html
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徳川家康 最初陣跡(桃配山)

前回からの続きです。関ヶ原の中心部を後に、国道21号線を南宮山方面にひたすら進みます。右手に南宮山がしだいに大きく見えてきます。

ガソリンスタンドの横に登り口があります。

徳川家康 最初陣跡(桃配山)です。壬申の乱の時、大海人皇子が兵士たちに山桃の実を配って激励したのが桃配山という名の由来です。家康も大海人皇子の勝利にあやかろうとゲンをかついだようです。

山頂にある二つの岩は、家康が軍議のために椅子とテーブルとして使ったと伝えられます。

関ヶ原合戦 開戦までの流れ

関ヶ原合戦開戦までの流れをもう一度まとめておきます。

慶長5年(1600)5月末、徳川家康は越後の上杉景勝討伐のため上方を留守にしていました。そのスキをついて、石田三成が毛利輝元を大将にかついで挙兵。8月1日、伏見城を落とし、8月11日、大垣城に入ります。

石田三成挙兵の第一報は7月19日、江戸にいる家康のもとに届きました。しかし家康は意に介さず、下野古河から小山まで軍を進めました。そこへ再度、書状が届き、三成が味方を集めていることが家康に伝えられます。

「もはや見逃せぬ」

家康は石田三成討伐のため諸将を西へ向かわせます。家康自身は江戸に戻り、じゅうぶんに準備を整えてから9月1日、江戸を出発しました。東海道沿いの国々を通過しながら、9月13日、美濃に入ります。

美濃に入った家康は大垣城北西の赤坂に陣を取ります。はじめ家康は、大垣城を水攻めするつもりでした。しかし軍議を行ったところ、大垣城の石田三成は無視して、三成の居城である佐和山城、さらにその先の大坂城を攻めようということになりました(諸説あり)。

しかも家康はこの情報を故意に大垣城の三成に流したようです。三成はこうしてはおれぬと9月14日午後7時、大垣城を出て、南宮山南の牧田路を通って関ヶ原に向かいました。

関ヶ原は中山道、北国街道など道路が集中する交通の要衝。ここで家康を迎え撃とうと三成は考えたのでした。

夜半過ぎ、家康は三成が大垣城を出た報告を受けると、東軍諸将に中山道を通って関ヶ原へ進撃するよう命じます。

15日午前1時、西軍主力部隊が関ヶ原に到着。

15日午前5時。東軍先鋒部隊が関ヶ原に到着。午前7時。東軍、関ヶ原に布陣を完了。家康自身は関ヶ原を西に見下ろす桃配山(ももくばりやま)に本陣を置きました。

西軍の多くは事前交渉により東軍に寝返りを約束しており、動きませんでした。それで楽勝かと思いきや、西軍は意外にも奮戦するので、家康は苛立ちました。

馬に乗ったまま参上した家臣の野々村四郎右衛門を、苛立ちに任せて刀で斬りつけたという話が残っています。

午前11時頃、家康は前線の兵士たちを鼓舞するため、桃配山を出て、石田三成本陣の笹尾山正面に陣を移しました(陣場野)。

山内一豊 陣跡

徳川家康 最初陣跡を後に、東海道本線の線路に沿った旧中山道を東に歩いていきます。道すがら、旧中山道の松並木が整っています。

見えてきました。山内一豊 陣跡です。

山内一豊は24歳で織田信長の家臣となります。姉川の合戦・利根坂の戦いで手柄を立て、400石を与えられます。

その頃、妻千代と結婚。信長が軍事パレードを行う時、千代が結婚の時にもってきた大金で馬を買ってやった。それで一豊はおおいに目立ち、出世の糸口になった話は有名ですね。

一豊は信長の命令で羽柴秀吉の家来となり、信長没後も秀吉に仕えました。小牧・長久手の合戦や小田原征伐に手柄を立て、遠州掛川5万石の領主となります。

慶長5年(1600)家康の会津討伐に従軍。その途中、石田三成挙兵の報告が届くと、一豊は徳川殿のために掛川城を明け渡しますと宣言。実際、家康が上方に引き返すに当たって遠州掛川城を交渉なしで通れたことは大きなことでした。

一豊は岐阜城・大垣城の敵と戦い、ここ野上に入ります。一豊ほか八将は桃配山から一里塚までの中山道沿いに布陣し、南宮山の毛利勢(毛利秀元・吉川広家)の監視に当たりました。

しかし家康が桃配山から関ヶ原に進むと、山内一豊も、南宮山の動きがないのを見て関ヶ原に進み、西軍と戦いました。

戦後、もと長宗我部盛親の領土であった土佐20万石に移封されます。

山内一豊が土佐に赴任した際、カツオの刺し身が原因で食中毒が流行しました。そこで一豊がカツオの刺し身を禁止すると、土佐人はカツオの表面だけを炙って食べました。これがカツオのたたきの始まりと伝えられます。

野上行宮跡

さらに旧中山道を東に進んでいくと、右に野上行宮跡の矢印が出ています。行ってみましょう。

野上行宮跡は大海人皇子が壬申の乱の時行宮(仮の御所)を置いた場所です。

野上行宮跡

大友皇子の首実検もここで行われたと伝えられます。南宮山裾野の墓場の奥にあります。草が鬱蒼と茂ってました。

乱の後、行基が行宮の廃材で寺を建てたと伝わります。

野上行宮跡より

垂井一里塚・浅野幸長 陣跡

ふたたび旧中山道に戻り東に歩いていきます。

道路右に垂井一里塚・浅野幸長 陣跡。

垂井一里塚・浅野幸長 陣跡

慶長8年(1603)徳川家康は全国の街道沿いに一里塚を建てさせました。日本橋から一里(4キロ)ごとに街道の左右に盛り土を盛って、その上に榎を植えたのです。

旅人にとっては今どのへんを歩いてるか距離をはかる目安となり、駄賃を決める目安となり、木陰で一休みする憩いの場ともなりました。

垂井の一里塚は街道南の塚がほぼ完全に残っています。国の史跡に指定された一里塚は中山道ではここ垂井の一里塚と、東京都板橋区の志村一里塚の二つだけです。貴重です。

浅野幸長は五大老浅野長政の嫡男。甲斐国府中十六万石の領主でした。石田三成と確執があったため東軍に属し、関ヶ原の前哨戦たる岐阜城攻略に参加しました。関ヶ原合戦当日は、このあたりに布陣し、南宮山の毛利勢の監視に当たりました。

戦後、紀伊和歌山37万6千石に加増移封されました。

吉川広家 陣跡

国道21号線に入り、ファッションセンターしまむらが右に見えたら、手前の道を右に折れます。右に朝倉運動公園を見ながら坂道を登っていきます。

突き当りが岐阜県立不破高等学校。

右にちょっと山道を進むと吉川広家 陣跡。

吉川広家は吉川(毛利)元春の三男。早世した長男にかわって吉川家の家督を継ぎました。吉川家の当主であり同時に毛利家の重臣でした。しかし毛利家当主の毛利輝元とも外交僧の安国寺恵瓊とも反りがあわず、対立ばかりしていたようです。

当主毛利輝元が石田三成の誘いで西軍の大将とされたことは、吉川広家は直前まで知らされていいませんでしてた。三成につく?バカな…それでは毛利はおしまいだ。そこで広家は黒田長政を通して家康にたびたび連絡します。今回のことは石田三成にたぶらかされたので、輝元公のご本心ではないと。

その後、広家は西軍方として伊勢安濃津城の攻略にたずさわったりしましたが、心は家康の東軍に通じていました。

関ヶ原合戦の直前までに、毛利勢は石田三成の要請で南宮山に布陣しました。麓には吉川広家、やや高台に安国寺恵瓊、山頂付近に毛利秀元。南宮山東側の麓には長宗我部盛親隊、長束正家隊が布陣していました。

こうして合戦が始まりましたが、合戦の中心部はあくまでも関ヶ原。南宮山は蚊帳の外に置かれました。毛利秀元はたびたび山を下り討って出ようとしましたが、ふもとの吉川広家は家康に寝返りを密約しており、陣地を動かないため山を下ることができませんでした。

西軍か敗北すると南宮山の毛利勢は散り散りに撤退していきました。結局一度も戦いませんでした。

さて吉川広家が家康に通じたのは毛利の家名を残すためでした。反乱にくみしたのは安国寺恵瓊の策略であって、輝元公は担ぎ上げられただけだ。罪は無いと。

しかし、家康は戦後、吉川広家との密約を無視し、毛利の領土を全没収しようとします。

あわてた吉川広家が交渉し、なんとか周防・長門36万9000石万石だけは許されたと言われています。

明日は「関ヶ原を歩く(五)」南宮大社から、毛利秀元が布陣した南宮山に登ります。お楽しみに。

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耳で聴く 歴史解説音声
「下剋上と戦国時代の幕開け」「天下統一への道」
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応仁の乱、北条早雲。毛利元就。武田信玄と上杉謙信。鉄砲の伝来、キリスト教の伝来までの「下剋上と戦国時代の幕開け」篇、

織田信長・豊臣秀吉の時代から関ヶ原の合戦、江戸幕府のはじまり、大阪夏の陣で豊臣家が滅亡し、徳川家康が亡くなるまでの「天下統一への道 信長・秀吉・家康」篇。

詳しい内容解説はリンク先まで。

■10/27 京都講演「声に出して読む 小倉百人一首」
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第四回。33番紀友則から48番源重之まで。会場の皆様とご一緒に声を出して歌を読み、解説していきます。百人一首の歌のまつわる名所・旧跡も紹介していきますので観光のヒントにもなります。

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