紫香楽宮跡を歩く(一)

こんにちは。左大臣光永です。先日は京都で小倉百人一首の講演をやってきました。来てくださった方々、ありがとうございます!二次会も大いに盛り上がり有意義なひとときでした。次回は4月28日(日)開催です。お楽しみに。

本日から二日間にわたって、滋賀県の紫香楽宮跡を歩きます。

紫香楽宮(しがらきのみや)は聖武天皇が近江の信楽(しがらき)に造営した宮(宮城)です。すぐに平城京に都が戻ったため、3年あまりの短命な宮として終わりました。そのため紫香楽宮の姿は長く謎に包まれていました。しかし近年の発掘調査により、紫香楽宮の姿があきらかになりつつあります。

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紫香楽宮跡(内裏野地区)

JR草津駅からJR草津線・柘植(つげ)行に乗り換え、貴生川(きぶかわ)駅下車。

信楽高原鐵道・信楽行に乗り換え、紫香楽宮跡(しがらきぐうし)駅下車。

徒歩8分。見えてきました。

紫香楽宮跡です。

かつてはこの丘一帯が、紫香楽宮跡とみられていました。大正12年(1923)の調査にもとづき、「史跡紫香楽宮跡」として登録されました。

しかし、昭和46年(1971)、これより北2キロの宮町地区から掘立柱の柱根が三本みつかりました。

これをきっかけに昭和59年(1984)から発掘調査が始まると、奈良時代中期の建物や溝の跡が出てきました。これを宮町遺跡と名づけました。

その後の調査で、宮町遺跡こそ紫香楽宮跡であったことが明らかになりました。

では内裏野地区のこの「紫香楽宮跡」は何なのでしょうか?その後の調査で奈良の東大寺と同じ伽藍配置であることから、聖武天皇が大仏建立のために開いた「甲賀寺(こうかでら)」の跡もしくは、平城京遷都後に建立された近江国国分寺の跡と考えられるようになりました。

中門、

金堂、

講堂、

僧坊

など、各伽藍の礎石が残っています。なるほど、東大寺の縮小版のような伽藍配置です。


東大寺式 伽藍配置


東大寺 金堂(大仏殿)

聖武天皇と紫香楽宮

藤原広嗣の乱

天平12年(740)9月。九州で大宰少弐・藤原広嗣(ふじわらの ひろつぐ)が反乱を起こしました。

なぜ藤原広嗣は反乱を起こしたのか?

それは、三年前の天平9年、政権を握っていた藤原四兄弟が天然痘で死に、かわって政権を握ったのが、橘諸兄(たちばなの もろえ)です。

橘諸兄は政界から藤原氏を締め出しました。そのため藤原宇合(うまかい)の子・広嗣は危機感を強め、藤原氏の巻き返しを狙って、九州で反乱を起こしたのです。


藤原広嗣 略系図

聖武天皇の行幸

天平12年(740)10月、九州で反乱が続く中、聖武天皇はおかしな行動に出ます。突如、平城京を出て、伊勢に行幸したのです。以後、五年間、聖武天皇は平城京に戻りませんでした。

なぜ聖武天皇は5年もさまよったのか?いろいろな説があります。

・藤原広嗣の一味が平城京で騒ぎを起こすのを避けようとした説、
・壬申の乱で天武天皇の進撃したコースをたどることによって、危機意識を高めようとしたという説、
・単なるノイローゼだった説

しかしどの説も決定打に欠け、ほんとうの所はわかりません。

天平12年(740)11月のはじめ、伊賀に滞在中の聖武天皇のもとに知らせが届きます。反乱は鎮圧され、藤原広嗣は処刑されたと。しかし聖武天皇は平城京へ戻りませんでした。

そのまま濃尾平野を北上し、関ヶ原を越え、近江に入り、湖東平野を南下していきます。その間、都を平城京から恭仁京(現 京都府木津市)に移す詔を出しました。これは右大臣橘諸兄の進言を容れたものと言われています。

聖武天皇は橘諸兄を先行させて恭仁京の造営に当たらせました。天皇自身は天平12年(740)12月15日に恭仁京に入りました。


恭仁宮跡(山城国分寺跡)

恭仁京の造営

翌天平13年(741)から天平14年(742)にかけて、恭仁京の造営が行われました。武器を運ばせ、平城京にいた官人たちを引っ越させ、平城京の東市・西市を恭仁京に移転しました。

平城京の大極殿やその回廊は解体され、恭仁京に運ばれました。

その間、「国分寺・国分尼寺造営の詔」という重要な詔が出されています。

紫香楽宮の造営

天平14年(742)2月、恭仁京の造営はまだ続いていましたが、別の動きがあらわれます。

恭仁京から東北へ30キロばかり、近江国甲賀(こうか)郡にのびる道路が作られました。8月、聖武天皇は「紫香楽村に離宮を作れ」と命令を出し、はじめて紫香楽に行幸。以後、翌年の冬まで聖武天皇の紫香楽行幸は計4回におよびました。

その間、聖武天皇は恭仁京の造営と並行して紫香楽宮の造営を進めていきました。ただし紫香楽宮ははじめ正式な都ではなく「離宮」でした。

大仏造営の詔

翌天平15年(743)10月15日、聖武天皇は紫香楽宮にて「大仏造営の詔」を出します。

「国中の銅を尽くして像を鋳造し、大きな山を削って仏殿を建て、仏法のおよぶ世界の人々を広く知識(同志)としよう。…天下の富を持っているものは朕である。天下の権勢を持っているのも朕である。この富と権勢をもってすれば大仏を作ることはたやすい。しかし、それでは願いが成就するのは難しい。…一枝の草、一にぎりの土であっても助力したいものはこれをゆるす」

10月16日、東海道・東山道・北陸道、三道の25カ国の今年の租庸調(税)をすべて紫香楽宮に集めるよう命令しました。いよいよ紫香楽宮で大仏造営にとりかかるための準備でした。

10月19日、聖武天皇は紫香楽宮に行幸。大仏を建立するため甲賀寺(こうかでら)の土地を開きました。民間伝道の指導者であった行基が弟子たちを率いて民衆に参加するよう呼びかけました。

近鉄奈良駅の行基像
近鉄奈良駅の行基像

12月26日、恭仁京の造営は停止されました。恭仁京・紫香楽宮と同時進行では予算がかかりすぎたためでしょう。それで恭仁京の造営は停止して、以後は紫香楽宮の造営に集中しようということになったのでしょう。

ところが、話はこれで終わりません。

難波宮へ遷都

翌天平16年(744)閏正月1日、聖武天皇はまたもおかしなことを言い出します。

「恭仁京と、難波宮と、どちらに都を置くべきか」

また遷都するというのです。役人たちの意見は難波宮・恭仁京で割れました。次に市に使いをやって市民に問いかけると、ほとんどの者が恭仁京と答えました。

それでも聖武天皇は、難波宮へ遷都しました。


難波宮跡

難波宮は飛鳥時代、孝徳天皇の時に都になりましたが、奈良時代にも離宮として使われていました。その難波宮を、正式な都とするというのです。

天平16年2月13日、聖武天皇は難波宮に入ります。2月26日、左大臣が勅を発します。「これより難波宮を都とする。人民は難波宮・平城京・恭仁京の間を自由に行き来して構わない」と。

紫香楽宮へ遷都

さて聖武天皇は難波宮を都とする一方、紫香楽宮の造営も続けていました。

天平16(744)11月13日、甲賀寺にはじめて盧遮那仏の体骨柱を立てて、聖武天皇みずからその縄を引きました。

天平16(744)11月17日、元正太上天皇が難波宮を出て紫香楽宮に行幸します。おそらく聖武天皇が招いたのでしょう。ところが翌天平17(745)正月1日の記事に、驚くべきことが書いてあります。

「にわかに新京(紫香楽宮)に遷都」

なんと、昨年難波宮に遷都したばかりなのに、またも紫香楽宮に遷都したのです。もうわけがわからないですね…

平城京へもどる

しかし4月以降、紫香楽宮では山火事や地震が相次ぎました。恩赦を下したり、お経を読んだりしましたが、効果はありませんでした。

天平17年(745)5月2日、太政官(奈良の朝廷における最高意思決定機関)は役人たちに問います。「どこを都を置くのがよいか」皆が答えました。平城京がいいと。

それで紫香楽宮は廃止となり、平城京に戻ることになりました。聖武天皇はいったん恭仁京に入り、5月11日、平城京に帰還しました。

藤原広嗣の乱のさなかに出発してから4年半ぶりの帰還でした。聖武天皇の車が木津川にかかる和泉橋にさしかかった時、人民は橋の左側からはるかに聖武天皇の車を拝して「万歳」と叫びました。


木津川(泉川)


平城宮阯 復元大極殿

盧遮那仏建立は平城京の東大寺で引き継がれ、天平勝宝4年(752)に開眼供養が行われました。


東大寺 盧遮那仏

その後の紫香楽宮

ではその後の紫香楽宮はどうなったのか?去るにあたって留守官を任じていますので、放置するつもりではなかったようです。


紫香楽宮跡 宮町遺跡

ただし人がいなくなって盗賊が増えたと記録にあります。税収の記録から都でなくなった後も人が住み続けたことがわかっています。

甲賀寺の造営は平城京遷都後も続けられましたが、最後は火事で焼失したと考えられています。

紫香楽宮跡を歩く(ニ)」に続きます。

紫香楽宮跡(内裏野地区) 基本情報
アクセス (1)信楽高原鐵道・紫香楽宮跡(しがらきぐうし)駅下車、徒歩8分(2)新名神高速道路信楽ICから車で10分
料金 周辺自由
営業時間 24時間
定休日 無休
住所 〒529-1802 滋賀県甲賀市信楽町黄瀬
公式サイト 古代の都 紫香楽宮 公式サイト

告知

【終了間近】藤原道長の生涯
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月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。

『おくのほそ道』全章の原文と現代語訳による朗読とテキストpdfを含むのCD-ROMに、メール講座「よくわかる『おくのほそ道』」の配信を加えたものです。

聴いて・わかる。日本の歴史~飛鳥・奈良
http://sirdaizine.com/CD/AsukaNara.html

第一部「飛鳥時代篇」は、蘇我馬子や聖徳太子の時代から乙巳の変・大化の改新を経て、壬申の乱まで。

第二部「奈良時代篇」は、長屋王の変・聖武天皇の大仏建立・鑑真和尚の来日・藤原仲麻呂の乱・桓武天皇の即位から長岡京遷都の直前まで。